長居スタジアムの前身は大阪市営中央競輪場である。1950年に収容人員約1万人、周長500Mバンクとして誕生。後楽園競輪場とともに12車立てでのレースを行ったこともあった。現在の日本選手権競輪を3回、オールスター競輪を1回開催した実績も誇っていたが、度重なる騒擾事件がもとで大阪府が1955年に府営ギャンブルの廃止をほのめかすと即座に反応。1962年をもって廃止され、その後は長居陸上競技場に。そして現在は長居スタジアム。
しかしながら、最寄駅のJR阪和線・鶴が丘駅の、今は「セレッソ通り」と言われる商店街筋はまさに「おけら道」というに相応しい趣。恐らく当時よりこうした風情があったのだろうと考えられる。
他にも、大阪府営競馬場の足跡を残す外周道路もあるし、今は競輪・競馬・オートレースまであった長居の時代を偲ばせるものは何もないと思いきや、周辺環境はその匂いがまだ残っている。
長居スタジアムは旧スタンド時代も含めてよくサッカーへは行った競技場であるが、陸上では初めて。陸上のことはおよそ知らないが、ま、世界選手権大会が行われるということで27日行ってきた。
一番安い自由席のC席だったが、5000円した。席の場所は最上段。しかしながら、長居はその最上段でもよく見える。国立や横浜の場合だと最上段は本当に遠い印象があるが、長居はそこまで行かない。そう考えると、長居は日本一見やすいスタンドを誇るスタジアムといえるのかも。
ま、ハンマー投げが行われる1センター付近はぎっしり客で埋まっていたが、ハンマー投げが遠い2センター付近はガラガラ。明らかに室伏見たさが窺えるが、もちろんそれは当たり前か。
ところでハンマー投げでは、1投目に足が滑って真横に投げた選手がいて一部ネットが破壊されたことから、間を盛り上げるために「ヤングマン」(但し西城秀樹のやつではなく、ビレッジ・ピープルの原曲・YMCAが流された)が流れ、当時流行していた
「Y・M・C・A」
のポーズをやってしまった。
さて室伏は承知のとおり6位でメダル獲得ならず。しかし室伏が投げていたときには地響きともいえるような声援が木霊していた。最後に大逆転の末、3連覇を果たしたティホンのときもそうだったか。
三段跳びはバックストレッチで行われたことから一挙手一投足がよく見えたが、選手が時折客に手拍子を求めるシーンがあるのは今や当たり前か。
ところで室伏の投擲が全て終わってタバコを吸いに行ってたところ、女子400メートルの準決勝が行われ、何と1組のレースに日本の選手が出ているとは思わなかった。1000円も出して、この日だけのプログラムまで買ったというのに全く気づかず。そもそも、日本の女子が400Mの準決勝に出るなんてこれまで五輪を見てもなかったもんな。その出場した丹野麻美(後で調べたところ、浅尾美和の陸上版と言われるほどのルックスだとか)は結局最下位だったが、どうやら客は大いに盛り上がっていたようである。
さらに男子1500Mでも日本選手が準決勝に出ていた。2組に小林史和が登場したがまさか日本選手が一番弱いとされる種目でこんなところに出ているとは思わなかった。ま、この種目は競輪とよく似ていて、序盤はペースが幾分落ちるのに、ジャンが鳴ると一気にペースが上がる。それに道中の位置取りのせめぎあいもある。ま、日本人の体格からいって、こうした種目は自転車の力でも借りない限り最大限力を発揮するのは難しく、よほどのことがない限り世界で通用する選手が出現する可能性は乏しいと思われる。小林は残りあと半周で完全においていかれた。
そして実は、この日一番の盛り上がりを見せたのが1500Mの準決勝1組で、最後の直線でアメリカの選手がロングスプリント力を示して勝つと、しばらくその興奮が冷めやらなかった。
それと女子3000M障害もあったが、この種目には競馬の障害でおなじみ、「水壕」がある。でも決勝メンバーの選手皆うまく跳んでいたねぇ。
最終種目の女子100Mは序盤から横一線状態で、ゴールも5人ぐらいがほとんど同体というきわどい勝負となった。
5分近くに及んだ写真判定の末優勝したのはジャマイカのキャンベル。2着と同タイムであった。
ま、まだ開催は残っている世界陸上大阪大会だが、このあともう行くことはないと思う。しかしさすが大阪はクソ暑い。フルルでも書いたが、
「Osaka? Oh! It's too hot!」
「It's crazy!」
という実質世界一のクソ暑さぶりはこの日も体現。22時半現在でまだ31度だからなぁ・・・
オリンピックやらなくてよかったぜ。やはり夏の屋外の国際競技大会は大阪で開催するのは望ましくない。多分世界陸上が今後大阪で開催されることはまずあるまい。
それよりも大阪ドームでトラック世界自転車選手権をやってくれ!