馬場明子著「誰も知らない特攻-島尾敏雄の『震洋』体験」(2019年9月刊)を旅先で読了。
かっての皇軍の特徴として(本性?)に特攻攻撃をあげることができる。自身の肉体と精神を賭けて自爆攻撃するやりかただ。この一番有名な部隊が「神風(しんぷう)特攻隊」だ。これは空の特攻であり、海の特攻は「回天」と「震洋」があった。また、ドデカイ特攻は戦艦大和の最後の闘い(沖縄に向かおうとした)もある。沖縄戦を顧みれば、爆弾を腰に巻き戦車に体当たりさせるなど、自爆攻撃は通常のことだった。何故こんなことがまかりとおったのだろう。
私が今更のように何故こんな本を読んだかと言えば、「我が軍」(安倍語)を中東に派兵させ、「島嶼防衛」と称し、「専守防衛」から敵基地攻撃へと軍事力を増強する中で、政権担当者が過去を何一つ総括していないことを実に恐ろしく思うからだ。
島尾敏雄はこの第18震洋隊長だった男で、震洋隊時代に加計呂麻島に、また戦後も奄美大島に暮し島尾文学をなした人だ。私も戦後50年頃、読んだ作家のひとりだ。震洋関係の作品に「出弧島記」(1949年)、「出発は遂に訪れず」(1962年)、「私の文学遍歴」(1966年)、「魚雷艇学生」(1985年)、「震洋発進」(1987年)があるという(私は前2冊を読んだ。「ちくま日本文学全集」の島尾敏雄ももっている)。
ただし私が震洋なる特攻兵器をみじかに認識したのは、琉球諸島を巡ってのことだ。まだここ10年程度のことなのだ。宮古島や石垣島でこの跡がそうだと教えていただいた。
震洋とは爆弾を積んだ小型木製ボート。これで夜間に敵艦めがけて突っ込んで撃沈させるという単純な発想。しかし単純すぎて2万人もの特攻隊員が生き残ったのだ。自爆できず(出撃しても敵艦を発見できず)、あるいは自爆攻撃をかける前に敗戦を迎えたからだ。また特攻死よりも、圧倒的に事故(爆発)死や敵に見つかり沈められた人が多いそうだ。
当時の「大日本帝国」が人間の命をどれほど軽く扱っていたのか、また人々にそれを受け入れさせていた巨大な力を、私たちは想起しなければなるまい。しかし本書には、こうしたことを解明しようとするエネルギーが希薄なようだ。確かに既に体験者で生き残っている人が殆ど居ないか、口を塞いだままだという壁の前で立ち往生しているのだ。死人に口なしだが、生き残った人たちも生き恥をさらしたくないようだ。戦友が亡くなっているのに自分が生き残った、という痛苦なる思いを私は理解しがたい。お国のために命を捧げる、それしかないと洗脳されて、戦後75年、こうした魔法がまだ解けていないのだ。精神的な暴力の傷跡なのだろうか。国家による洗脳・教育の恐ろしさは、様々な形を通して肉体の奥に刻まれてしまったようだ。殆どの人は、生き延びても人間の心を回復できぬまま戦後を生き、死んだのだろうか。
沖縄戦の経験から言えることは、良き聞き手がいなければ、話せないのだ。あの事実を押し黙ることや、「戦友」という共同体の中にあるかぎり、国家に捧げた生から抜け出すことは不可能だ。彼らの口が重いのは、当然と言えば当然だ。しかしここを開かない限り、私たちが確たることを見いだすことは、絶望的ではないか。騙されたまま、また騙されていくしかないのか。私たちは同じ過ちを繰り返さずに生きていけるのだろうか。
本書にある震洋隊の国内配置図を見ると、琉球諸島、九州、四国ばかりか、房総半島、三浦半島、伊豆半島などの「帝都防衛」のためと思われる基地が少なくないのだ。そうだったのか。ここで私はハタと考えた。沖縄戦は本気で死ぬまで戦えと、「皇国の防衛のための時間稼ぎの戦争」が沖縄に発令され、押しつけられた。20万余りの人々が殺された。他方で、「本土決戦」が叫ばれ、準備されたが、それは起きなかった。この事実は重い。現実に起きた、強いられた自爆戦たる沖縄戦と、準備されつつも可能性に過ぎなかった「本土決戦」。歴史にif はないのだ。沖縄戦からヒロシマ・ナガサキ、ソ連軍の軍事介入による戦争等によって、「皇国」がかたちを変えながらも生き延びたからだ。そうして75年の今がある。
私たちは島尾文学にもう一度目を向ける意味があるのかもしれない。読み直したら改めて書いていく(できるかな)。