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ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き、琉球諸島を巡る基地・戦争への道を問いかけ、自然を語る。●無断転載、お断り。
 

「5.15」を前に、沖縄県議選に注目しています(20200513)

2020年05月13日 | 歴史から学ぶこと
 おはようございます。今朝の名護は晴れています。沖縄はもう梅雨に入り、雨や雷雨の季節を迎えています。「5・15」平和行進というと大雨の中を歩いた記憶が蘇ります。
 今年はコロナ禍でそれもない。新聞には「5.15」に向けての記事が散見されています。5月15日は毎年やってきますが、これは沖縄が日本に「復帰した日」と言われています。1972年5月15日。

 今思い返せば、あのころの私は「沖縄返還協定粉砕!」のデモ隊列(東京)におりました。しかし日本の中での沖縄を巡る闘いは日米安保との闘いであり、ベトナム戦争反対の闘いであって、「復帰の実現」と言おうが、「沖縄奪還」といおうが、「返還協定粉砕」と言おうが、沖縄を巡っての政治スローガン以上のものではなかったのです。誠に慚愧に堪えません。慚愧に堪えませんが、ここから振り返るしかない。
 どうしてだろうと考えています。他人ごとだったからです。私が生まれてそれまでの間、沖縄は異国だったのですから、全然知らなかった。嘉手納基地から北爆が行われていることと、「異国情緒」としての沖縄。真っ二つに切り裂かれていたのです。
 その後も私は、沖縄のことを深く知ろうとしませんでした。たまたま1989年5月に沖縄へのツァーに参加しないかと呼びかけられて、ホイホイと参加したのが運の尽き。「日本」の中で見えなくなっていた日米安保は沖縄に行けば見えると言われて、それならば行くと行ったのです。興味津々でした。反日米安保的物見遊山。確かに米軍基地凄いなと思いました。これは何だろうと。
 もしも私はこのとき一回しか沖縄に行っていなければ、今の私はありえません。ただ、87年、88年にフィリピンに行ったのが大きなベースになっていました。反米・反独裁の民衆の闘いを見、交流していました。巨大な米軍基地もこの目で見てきました。だから私の中で、フィリピン・沖縄・日本と繋がっていったことは間違いありません。
 
 1972年から48年目の沖縄で県議選(6月7日投開票)が行われます。どういうことになるのか、否、どうしなければならないのか、私もここをしっかりと考えていきます。私は2011年以来、「島嶼防衛」って何だと考えてきましたが、益々米日一体でのの軍事化に組込まれていくのか、この重い足を振り払いながら進むのか。
 来る県議選のことにも時々触れながら、私はこのブログを書いていきます。ご注目ください。


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