2020年8月。1995年が敗戦後50年だったから、あれからも25年が経ったのだ。私が戦争を考え始めたのは1970年だから、敗戦後25年のことだった。
間違いなく戦争の影は風化している。記憶している人も亡くなっていく。沖縄にいれば、戦争の影は色濃く残り、記憶している人が生きている。しかし、大半の「日本国民」は、戦争の影を殉国・靖国の虚妄の中に見ているようだ。自分事として殆ど残してこなかった。ごく一部の語り手を除き。
そもそも「敗戦」という言葉が封印されてしまい、「終戦」だと語られてきた。「終った終った」と安堵してオシマイ。オシマイにできてしまったのだ。
沖縄ではこうはいかなかった。皇国が家族を家族に(血縁・地縁の中で)殺させたから、終ったからなかったことなどにできないのだ。できるはずがない。沖縄の地上戦とはこういうものだった。だからこそ、地域で、或いはジャーナリズムが語りを拓いてきたのだ。
沖縄戦は現実に起きたが、「本土決戦」は準備されただけで終った。「本土決戦」は、沖縄戦を強いることによって回避されたのだ(もしかしたら、私も「本土決戦」があったら、生まれていなかったかもしれない。今頃気づいた。あぁボンクラ)。しかし、ヒロシマ・ナガサキが8月6日と9日に爆裂した。米国は人体実験を大々的に行いながら、戦後を見据えて対ソに備えた。「あれで戦争を早期に終えることができたのだ」と、原爆攻撃の口実にまで仕立てた。「大日本帝国」を牛耳ってきた連中は、米国の科学力経済力に負けたのだと、反省のかけらもなかった。むろん侵略戦争であったことも忘却の彼方に追いやってきた。それを真に受けてきた「日本人」は、忘れっぽい。
戦後75年の今年、世界的にコロナ禍に覆われている。節目の年なのに、思い出すきっかけがコロナ禍で奪われている。戦後50年の時、ご一緒に語らった先輩達が亡くなっており、隣に居なくなっている。この人もあの人も。私は沖縄に来ているから、沖縄の話しを聴くことはできる。首里城の直下にあった第32軍壕の保存の話しも現在進行形で議論されている。
沖縄にいたら戦争の話しを避けて通れない。「日本」では素通りが当たり前のようだ。このギャップはデカイ。過去から学ばないから同じような過ちに向かっている。
現にコロナ禍で置き去りにされていく人々。Go To Travel て、何処に向かう旅だ。また、死地に向かう旅になるのか。かなわない。
戦後75年も経ちながら、大半の「日本人」は生と死の区別もつかないのだ。邪教が骨身に染みこんでいるからか。敗戦後75年だと自覚できないからなのか。恐らく両方が作用しているのだろう。あぁ、情けない。
敗戦後75年の8月に少し思うことを書いてみたい。