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ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き、琉球諸島を巡る基地・戦争への道を問いかけ、自然を語る。●無断転載、お断り。
 

50年余り政治に関わってきた(Note 1)(20200723)

2020年07月23日 | 歴史から学ぶこと
◎注:Noteなので、暫定稿です(随時、Ⅱ、Ⅲバージョンに改訂)。        2020年7月23日記

(初めに)
 私は1970年から学生運動に係わり、今年で50年を迎えた。前史である自然保護運動を含めれば1967年から53年となる。原点とも言える幼少時の記憶から数えれば60年ほどになるはずだ。今改めて、何がどう問題だったのか、考え直してみたい。以下はNote 或いはスケッチにふうに時代の歩みと自分の歩みをクロスさせながら考える。
Ⅰ:1970年前後 学生運動と反戦運動を中心に
①日本経済、高度成長まっしぐらの時代
 日本列島のあちこちが大規模開発等によって自然が壊され、「公害」と総称された企業害がまき散らされていた。あのモクモクが経済成長の象徴であるかの時代だった。1964年の東京オリンピックや1970年の大阪万国博覧会の開催も経済成長の起爆剤とされた。1964年の東海道新幹線の開通や1970年の東名高速道路の開通で、新たな公害が起きたのだった。
 私は東名高速の開通によって、私の野鳥観察のフィールドであった世田谷区岡本町のゴイサギの森が潰されていったのをまじかに見ていた。数十羽のゴイサギの営巣地(杉林)の近くに東名が通り、営巣放棄にいたったのだ。
②1970年大学入学、70年反安保とベトナム反戦の時代に遭遇
 米国のベトナムへの介入は訳が分からないし、ジェノサイドはあんまりな仕打ちだった。水田を森林を丸ごと、爆弾やナパーム弾、化学兵器で潰し、村民を叩きだしていく戦争。そこに「正義」のかけらもない。日米安保は正に米軍の戦争をバックアップしていた。これにも「正義」のかけらもない。
③1972年を境に学生運動、反戦運動は大きく後退
 権力の組織的な弾圧が1969年頃から激しくなった。対抗的であれ、爆弾(連合赤軍)や銃撃戦(京浜安保共闘)を選ぶ党派も出てきて、壊滅を加速していった。
④1972年5月15日沖縄返還を巡る闘い
 日本での沖縄闘争には、党派党争の匂いがつきまとった。これも今だから言えることだが、日本復帰歓迎派の社会党・共産党。沖縄奪還を唱えた中核派。「沖縄返還協定粉砕」を唱えたその他の新左翼各派・ベ平連(細かく言うときりがないので大雑把な把握)。私は最後のベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモに参加した。
 総じて言えば、当時の左翼のレベルは、沖縄がどうなっているのか、どうなっていくのかへの関心より、「我が党派活動」に沖縄を利用するものだった。
 当時の私はよくわからないまま、自分で問いを立てることができなかった。一番の問題は、沖縄と関わり、沖縄を知る気があったか否かだ。懺悔の値打ちもありゃしない、だった。
⑤ベトナム反戦最期の大衆運動=相模原戦車搬出入阻止党争へ
 1972年夏から秋に起きた相模原戦車搬出入阻止闘争は、神奈川県相模原市内にある在日米軍の相模原補給廠が、ベトナム戦争でオシャカになった戦車・装甲車を修理し再びベトナム人民を殺しに行くのだ。これを止めるのは明らかに正義だと確信していた私たち。私も何度も通った。
 この中で、幾つもの看過し得ない事象をみた(A)党派間闘争(内ゲバ)の時代を象徴する組織的戦闘の影。私の目の前では衝突は起きなかったが、何度もはらはらさせられた。(B)9月(装甲車の搬出)と11月(戦車の搬出)が大きな闘いとなった。機動隊5000名と対峙する労働者・学生・市民5000名の衝突。機動隊は未だ見えるからいいのだが、怖いのはこちら側に夜陰に乗じて紛れ込んでいる私服警察だ。奴らが出てきて、あっというまに逮捕していく。こういう動きを見極めなければ、下手に動けなかった。(C)機動隊と対峙している間、歌を歌うのだが、こちら側の持ち歌が余りにも少なかった。遂にあろうことか軍歌を歌い出す奴が出てきた。私は「ナンセンス!」と一喝。一瞬座は白けたが、私が軍歌を止めた。戦争をやめろという場で軍歌はないだろ! 民衆の側の文化の貧困と、あの侵略戦争を支えた文化を克服できていない民衆側の問題。今だからこう言えるが、不思議な光景だった。
 様々な問題を経験することになった相模原闘争だが、私は現場を抱える闘いの重要性を知り、これが今に繋がる闘いだったと考えている。
⑥日本における反戦大衆運動は殆ど消えていった
 この頃、私が脱政治(転向)に走らなかったのは何故だろう。学内での運動を担っていたから、たまたまある党派の友人がいたから、自然保護運動なども持続しており、おかしいものはおかしいと考えたからだろう。
 しかし「総括・解体・再生」などとして総括してみたが、しっくりこなかったのはどうにも否めない。党派頼みの成り行きに任せてしまっていた。
 もっともその後(1978年)、その党派が分裂し、脱(だつ)党派に。しかしここもいいかげんだった。ただ、内ゲバ(党派党争)に明け暮れていたら未来はない。そんなことばかりやっていたら、人間の解放なんてありえない。内ゲバで私は、他人を傷つけたり、傷つけられなかった。だからやり直しがきいた。軍事を正当化する恐ろしさ、間違いを痛感している。これは沖縄の非暴力の闘いに繋がっている。
⑦イデオロギー闘争について(ひとつのまとめ)
 日本の戦後左翼は余りにもイデオロギー闘争に明け暮れてきたんじゃないか。旧左翼対新佐翼、中核対革マル、3派系対革マル、革マル対解放派、そして数々の組織内分裂。呆れるばかりだ。切磋琢磨するのであれば未だマシだが、俺が俺が。現実を変えるのが共産主義であり、マルクス主義のはずだが、真逆。自分らに都合が良いイデオロギーを最優先する。最低だ。マルクス主義の大原則を損ねているのだ。
 私は唯物史観を好まない。生産力と生産関係の矛盾が歴史を変える。ほんとうかい? 生産力史観こそ諸悪の根源じゃないのか。歴史必然ならば、誰が苦労しなければならないのだ。ひとり一人が変わらなければならないはずだ。もう一つ追加。やはり差別問題の難しさ。内心に張りついているし、人間の中の差別は大いなる曲者だ。
 私はこの意味で「マルクス主義」も「左翼」も捨てました。いつの頃だったのか、最早忘れたが。自分流であり、アイデンティティが重要だし、人が人として生きやすくなるために生きていきたい。
《まだまだ続く》
 次の項は「Ⅱ:政治を取り戻すために」


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