『春画先生』に中途半端で違和感を感じたのは…
『春画』のあっけらかんとした『性=生の肯定=女性の性欲の肯定=男色の肯定』と西洋的原罪『性=生の否定=女性の性欲の否定=男色の禁忌』は本来、交わらないものであるが、西洋化した現代の日本から描くと、どうしても“ごっちゃ”になってしまう
そうして、『春画先生』では『春画』を説明するのにブニュエルの『昼顔』が登場するのである…
(双子ネタでシャイニングもある)
『昼顔』はルイス・ブニュエルが、精神分析理論(極めて西洋的な)で、抑圧された『性』の開放を格調高く演出している
『春画先生』は『春画』の本質である “笑い絵” “勝ち絵” に倣って、コメディを目指したが…
振り切れておらず、笑えるところがない
春画の芸術性と”笑い絵“を共存させたコメディを作るなら、
蓮實重彦の『伯爵夫人』なみの
力量が必要であろう…
しかし、それはとても困難なことだ
『まだ使いものにはなるめえやたら青くせえ魔羅をおっ立ててひとり悦に入ってる始末。これはいったい、なんてざまなんざんすか。
そんなことまでやってのけていいなんざあ、これっぽっちもいった覚えはござんせんよ。ましてや、あたいの熟れたまんこに滑りこませようとする気概もみなぎらせぬまんま、魔羅のさきからどばどばと精を洩らしてしまうとは、お前さん、いったいぜんたい、どんな了見をしとるんですか。』蓮實重彦「伯爵夫人」より
『春画先生』は極めて困難なテーマに挑戦した映画として振り返ると、見方が変わってくる
★★★★☆
力作として、お勧めします