古今東西のアートのお話をしよう

日本美術・西洋美術・映画・文学などについて書いています。

生きるとは、自分の物語をつくること

2023-05-31 16:17:02 | 本(レビュー感想)



河合隼雄(1928〜2007)

『京都大学名誉教授、元文化庁長官。専門は分析心理学、臨床心理学、日本文化。 兵庫県多紀郡篠山町出身。日本人として初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学の普及・実践に貢献した。』参照元ウェキペディア



小川洋子(1962〜)

この本のなかで、刺さった部分は、ユング派の分析医である河合隼雄氏と作家で金光教の信者でもある小川洋子氏が語る心身論

『小川 「真実の直線はどこにあるか。 それはここにしかない」と言って、博士が自分の胸に手を当てるところ。
河合 無限の直線は線分と1対1で対応するんですね。部分は全体と等しくな る、これが無限の定義です。だからこの線分の話が、僕は好きで、この話から、 人間の心と体のことを言うんです。線を引いて、ここからここまでが人間とする。心は1から2で、体は2から3とすると、その間が無限にあるし分けることもできない。
小川 ああ、2・00000・・・・。
河合 そうそう。分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ば してしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。
小川 数学を使うと非常に良く分かりますね。
河合 お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂というと。善と悪とかでもそうです。だから、魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にして見ることなんです。 障害のある人とない人、男女、そういう区別を全部消して見る。
小川 魂というのは、文学で説明しようとしても壮大な取り組みになりますけれど、数字を使えば美しく説明できるのが面白いですね。
河合  だけど心理学の世界では、魂と言う言葉を出したら、アウトです。』とユング派の河合隼雄氏が語っている。
もとよりユングの学説は仏教の影響があり、日本人である河合隼雄氏が仏教を享受しているのは自然な流れですね。


浄土真宗の開祖親鸞の言葉を編んだという「歎異抄」を説く、金子大榮氏の解題は、河合隼雄氏の思想に影響を与えているように思える。


身と心とは分かつことができない。それであるから、心のない身は物を感ずることができず、身のない心は理を知ることができない。けれども一応これを分けて言えば、心は分別して道理を知り、身は行動して事実を感覚する。心は天地を包むものではあるが、天地に行われる事象を感受するものは身である。したがって、心に受け入れられる道理は、事実としてこの身に行われるものでなけれならない。
我らは現実に不安と苦悩の裡にあって、それを逃れようとしている。知識と道徳とは、そのために用意されている。しかし、知識は身命の保持をなしうるも生死の不安を除くことはできない。道徳はいかに規定して見ても、自を善とし他を悪とする執情をどうすることもできない。そのためいよいよ煩悩を増長し罪悪を重ねることとなる。
「歎異抄」岩波文庫 解題 金子大栄より


『金子 大榮(かねこ だいえい 1881〜1976)

日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した。』参照元 ウィキペディア




小川洋子は、「二人のルート―少し長すぎるあとがき」でこう書いている。

いくら自然科学が発達して、人間の死について論理的な説明ができるようになったとしても、私の死、私の親しい人の死については何の解決にもならな い。「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのであ る。その恐怖や悲しみを受け入れるために、物語が必要になってくる。 死に続く無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在と折り合いをつけられる。物語を持つことによって初めて人間は、身体と 精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。 人間 は表層の悩みによって、深層世界に落ち込んでいる悩みを感じないようにして 生きている。表面的な部分は理性によって強化できるが、内面の深いところに ある混沌は論理的な言語では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつ なげて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく、そのために必要な混沌が物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不 条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げて ゆくことに他ならない。


小川洋子氏の小説はまさに、この内面の深いところに ある混沌を描き出す物語だろう。

密やかな結晶」は最もよく小川洋子氏の思想を表していると思う。





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小説 ホテル・アイリス

2023-05-16 15:10:30 | 本(レビュー感想)


1994年に「密やかな結晶」「薬指の標本」を発表した小川洋子は、1996年「ホテル・アイリス」を発表する



小川洋子と映画主演の永瀬正敏


「密やかな結晶」で意図的に隠された性的表現は、「ホテル・アイリス」で解放される

物語は、海辺のホテル・アイリスのフロントに座る17歳のホテルの娘、泊り客だった老人と出会う…


『染みだらけの彼の背中を、私はなめる。腹の 皺の間に、汗で湿った脇に、足の裏に、舌を 這わせる。私の仕える肉体は醜ければ醜いほ どいい。乱暴に操られるただの肉の塊となっ た時、ようやくその奥から純粋な快感がしみ 出してくる......。 少女と老人が共有したのは 切なく淫靡な暗闇の密室寄る辺ない男女 の愛から生まれた、究極のエロティシズム。』文庫本背表紙解説より
サディズム、マゾヒズムの愛をテーマにしており、その表現は直截的で、「O嬢の物語」を思わせる

『・・・それを知るためには本箱のガラスを見るしかない。 両腕は手首で縛られ、背中へ回されていた。乳房はぶざまに押しつぶされ、形をとどめていなかったが、触れてもらうのを望むように乳首はうす桃色に染まっていた。膝を折り曲げている紐が、太ももと腰骨につながり、股間を大きく押し広げていた。 わずかでも閉じようとすると、紐がいっそうきつく締まり、一番柔らかい粘膜に食い込んできた。これまでずっと暗闇に閉ざされていた襞(ひだ)の奥に、光が当たっていた。』



【参考】
ハンス・ベルメール写真集より


伊藤晴雨 画譜より




『・・・男はさっきまで暗闇にあった指を、わたしの類で拭った。ねばねばしたもので顔が濡れた。

「気持いいか?」

男は聞いた。 わたしはあごを揺らした。 うなずくつもりなのか、否定するつもりなのか、もうどちらでもよかった。

「気持いいんだろ?」

男は四本の指を一気に口の中へ押し込んできた。 わたしはむせて嘔吐しそうになった。

「さあ、どんな味がする?」

わたしは舌でそれを押し出そうとした。唾液が唇の端を伝って流れた。

「よだれが出るほどいいのか?」 わたしは懸命にうなずいた。

「淫乱」

男はもう一度叩いた。

「はい、いい気持です。お願いですから、もっとやって下さい。どうかお願いします」』

ホテルアイリスより抜粋




・・・ん〜どうなんでしょう?
「密やかな結晶」の方がはるかにエロティシズムを感じる

文学でエロティシズムを表現するのは難しい

そもそも、文学のエロティシズムは言葉によって、無意識の沼の底に投げ込まれた小石を拾い上げられた時に生まれる
意識レベルのエロは“ポルノ”あるいは、経験によって艶笑譚になるだろう
蓮見重彦の「伯爵夫人」やサドのある種の作品はまさに艶笑譚である
その意味では、ホテルアイリスのラストは「文字通りの“オチ”」になって笑える



「密やかな結晶」と読み比べて
みましょう

★★★☆☆

ラストは対照的だ


【参考】映画 ホテルアイリス



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小説 密やかな結晶

2023-05-15 12:59:22 | 本(レビュー感想)

小川洋子(1962年〜) 岡山市生まれ
は、1990年の「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞
以前、1994年の「薬指の標本」を読んで感動しましたが、同年に「密やかな結晶」も出版されていたんですね…

物語は、

『その島では、記憶が少しずつ消滅して いく。鳥、フェリー、香水、そして左足。何が消滅しても、島の人々は適応し、 淡々と事実を受け入れていく。小説を書くことを生業とするわたしも、例外では なかった。ある日、島から小説が消えるま では・・・・・・。 刊行から25年以上経った今も なお世界で評価され続ける、不朽の名作。』文庫本背表紙より



『その島では、記憶が少しずつ消滅して いく。』とは、島の人々に共通して、ある言葉とその概念が消えてしまうのです。例えば、「香水」だとすると、その香りはもちろん、何のためのものか、それにまつわる個人的記憶=物語まで消えてしまい、“小瓶に入ったただの水”になってしまうのです

住民は最初は戸惑い、懐かしがったりするが、“消えてしまったもの”は意味がない、しょうがないと、川に流したり、焼いたりして、二三日後にはそのことさえ忘れてしまい、誰も気にかけない

島の住民の中に少数だが記憶が無くならない特別な人がいる
記憶に関わる事を取り締まる「記憶狩り」を実行する秘密警察、に連行されて亡くなった“わたし”の母もその一人だ

毎日、何かが消えて行く島で
“わたし”の両親は亡くなり、兄弟もなく一人で暮らしている
“わたし”は小説家で、これまでに3冊の本を出した
3冊とも“何かをなくす”テーマだ

“わたし”が今書いている小説は、タイピストとその恋人の物語
“わたし”の担当の編集者R氏は、記憶をなくさない人だった
やがて、R氏は秘密警察にマークされ“わたし”が自分の家の秘密の部屋に匿うことになる…

小川洋子はこの小説を書くにあたって、「アンネの日記」をいつも手元に置いていたそうだ

ある日突然、ナチスドイツによって消されていくユダヤ人の記憶とユダヤ人自身
街の人々は、最初は理不尽さに憤ったが、次第に見て見ぬふりで無かったことと、無関心に慣れていく

アンネは、隠れ家で日記を書き、記憶を物語として残すことで、何もかも奪っていく「ナチス・ドイツ」へ抵抗した

「アンネの日記」が「密やかな結晶」の重要なモチーフになっている


私は一つの読み方として、

小川洋子は本質的に「エロティシズム」の小説家であり

密やかな結晶は、性的な言葉や

性的な表現を意識的に排除して

人間の無意識にあるサディズム、マゾヒズムを物語にひそませているのではないかと思っている それは、性的でもあり政治的でもある


“わたし”が書いているタイピストとその教師で恋人の物語では、彼によって、わたしの声が奪われ、言葉を打つタイプも壊れてしまう

彼によって塔の秘密の部屋に監禁され、彼が作った服を着せられ、煌々とした電灯の下、全裸にされ体の隅々まで彼にふかれる、彼が好きなように何でもされる、しかし、わたしはその部屋から逃げ出そうとはせず、ひたすら彼の登場を待っている

ついに、わたしは彼の言葉以外は理解できない、まさしく「彼のモノ」になってしまう


一方、小説家の“わたし”は、出産をひかえた妻がいるR氏を秘密警察から守るため、妻から引き離し、自宅の秘密の部屋に匿う
毎日、食事の世話をし、トイレの水をたし、体を洗うお湯を用意し、洗濯をする
書きかけの小説をR氏に見てもらうため秘密の部屋に行く

“わたし”はタイピストの小説を執筆していたが、ついに「小説」が消滅した
R氏は消えたものは、こころの奥底に沈んでおり(無意識領域)、頭で考えるのではなく手を動かして拾い上げる(自由連想法・自動記述)、精神分析医の手法で執筆をすすめる

島に地震は発生した日、“わたし”とR氏は結ばれる
“わたし”は秘密の部屋と会話のため繋がっているパイプに耳を添え、R氏がタライの湯で体を洗う音を聞き、R氏の体の部位を一つづつ思い出す…
サディズム、マゾヒズムが直接的な言葉を避け、端麗な文章で描かれる

作品には、精神分析の影が色濃く漂う、たとえば、“わたし”が書く小説の主人公は、七、八歳の時、従兄の男の子と廃墟の高い燈台の階段を上っていく、主人公の女の子は下にいる男の子にスカートの中を覗かれる事に気が気でないが、下を観ることが怖い… 「昼顔」のトラウマのようだ
フロイト、ユングならば、即座に分析し性的な意味付けを行うだろう

そして、人間が、生きるために必要な物語(化)がもつ重要性、“死に至るまでの生の称揚・エロティシズム”(バタイユ)と、モノ・無機質を志向する“死の欲動・タナトス”(フロイト)が描かれている
それは、川端康成が描く“魔界”にも通じる


いろいろな読み方ができる
小説であり、稀な傑作だと思う
★★★★★

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小説 “伯爵夫人”

2023-04-20 15:25:14 | 本(レビュー感想)

『傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉を小走りにすり抜け、劇場街の雑踏に背を向けて公園に通じる日陰の歩道を足早に遠ざかって行く和服姿の女は、どう見たって伯爵夫人にちがいない。』「伯爵夫人」冒頭



三島由紀夫賞(2016年6月)発表時の

“不機嫌な会見”が話題になった

蓮實重彦さん


氏は受賞スピーチで、

『この授賞式が、「自分の気に入ったこと」でないのはいうまでもありません。それは、どこかしら「他人事」めいており、この場は「どこでもない場所」を思わせもします。』

そして、受賞後の「産経ニュース」(2016年8月)によると、好調な売れ行きに、『「伯爵夫人」を「女性の方が真面目に読んでくださっているようで、それは非常に感動的でした」』と話している。

「伯爵夫人」のあらすじは、

『ばふりふりとまわる回転扉の向 こう、 帝大受験を控えた二朗の前 に現れた和装の女。「金玉潰し」の 凄技で男を懲らしめるという妖艶 な〈伯爵夫人〉が、二朗に授けた性と闘争の手ほどきとは。 ボブへアーの従妹 ・蓬子や魅惑的な女たちも従え、戦時下の帝都に虚実周 到に張り巡らされた物語が蠢く。 東大総長も務めた文芸批評の大家 が80歳で突如発表し、 読書界を騒 然とさせた三島由紀夫賞受賞作。』文庫本背表紙より



男装のボブヘア ルイーズ・ブルックス


“金玉潰し” “青臭い魔羅” “熟れたまんこ” “父ちゃん、堪忍して” “ぷへー” というお下劣な言葉や表現、伯爵夫人の回想の卑猥さに、格調と猥雑が入り乱れる…


『そのうめき声が相手を刺激したものか、背中では魔羅の動きが加速する。つとめて 正気を保とうとしながら、この姿勢では「熟れたまんこ」を駆使することもかなわず、 やがて肛門の筋肉も弛緩しはじめ、出入りする魔羅に抵抗する術さえ見いだせないまま、ふと意識が遠ざかりそうになる。あとはただ、倫敦の小柄な日本人を相手にした ときのように、父ちゃん、堪忍して、堪忍してと、小娘のように声を高めてしまうことしかできない。』


『わたくしのからだを小気味よくあしらいながら、足の小指と薬指のあいだまで舌と 唇で念入りに接してまわり、熟れたまんこに胸の隆起にも触れ はせず、こちらの呼吸の乱れを時間をかけて引きよせようとするところなど、 久方ぶりに本物の男と交わっているという実感に胸がときめきました。』「伯爵夫人」より


女性にも人気が高いという「伯爵夫人」、その理由は「春画」に通じるのではないか…

「ユリイカ」(青土社)2016年1月臨時増刊号で、ジェンダー論・女性学などを専攻とする社会学者の上野千鶴子氏と、江戸文化研究者の田中優子氏が、女性が「春画」に魅せられる理由について語り合っている。

上野千鶴子(1948〜) 東京大学名誉教授
田中優子(1952〜) 法政大学前総長(2014〜2021) 法政大学名誉教授
歌麿 歌満くら 第一図

そのなかで、喜多川歌麿の「歌満くら」と葛飾北斎の「喜能会之故真通」について語っている部分が興味深いので引用します。

北斎 喜能会之故真通

『田中「喜多川歌麿の『歌まくら』に河童に犯されている女性の画があります。水面下に河童と女性、そのそばの石の上に女性が描かれている。あれは、二人の女性ではなくて、石の上の女性の想像や欲望が水面下に投影されている。こういう春画をみて楽しむというのは女性だけなのかもしれませんね。女性はこの春画を見て自分の快楽の一部を思い出す。そういう連想ができる。別にタコや河童だからというわけではなく、表情や身体の表現からそれを連想するわけです」女性たちが絵を見ながら、こうして「性」をめぐる連想ができるのは、「春画」が女性の快楽を肯定しているからに他ならない。』

『上野「春画には女の快楽がきちんと描かれています。『喜能会之故真通』でも快楽はタコの側ではなく女の側に属している。もうすこし込み入った分析をしていくと、「快楽による支配」が究極の女の支配だと言うこともできますが、快楽が女に属するものであり、女が性行為から快楽を味わうということが少しも疑われていない。この少しも疑われていないということが他の海外のポルノと全然違うところなんです。能面のような顔をした、男の道具になっているとしか思えないようなインドや中国のポルノとは違う」』


『女性はこの春画を見て自分の快楽の一部を思い出す。』

『快楽が女に属するものであり、女が性行為から快楽を味わうということが少しも疑われていない。』

田中氏と上野氏の「春画」に対する“女性の見方”は、そのまま「伯爵夫人」への評価に繋がるような気がする

“伯爵夫人”が二郎をなじる、江戸の“べらんめい”口調について蓮見氏は、

『「一つには、ある時代の日本人の言葉をつなぎ留めておきたいという気持ちがありました。昭和10年代“に私が聞いていた母や父や親類などの言葉が、あまり最近の文学には出てきませんからね。無駄な反復も普通は避けるべきなのでしょうが、ええい、構うまいと。言葉が言葉を引きずり出してくれた、という感じでしょうか」』産経ニュースより


『まだ使いものにはなるめえやたら青くせえ魔羅 をおっ立ててひとり悦に入ってる始末。これはいったい、なんてざまなんざんすか。

そんなことまでやってのけていいなんざあ、これっぽっちもいった覚えはござんせんよ。ましてや、あたいの熟れたまんこに滑りこませようとする気概もみなぎらせぬまんま、魔羅のさきからどばどばと精を洩らしてしまうとは、お前さん、いったいぜん たい、どんな了見をしとるんですか。』「伯爵夫人」より



そして氏は、

『とはいえ、この小説は虚心坦懐(きょしんたんかい)にエンターテインメントとして読んでもらえたらと願っている。「呵々(かか)大笑するかはともかく、にんまりおかしいというところがあれば、満足ですね。今は笑いの質があまりにも落ちているので、これが高級な笑いかどうかはともかく、少なくとも文学には笑いがあるということを分かっていただきたい。きまじめであればあるほどおかしいというものが、ここにはあるような気がします」』産経ニュースより


…と結んでいる。



白いコルネット姿の尼僧が手にするココア缶、盆にもココア缶、無限に続く…



この著者の目論見は見事に成功し、ラブレー、サド、バルザック、フローベールなどフランス伝統の艶笑滑稽譚につらなり、


アポリネールの「一万一千本の鞭」では、稀代の蕩児を打つ最後の鞭音が満州国で響き、伯爵夫人の出奔は、『音としては響かぬ声で、戦争、戦争と寡黙に口にしているような気がしてならない。』と結ばれる。



ルイス・ブニュエル 昼顔 1967年


二郎と伯爵夫人の一昼夜は、「昼顔」の白日夢のようでもある…

【作者のプロフィル:蓮實重彦】

 はすみ・しげひこ 昭和11年、東京生まれ。東大仏文科卒。東大教養学部教授をへて東大総長。専門は表象文化論。文芸批評のほか、映画雑誌「リュミエール」の編集長を務めるなど、映画評論でも活躍。

立教大学でも教鞭をとり、教え子に

映画監督の黒沢清、青山真治、周防正行、ロックミュージシャンの佐野元春などがいる。

日本における艶笑滑稽譚の傑作
お勧めします 
(不快になるかどうかの責任は持ちかねます)

★★★★★

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“ことり” 小川洋子

2023-04-05 15:24:45 | 本(レビュー感想)



『春の東雲のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君は彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。』岡倉覚三(天心) 茶の本 花より


(ネット画像借用)

岡倉天心の詩情あふれる名文です。最新の研究によると、実際にシジュウカラが単語を話し、文法も操っている事が証明されています。



『人間の言葉は話せないけれど、ことりのさえずりを理解する兄と、兄の言葉を唯一わかる弟。二人は支えあってひっそりと生きていく。やがて兄は亡くなり、弟は「小鳥の小父さん」と人々に呼ばれて…』背表紙より



小川洋子の“ことり”は、小鳥の世界と兄弟の世界が交わる境界を描いています。
そこは、小鳥と兄弟の小さく、閉じられた空間ですが、作者は観察者の目で、博物画のように静謐な世界を描きます。


“小鳥の小父さん”と図書館司書の出会いは、恋するもならば誰しも思いあたる、相手のちょっとした言葉や態度を、自分にむけた意味あるサインだと妄想するエピソード。バラ園でのデートを美しく、ちょっと残酷に語る。

兄弟と小鳥のユートピア的世界は、兄の死、弟の失恋で次第に現実に侵食されて行く。


「鳥獣保護法」の改正により、“一切の野鳥の捕獲、飼育を禁止する” ことになったが、その背景には、賭博性がある「メジロの鳴き合わせ」がある。よく鳴くメジロは捕えられ、高値で売買される。


 
“小鳥の小父さん”は囚えられた小鳥を助けなくてはならない…


“ことり”誕生の背景には大江健三郎のご子息大江光氏の存在があったのではないか。
大江健三郎逝去で思い出しました。
小説「個人的な体験」は知的障害のある息子の存在をテーマにしている。

『大江健三郎の息子さんで、作曲家の大江光さんは脳に障害を持って生まれ、幼児期には言葉をほとんど話さなかったが、音の記憶に関しては並はずれた能力を持っていたという。CDに録音された野鳥の声をみんな覚えてしまったそうだ。あるとき、父は軽井沢で6歳の息子が「クイナ、です」と言うのを聞いて驚いた。それが光さんが生まれて初めて発した言葉だったからだ。』ネット記事引用




★★★★☆

小鳥たちの会話に耳を
澄ませてみましょう



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