ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

あのさー差別は深い、人権は軽いのが「日本国」なのだ(20231225)

2023年12月25日 | 反差別、人権とは?

 日本国内で、人権が話題にされることは、少ないことは確かな事実だろう。しかし○○差別のようなことはいくらでもある。政治家に差別を「公言」して恥じない奴らも少なくない。日常語の中に、差別が隠れていたり、そのまま平然と語られている。それを聞いた被差別者は、びびっときて、「この野郎」と思うこともあるだろう。大概差別した側が居直るから、そうした経験が積み上がれば上がるほど確信犯になっていく。差別された側は、諦めるか、差別への反感を内面化させていく。真正面から闘うようになる人は、少ないようだ。

 ここで私の体験をひとつ。以前にも書いたことがあるが、世田谷時代の私宅の隣は児童養護施設だった。親が不在で、養育できないために預けられた子どもたち。私は彼ら、彼女らと遊んでいた。無論学校も同じだ。60年代前半のことだ。1962年、私の母親も病死してしまい、私も似た境遇となり、益々お世話になった施設だ。私にとって、一番足を向けて眠れないこどもたちであり、先生であり、施設だった。

 1961年のこと(私が小学4年生)だと思う。学校で盗難事件が噂されていた。そのとき、「あの施設の子だろう」と噂されたのだ。何の根拠もないのによくも言うものだ。そんなことを言うのは大人だろう。教員、父母。私はただ隣に住んでいるだけで、悔しかった事を覚えている。

 こうしたことが人権侵害だ、差別なのだと知ったのは、随分経ってからのことだ。施設の子はお金がない、道徳心もない、平気で身勝手なことをするに違いない、と思うのだろうか。集団生活は、逆に身勝手なことはできにくいし、お互いを労り、慰め合う。無論施設によって如何なるあり方が共有されているかで違うから、一概に言えない。しかし私が付き合っている子たちにそんな奴がいるとは思えなかった。ここに私は大人社会の偏見を唾棄すべき事だと学んだのだ。「教訓のⅠ」みたいに。

 随分時が経ち、息子がまだ保育園時代に、世田谷の地域の「障害者」運動の場に連れて行ったことがある。車椅子の間に彼を置いたら、泣きだした。暫く私はほっといた。うるさかったが。しかしこうして子どもなりに、この「空間」を知るのだ。この人たちも生きているんだと。私は何も説教しなかったが、こうした経験が人生の土台になっていく。高校生ぐらいからボランティア活動に参加し出し、夏のサマーキャンプにも行くようになっていった。初めはまだまだ対応が分からず、何かと言えば私に聞きに来ていたが、2、3年経験したら、もう一人前になっていった。後輩ボランティアを教える立場になっていた。

 何事も経験だし、知らずに決めつけたらダメだ。分からないことは、体験しながら学ぶ・考えるべしだ。

 人権後進国ニッポン。何故だろうという議論もある。それは簡単だよ。戦前の「皇国」を未だに絶対化したい自民党系政治家達がこの国の権力中枢にいるからだ。あの侵略の足跡を隠し、美化したい連中がいるのだ。戦争も差別も都合良く解釈したいのだ。そうした差別の心はひと繋がりだ。こんな国に人権教育は不可能だ。沖縄に対する鈍感ぶりもそうだろう。ヘイトが蔓延るのも根が深い。

 何しろこの国は明治維新の頃から、日本は植民地にされたくない、欧米諸国と対抗し、軍事的な勝者になるのだと息巻く野心家がいた。だから、今日の米国の日本国への植民地扱いにも鈍感であり続けている。力の支配(の価値)に逆戻りしていく日本国をみていると、ふたたびどこまでも酷いことをする時代になるだろうかと予感し、危惧する。どうしたらいいのだろうか。 



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