表題のことが書いてあって「腰抜かした」。
こいつ、赤坂自民亭事件(220人死亡)や広島市土砂災害事件(77人死亡)のことを全く知らないか、はたまた無視しているか、のどっちかだろ。
ジャーナリスト、なんて名乗ってるのもおこがましい奴だ。
(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)
「私は“立法府の長”」
現職の内閣総理大臣が国会答弁でそう言い放ったことがある。先週、在任日数が憲政史上最高となった途端に辞任を表明した安倍晋三である。
2016年5月16日のことだった。当時の民進党議員の追及に嫌気がさしたのか、高飛車にもこう言い放っている。
安倍「議会の運営について少し勉強していただいたほうがいい。議会については、私は“立法府の長”」
しかも、その翌日も同じ趣旨の発言をしている。
言わずもがなだが、日本において内閣総理大臣は行政府の長であって、立法府の長は衆参両院議長にあたる。義務教育の教科書にも載っているはずだ。
修正された議事録
さすがにこの発言は、後日、議事録では修正された。だが、こんな記録が残っている。
同年5月23日の参院決算委員会。民進党(当時)の足立信也議員との質疑応答。
質疑「先週二度にわたって、立法府の長でありますと、私は。この委員会の質疑で、立法府の長である総理に私は質問をしなきゃいけないんでしょうか」
安倍「それは行政府の長ということであります」
質疑「じゃ、先週はちょっとエキサイトして間違ったということでよろしいんですね」
安倍「行政府の長、何回もいろいろと委員会運営について質問されたことがございますが、基本的には大体、行政府の長としてお答えをしているわけでありますが、もしかしたら言い間違えたかもしれません」
エキサイトや言い間違えで済まされる話ではなかった。なぜなら、第1次政権時代にも、同じことをやらかしているからだ。
2007年5月11日、参院日本国憲法に関する調査特別委員会。憲法改正を悲願としていた安倍にとっては、まさに憲法議論の場だった。そこで当時の民主党の簗瀬進議員が、同委員会の運営について質問したところ、こう応じている。
安倍「それは、正に参議院のこの委員会の運営は委員会にお任せをいたしておりますから、私が立法府の長として何か物を申し上げるのは、むしろそれは介入になるのではないかと、このように思います」
これには質問した野党議員から、懇切丁寧に憲法にある三権分立を説かれ、「あなたはそういう意味では行政府の長であります」と諭されている。
それでよく歴史上最長の政権が保てたものだと不思議にすら思える。
結局のところ、「安倍一強」と呼ばれる体制を支えていたのは、政権を批判しながらも国会で追及しきれなかった野党のお粗末さにある。というより、その野党に対する失望からいまの安倍政権は誕生している。
野党に政権奪還の意思はあったか
安倍が「悪夢のような」というように、かつての民主党政権に東日本大震災、東京電力福島第1原子力発電所事故の対応が重なり、経済と政治の混乱を「悪夢」と思う国民は少なくないはずだ。その時の顔が野党になって、いくら安倍政権を追及しても、まだあの時よりはマシだと再認識させる。それが無党派層や政党支持率にも表れている。
「政権交代を目指しても、民主党時代と同じ顔では、国民の支持は得られない。そっぽを向かれる」
ある若手の野党議員がそう零していたが、いくら批判しても安倍政権に代わる受け皿がない。それどころか、野党には政権を奪還する気がないようにすら映る。本心から政権交代を目指すのなら、野党合同ヒアリングで官僚を呼び出しては、テレビカメラの前で激しく叱責、糾弾するようなことをしないはずだ。あれでは、官僚は忖度してくれない。
安倍が政権に返り咲いたのは、2012年12月の総選挙で自民党が圧勝したからだ。その選挙ポスターには、こうある。
〈ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。 日本を耕す!!自民党〉
それが、翌年2月の日米首脳会談を経て、「TPPは聖域なき関税撤廃を前提としないことを米国と確認した」として、たちまち交渉参加へ転換したところから、政権運営ははじまっている。それでも支持率は落ちなかった。
閣僚が不祥事で辞任する度に、「任命責任は私にある」といって国民に詫びては、責任をとることはなかった。それでも、選挙に負けることがなかった。
安保法制の強行採決、テロ等準備罪の成立で支持より不支持が上回る傾向にあっても、いつの間にか持ち直している。
森友、加計学園問題、公文書改竄問題が浮上し、総理主催の「桜を見る会」の私物化が指摘されても、あれやこれやの言い訳を駆使して、都合の悪いことはどこかうやむやにして乗り切ってしまう。“立法府の長”と自称しても許されたように。それでいて「安倍嫌い」と「安倍支持者」がはっきり分かれる。
三本の矢の成長戦略はどこへ
従来の薬も効かなくなって、持病の潰瘍性大腸炎が悪化したことが辞任の理由だが、そうなった原因に重度のストレスが指摘される。野党の追及に苛立ちながらも、体調に異変をもたらすことがなかったはずが、ここへきて加わったストレス。新型コロナウイルスへの対応の不手際だろう。
習近平国家主席の訪日にこだわって、入国制限の水際対策が遅れたこと、根拠も不明のまま政治判断で一斉休校を要請したこと、それにアベノマスクの不評。その一方で、昭恵夫人は自由奔放に遊びまくり、ステイホームをSNSで訴えた星野源とのコラボは、反感すら呼んだ。あんな風に家で寛いでいられなくなったところへ、定年を延長までさせた黒川弘務東京高検検事長(当時)の賭けマージャン発覚で、その先の目論見も消えてなくなった。
それになにより、アベノミクスの不発だ。就任時の12年12月から続いた景気回復は、18年10月に終わったと内閣府が判断している。米中貿易摩擦が本格化した時期だ。そこへ新型コロナで経済は低迷する。むしろアベノミクスの第1、第2の矢だった「金融緩和」「財政出動」はコロナ禍の経済対策おいて、さらに財政出動の依存が高まれば、危機的状況を生み出しかねない。第3の矢だった「成長戦略」は、どこかへ行ってしまったままだ。
安倍政権で評価できるのは、民主党政権の失敗を反面教師にしてか、自然災害発生時の内閣の対応が早かったことだ。ところが、想定になかった原発事故が民主党の命取りになったように、未知のコロナウイルスへの対応が支持率の低下を招き、長期政権の幕引きになったとしたら、皮肉な話だ。
その政策や政権運営を振り返っても、どこかうやむやの中途半端な印象が拭えない。これも日本の政治が軽薄になった証なのかも知れない。
こいつ、赤坂自民亭事件(220人死亡)や広島市土砂災害事件(77人死亡)のことを全く知らないか、はたまた無視しているか、のどっちかだろ。
ジャーナリスト、なんて名乗ってるのもおこがましい奴だ。
JBpress 安倍政権とは何だったのか 青沼 陽一郎 2020/08/31 06:00 https://t.co/Yq4jRMRBft
— 佐野 直哉 (@pxbrqnaZJT1917W) August 31, 2020
(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)
「私は“立法府の長”」
現職の内閣総理大臣が国会答弁でそう言い放ったことがある。先週、在任日数が憲政史上最高となった途端に辞任を表明した安倍晋三である。
2016年5月16日のことだった。当時の民進党議員の追及に嫌気がさしたのか、高飛車にもこう言い放っている。
安倍「議会の運営について少し勉強していただいたほうがいい。議会については、私は“立法府の長”」
しかも、その翌日も同じ趣旨の発言をしている。
言わずもがなだが、日本において内閣総理大臣は行政府の長であって、立法府の長は衆参両院議長にあたる。義務教育の教科書にも載っているはずだ。
修正された議事録
さすがにこの発言は、後日、議事録では修正された。だが、こんな記録が残っている。
同年5月23日の参院決算委員会。民進党(当時)の足立信也議員との質疑応答。
質疑「先週二度にわたって、立法府の長でありますと、私は。この委員会の質疑で、立法府の長である総理に私は質問をしなきゃいけないんでしょうか」
安倍「それは行政府の長ということであります」
質疑「じゃ、先週はちょっとエキサイトして間違ったということでよろしいんですね」
安倍「行政府の長、何回もいろいろと委員会運営について質問されたことがございますが、基本的には大体、行政府の長としてお答えをしているわけでありますが、もしかしたら言い間違えたかもしれません」
エキサイトや言い間違えで済まされる話ではなかった。なぜなら、第1次政権時代にも、同じことをやらかしているからだ。
2007年5月11日、参院日本国憲法に関する調査特別委員会。憲法改正を悲願としていた安倍にとっては、まさに憲法議論の場だった。そこで当時の民主党の簗瀬進議員が、同委員会の運営について質問したところ、こう応じている。
安倍「それは、正に参議院のこの委員会の運営は委員会にお任せをいたしておりますから、私が立法府の長として何か物を申し上げるのは、むしろそれは介入になるのではないかと、このように思います」
これには質問した野党議員から、懇切丁寧に憲法にある三権分立を説かれ、「あなたはそういう意味では行政府の長であります」と諭されている。
それでよく歴史上最長の政権が保てたものだと不思議にすら思える。
結局のところ、「安倍一強」と呼ばれる体制を支えていたのは、政権を批判しながらも国会で追及しきれなかった野党のお粗末さにある。というより、その野党に対する失望からいまの安倍政権は誕生している。
野党に政権奪還の意思はあったか
安倍が「悪夢のような」というように、かつての民主党政権に東日本大震災、東京電力福島第1原子力発電所事故の対応が重なり、経済と政治の混乱を「悪夢」と思う国民は少なくないはずだ。その時の顔が野党になって、いくら安倍政権を追及しても、まだあの時よりはマシだと再認識させる。それが無党派層や政党支持率にも表れている。
「政権交代を目指しても、民主党時代と同じ顔では、国民の支持は得られない。そっぽを向かれる」
ある若手の野党議員がそう零していたが、いくら批判しても安倍政権に代わる受け皿がない。それどころか、野党には政権を奪還する気がないようにすら映る。本心から政権交代を目指すのなら、野党合同ヒアリングで官僚を呼び出しては、テレビカメラの前で激しく叱責、糾弾するようなことをしないはずだ。あれでは、官僚は忖度してくれない。
安倍が政権に返り咲いたのは、2012年12月の総選挙で自民党が圧勝したからだ。その選挙ポスターには、こうある。
〈ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。 日本を耕す!!自民党〉
それが、翌年2月の日米首脳会談を経て、「TPPは聖域なき関税撤廃を前提としないことを米国と確認した」として、たちまち交渉参加へ転換したところから、政権運営ははじまっている。それでも支持率は落ちなかった。
閣僚が不祥事で辞任する度に、「任命責任は私にある」といって国民に詫びては、責任をとることはなかった。それでも、選挙に負けることがなかった。
安保法制の強行採決、テロ等準備罪の成立で支持より不支持が上回る傾向にあっても、いつの間にか持ち直している。
森友、加計学園問題、公文書改竄問題が浮上し、総理主催の「桜を見る会」の私物化が指摘されても、あれやこれやの言い訳を駆使して、都合の悪いことはどこかうやむやにして乗り切ってしまう。“立法府の長”と自称しても許されたように。それでいて「安倍嫌い」と「安倍支持者」がはっきり分かれる。
三本の矢の成長戦略はどこへ
従来の薬も効かなくなって、持病の潰瘍性大腸炎が悪化したことが辞任の理由だが、そうなった原因に重度のストレスが指摘される。野党の追及に苛立ちながらも、体調に異変をもたらすことがなかったはずが、ここへきて加わったストレス。新型コロナウイルスへの対応の不手際だろう。
習近平国家主席の訪日にこだわって、入国制限の水際対策が遅れたこと、根拠も不明のまま政治判断で一斉休校を要請したこと、それにアベノマスクの不評。その一方で、昭恵夫人は自由奔放に遊びまくり、ステイホームをSNSで訴えた星野源とのコラボは、反感すら呼んだ。あんな風に家で寛いでいられなくなったところへ、定年を延長までさせた黒川弘務東京高検検事長(当時)の賭けマージャン発覚で、その先の目論見も消えてなくなった。
それになにより、アベノミクスの不発だ。就任時の12年12月から続いた景気回復は、18年10月に終わったと内閣府が判断している。米中貿易摩擦が本格化した時期だ。そこへ新型コロナで経済は低迷する。むしろアベノミクスの第1、第2の矢だった「金融緩和」「財政出動」はコロナ禍の経済対策おいて、さらに財政出動の依存が高まれば、危機的状況を生み出しかねない。第3の矢だった「成長戦略」は、どこかへ行ってしまったままだ。
安倍政権で評価できるのは、民主党政権の失敗を反面教師にしてか、自然災害発生時の内閣の対応が早かったことだ。ところが、想定になかった原発事故が民主党の命取りになったように、未知のコロナウイルスへの対応が支持率の低下を招き、長期政権の幕引きになったとしたら、皮肉な話だ。
その政策や政権運営を振り返っても、どこかうやむやの中途半端な印象が拭えない。これも日本の政治が軽薄になった証なのかも知れない。