2012年3月7日、観音寺競輪場正門前にて。左から石田雄彦さん、山本清治、戸上守、井上茂徳。
合掌 (連下 恵一) 2015-11-08 20:36:46 石田雄彦氏逝去 http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2015/11/08/kiji/K20151108011472600.html
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【競輪】1160勝の石田雄彦さん死去/競馬・レース/デイリースポーツ online
2015年11月8日
特別競輪V5、歴代4位の通算1160勝と輝かしい実績を持つ石田雄彦(いしだ・ゆうひこ)氏が7日、腎不全で亡くなった。81歳。通夜は9日19時から、葬儀は10日11時からメモリアル成就羽曳野式場で。喪主は元競輪選手で長男の裕紀氏。
日本競輪学校創立前の50年1月31日に選手登録し、同4月の西宮でデビュー。同11月松山で初1着。55年競輪祭(小倉)、56年オールスター(川崎)、59、64年日本選手権(ともに後楽園)、60年高松宮杯(大津びわこ)と現在のG1にあたる特別競輪を5回優勝。58、60、64年は賞金王に輝いた。91年4月19日に選手登録を消除。通算成績1着回数は1160(3364走)。
元競輪・石田雄彦さん死去 81歳 特別競輪V5、通算1160勝 ― スポニチ Sponichi Annex 競輪
1950年から3年連続で最優秀選手賞を獲得した元競輪選手の石田雄彦(いしだ・ゆうひこ)氏が7日午後10時37分、腎不全のため大阪府八尾市内の病院で死去した。81歳だった。
日本競輪学校創設以前の期前の選手。和歌山登録(後に大阪へ移籍)で50年4月に西宮でデビュー。特別競輪優勝5回(55年第3回競輪祭、56年第1回オールスター、59年第14回日本選手権、60年第11回高松宮杯、64年第18回日本選手権)。通算3364戦1160勝。通算勝利数は歴代4位。91年4月に引退。岸和田競輪では功績を称え「石田雄彦杯」が毎年開催されている。
[ 2015年11月8日 17:39 ]
父親に競輪選手になれと勧められたことがきっかけとなって競輪選手となった。
そのせいか、デビューからしばらくは「無賃乗車」ばかりの状況が続いた。無賃乗車というのは、デビュー当時は、4着以内に入らないと賞金が出なかったことに起因する。したがって、早晩中にクビを切られることを覚悟していたという。
そんな状況を打破したいと、その数年後、山本清治に懇願して練習をつけてもらうことになった。当時既にタイトルホルダーだった山本の指導は厳しかったという。加えて、自らも山登りに積極的に取り組むなどした成果が徐々に現れ、1955年の第三回小倉競輪祭競輪王戦で初のタイトルを獲得。翌1956年には川崎で行われた第一回全国オールスター争覇競輪を制し、現在のオールスター競輪初代優勝者となった。
1958年には初の賞金王に輝き、翌1959年、後楽園で行われた第13回全国争覇競輪(現在の日本選手権競輪)決勝戦で、前年の優勝者、吉田実と対戦することになった。レースは逃げる吉田の後ろが2車の競り合いとなり、双方共倒れとなった間隙を縫って、石田が吉田の番手に入りこんだ。そしてゴール寸前、わずかに吉田を捕えて優勝。と同時に、この一戦が、「石田・吉田時代」と呼ばれる一時代の幕開けとなった。
1960年には高松宮賜杯競輪(現在の高松宮記念杯競輪)を優勝し、同年、2度目の賞金王となった。
1964年、この年は2回日本選手権競輪が行われたが、東京オリンピック閉幕直後に後楽園で行われた第18回大会の決勝に進出。内を進む白鳥伸雄に対し、石田は中団付近から外を通って伸び、ゴール線上は2人がほぼ並んでのゴール。そんな状況でありながらも、石田が先に右手を挙げたのだが、実際のところ、白鳥が先にゴール線を切っていた。ところが、白鳥は「内線突破」により失格。繰り上がりの形で石田が2度目の競輪日本一となった。また、この優勝がモノをいい、石田は3度目の賞金王に輝いた。
その後は高原永伍の完全なる天下となってしまったため、特別競輪のタイトルはここまでとなってしまったが、1970年にホームバンクである岸和田で行われた第24回日本選手権競輪に36歳の年齢ながらも優出するまで、トップクラスの選手として君臨した。
1972年5月7日の四日市競輪場において、松本勝明に次いで、史上2人目の通算1000勝を達成。1991年4月19日に選手登録削除されるまで通算1160勝を挙げた。この勝利数は現在歴代第4位の記録である。
引退後は日本名輪会の創成期メンバーとして長らく活動。また、岸和田競輪場で開催されている、石田雄彦杯という冠名レースにもその名をとどめている。
ご冥福をお祈りいたします。
ちなみに、岸和田の井上薫ちゃんコーナーには、石田さんの写真がたくさん展示されている。