yoyo独り言

日常の思いつくままを、
心の整理場所として・・

ミシン~~~

2021年05月06日 | 昭和人間の想い出話


快晴になりました。
夏日のような暑さです。
田んぼの水が入り始めました。
これで西風と一緒に飛来する田んぼの土埃が少しおさまるのではと期待しています。
今日のお掃除は・・・
洗面所フロァーの汚れを落としてワックスがけ・・・
1階洋間のキャビネット(押し入れ?)を整頓しました。
ちょい置きが多くて~~~~
ほとんど不要な物ばかり・・・・



何年も使っていないミシンもそろそろ処分???
ロックミシンは数年前に処分しました。
子育て中はいろいろ作っていたのですが・・・
自分が買ったロックミシンはすぐに処分できるのですが、
母に買ってもらった(婚礼用品?)ミシンは
思い入れが加味されて・・・なかなか処分できません!!!
でも・・重いし・・・針に糸を通すのが・・・

母は洋裁が好きで、いつもミシンをかけていました。
yoyoの服は小さい時から、ほとんど母の手作りです。
既製品があまり無い時代でしたから
中原淳一が刊行した雑誌「ソレイユ」(のちに『それいゆ』と表記変更)を見ながら
可愛い服を作ってくれました。

成長して・・スーツやコート・オーバーも手作りでした。
そんな母の選んだミシン・・・当時の最新・・・
刺繍も出来るのです。
本当は母が欲しかったのではないかしら?
洋裁の知識もスキルもないyoyoには 猫に小判 ?
ひたすら直線縫いだけでした。
最近はほとんど手縫いの小物ばかりを作っています。
それでもいいのだけど・・・
軽くて、簡易的な(直線縫いだけ)ミシンが欲しい~~~

10年一昔  2011年5月6日のブログ記事一覧-yoyo独り言
母ですよ~~~~ 家族・親戚の話
誕生日会は田楽で・・・仕事の話
2題あります。

転校生~~~

2021年05月05日 | 昭和人間の想い出話


終日雨の一日でした。
沖縄は「梅雨入り」になったようです。
午前中は 納戸の整理の続き・・・・
玄関の靴箱・物入の整頓をしました。
年1回位しないと、失念している物が多くて~~~
全く記憶にない物もあります???
おこもりのGWが終わりました。
明日からの日常~~
ゆっくりエンジンをかけて動き出しましょう・・・



今日のお題は・・転校生・・・
以前に,何度も書いていると思いますが
yoyoの両親は転勤・引っ越しが多く、
小学校は7つ変わりました。
中学校も引っ越し後の中学校でしたから転校生扱いになりました。
一人っ子で育ち、祖父母・叔父・叔母に囲まれ、依頼心が強くわがまま~~~
好奇心は強いのですが、社交性に乏しい性格でした。
転校は大きなカルチャーショックですね。
名古屋市から清水市に転校~~
四日市市から下関市に転校~~
言葉(方言?)が違います!!!
言葉を覚えたのは、名古屋ですから 名古屋弁~~
祖母は生粋の名古屋人ですから、yoyoの覚えた言葉も名古屋弁が基本です。
多分・・先生も名古屋弁~~
イントネーション・語尾の違いなど???でしたが
さほど気にせず接してくれた同級生でした。
教科書や学習用具も違いますから、
学年途中の転校では 親の方が大変だったでしょう。
その頃の転校生は 珍しい?結構大事にされていたように思います。
yoyo的な印象では、
脱脂粉乳から牛乳に切り替わった時代で、
給食のメニューが地域によって随分違っているのが記憶に残っています。
下関市では 「ちゃんぽん」 がありました。
「肝油」なんかも配られていましたね。
授業の進行状態も違いますが、小学生ですからあまり記憶にありません。
yoyoにとっては 転校は楽しい期待がありました。
 
転校でいじめにあう、不登校になると危惧して
単身赴任を選ぶ家庭も多いと思いますが、
子供達は意外と逞しい~~~
親がプラス思考で考えれば、子供達もプラスに順応すると思うのですが・・・
どうなんでしょうね?
我が家も 長男が幼稚園・小学校と転校、
長女は小学校・高校(他府県受験)を経験していますが
ストレス度はどうだったのだろう?
親がノー天気で深く考慮しなかったから、話題にもなりませんでしたが・・・

コロナ禍でも、海外赴任・転勤やお引越しはあると思います。
転校生となる子供達・・・
最初からリモート授業・・・
なんだかつらいなぁ~~~
めげずに~~~
きっと新しい世界が待っています!!!

10年一昔  2011年5月5日のブログ記事一覧-yoyo独り言
アメー◎ーズ合宿終わる

屋台~~~

2021年05月03日 | 昭和人間の想い出話
GWも後半になりました。
1・2日と肌寒い雨が続き、気力なしの日々でした。
今日は快晴になったので、やっとエンジン開始・・・
お布団を干して、2階のお掃除をしました。
納戸のパイプハンガーの不遷布カバーが劣化でボロボロ~~
取り外して レースのカーテンを代用しました。
そろそろ納戸も整頓しなくては・・・
数年に1度のお掃除です。
予定なしのGW中(あと2日ですが)にしたいと思います・・・
ブログで宣言すると実行できそう~~~
外出自粛で、最近は外食も随分減っています。
お家食もメニューが・・・単調になりがち~~~
ダンス(S/D)を楽しんでいた頃は、
例会やParty ・合宿の後、仲間内で居酒屋に~~~
大ジョッキのビールが美味しかったねぇ~~~
とおい、とお~い昔のような気がします。
前置きが長くなりましたが・・・
今日のお題は・・・屋台・・・







戦後の都市計画で、道路幅を広くした名古屋では
歩道幅も広く、繁華街では車道側に屋台が立ち並んでいました。
主に夕方からですが、1件ずつ暖簾を下げて3方は白い布に重石をつけて覆っています。
長い時代、賑わいを続けていましたが、
地下鉄が出来、地下街が発展して~~~
広小路通りは閑散と・・・
いつの間にか屋台は衰退・・してしまいました。
結婚後、福岡市に住んでいた頃、
天神・中州界隈の屋台の様子が地方版などでニュースになっていました。
ラーメンが主で、仕事帰りの人や、出張で来た人に人気があったようです。
その頃、yoyoは子育て真っ最中で、出かけたことも食べたこともありません。
今でもあるのかなぁ? コロナ禍では・・・・・

繁華街の立ち並んでる屋台とは違って、
ちょっとした駅前や、人通りの多い歩道にも屋台はありました。
yoyoの古い想い出の屋台は・・・
戦後、母の実家は堀田駅前で金物屋を営んでいました。
周りは、パチンコ屋・映画館など 通勤客も多くいたのでしょう。
店の前に 屋台が・・・・
みたらし団子の屋台のお店です。
幼稚園前のおぼろげな記憶ですが、
その屋台のおじさんが来るのを見つけると
yoyoはお店の前で座り込んで・・・
屋台が組み立てられるのをじぃ~~~っと見ていたらしい。
これも 後年、親戚が集まった時の想い出話として語られるのと
オーバーラップして刷り込まれた記憶です。
手際よく炭火が熾され、お団子が並び・・・
祖母が時々「かえってりゃ~」と呼びに来るのですが
見続けているyoyoでした。
焼きあがった最初の10本?位を買ってもらうのうれしくて・・・
お店の奥で みんなと食べながら、
祖母が「(yoyoの)見物料も入っているでね~~」 と言っていたような~~
名古屋特有の濃い醤油をつけた香ばしいみたらし団子です。
当時1本5円位?覚えていません~~

もう一つ想い出の屋台、
小学校3~4年? 
小学校の長いお休みの時は祖父母の家で過ごす事が多く、
時々、叔父や叔母(その頃はまだ独身)に 屋台に連れて行ってもらいました。
ラーメン屋さんでは ワンタンが好きでした。
狭い屋台の中に木製の引き出しがあって、
その中から何やら食材?を出して手際よく作ってくれます。
そんな様子をじ~~っと見るのが好きなyoyoでした。
ひらひらとしたワンタンの皮が丼の中で浮いていて、
蓮華ですくって食べるのが・・美味しい!!!
「土手焼き・おでん・串カツ」の屋台では、串を2~3本食べた後は、
横に置いてあるキャベツばかりを食べていました。
四角く切ってあるキャベツにソースを少しつけて・・
叔父や叔母が 「やらし~~な!」 というのですが
(キャベツはサービス品、ただです。)
キャベツが一番おいしいから!
今では屋台も様変わり、カラフルなお店や、屋台村と称する観光地になっているようですね。
駅前や、大きな広場・イベント会場の前には
ワゴン車やキャンピングカーを改造したお店が出店・・・
簡易的なテーブルや椅子を置いていることもあります。
販売メニューも随分変わりました。
こんなお店も屋台なんでしょうね。
アジアの国々では、屋台っぽいお店が多いような気がします。
台湾の夜市も屋台?

こじゃれたレストラン・高価なフランス料理・伝統の和風料理も美味しいのでしょうが、
縁がなく、外食のお話から、屋台の想い出話になってしまいました。

屋台の写真は  【栄】昔の広小路通歩道にはたくさんの屋台が立ち並んでました!
名古屋発!街とりっぷマガジン『PON-Po(ポンポ)』
から お借りしました。

10年一昔 はお休みでした。
アメー◎ーズ合宿中です。

えんとつ~~~

2021年03月13日 | 昭和人間の想い出話
昨日は、ホームケァ会議~~~
19時30分からですから、16時~19時まで一仕事・・・・
会議が始まる時は、21時30分には終わりたいと思っているのですが、
ついずれ込んで・・・・きりがない~~~
日頃の愚痴や不満も出てきます。
22時半過ぎに帰宅・・・・
会議後は神経が高ぶっている?
目がさえて・・眠気は吹っ飛んでいるのですが 
(このブログを始めた頃は、ハードなスケジュールをこなして、
少々遅くなってもブログアップをしていたのです。)
今はその気力なし!!!

今日は雨の朝~~~
ゆっくり起きて のんびり過ごしました。

小学校3年生の頃?
横浜の親戚の家に遊びに行った時、
東京の後楽園遊園地に遊びに行きました。
今は「東京ドームシティ アトラクションズ」 の名称になっています。
yoyoの想い出の中では 初めての乗り物のある「遊園地」です。
遊園地の想い出はまた別の機会にして、
今日のお題は・・えんとつ・・・



そのお出かけの時に、車の窓から大きなえんとつが 7~8本そびえたっているのが見えました。
周りにはまだ高い建物やビルも無く、その太く高いえんとつ群が威圧的に感じられました。
走っている角度によって、そのえんとつが 5本になったり~~
4本になったり~~~ また7本になったりと・・・・
次々と入れ替わり、まるでかくれんぼをしているようで
不思議な感覚だったのが記憶に残っています。
場所はどこだったのかなぁ~~~
今の東京都心とは全く異なった風景でした。

yoyoが住んでいる一宮市も、戦後は繊維の街として急成長・・・
関連会社も多く、染料関係?の工場では大きなえんとつがあったようです。
今ではかなりさびれて・・稼働していない煙突も多く、
危険ですから 次々と撤去されています。



どこの町でも、「銭湯」がありました。
大きなえんとつが目印です。
家に内湯(この言葉も死語?)があっても
町内の社交場として夕方から銭湯に出かける人も多かったような~~
一時期は廃れていましたが、郊外に「スーパー銭湯」が出来始めて・・
町中の銭湯もいろいろ工夫されて活気が戻っているところもあるそうです。
yoyoも「銭湯」大好きです。

台所にえんとつをつけている家も多くありました。
風呂の焚口にもえんとつがありました。
今は換気扇ですね。
小さなえんとつの上から火の粉が飛び散っているのを見たこともあります。
木造の家がほとんどでしたから、火事になることもあったのでは・・・

ポットン便所 では細くて少し長いえんとつがついています。
臭気を外へ流すのです。

昭和の時代、えんとつの想い出話です。

10年一昔  2011年3月14日のブログ記事一覧-yoyo独り言
忌引休暇-4-

映像の力~~~

2021年03月11日 | 昭和人間の想い出話


春うらら~~~気持ちの良い日差しの一日でした。
 は早朝よりお出かけ~~~
「ホールインワン やった~~~!」 と、ご機嫌でした!!!
お留守番のyoyoはお掃除おばさんに変身~~~



洗濯・マット類の洗濯・布団干し・ベランダの掃除
リビングのカーペットをデッキに干して~~
電気カーペットを片付けて~~
リビングに小さな蟻を発見!!!
大変です!!!
蟻退治の消毒も兼ねて・・・
ソファーのクッション・マット類を干して~~
玄関を掃除して~~~
1Fの掃除機と雑巾がけ~~~
トイレの掃除も念入りに~~~
なんだか頑張りすぎました。



「東日本大震災から10年~~」 のニュースが多く、
当時の映像が何度も流れます。
本当に衝撃的な出来事で、その後の東京電力福島第一原発事故のニュース・・・
今思い出しても恐怖感が高まります。
テレビという媒体によって、いろいろな実況中継が可能になりました。
「ジョン・ケネディの暗殺・・・」
白黒テレビの時代でした。アメリカからのリアル映像?だったようです。

yoyo的には 「浅間山山荘事件」
連合赤軍の最後の砦?
その数年前に学生だったyoyoは、ほとんど授業を受けておりません。
キャンパス内は アジビラとたてかん・・・
教室のある建物の入り口は 机やいすが積み上げられて・・・
今のようにリモート授業も無く、
掲示板に張り出されている「休講」の確認をして・・・
レポート提出でかろうじて単位を確保・・・
ゼミは校外(御所の芝生・喫茶店)で行われていました。
キャンパスでは火炎瓶が飛び、 
屈強の自衛隊員の並ぶ横を学生が叫びながらデモ行進をする・・・
そんな学生時代を終えて・・・その活動家が浅間山山荘に籠っている状況に
ノンポリに近いyoyoは不思議な気がしたのです。

2001年9月11日のニューヨーク貿易センタービルの破壊・・・
これも衝撃的な映像でした。
アメリカ多発事故で、ビルに飛行機が突き刺さり?炎上・・
その後 ビルが崩壊する様を、驚きの気持ちで見ていました。
ずっとずっと若い頃、ニューヨークに訪れ、
ハドソン川周遊船から貿易センターを眺めたのを覚えています。
その後のアメリカからのイラク空爆・・・・
空爆を受けている地表には多くの人々が・・・・
想像するだけで恐ろしい事です。

話が長くなりました。
今日はこれでお終いです。

10年一昔はお休みです。
父の葬儀、通夜でした。
葬儀会館の控室で テレビのニュースに釘づけになっていました。
仙台の親戚も来られて・・・
飛行場を発着した直後の地震だったようです。


富士山~~~

2021年03月07日 | 昭和人間の想い出話
午前中は晴れていたのですが、
午後からは一面に暗い雲がかかり、寒い一日でした。
今はコロナ禍でなかなか上京できませんが、
以前、毎月のように上京していた時、
バスや新幹線の中から・・・
「今日は富士山に逢えるかなぁ~~」
楽しみにしていました。

 2018年2月6日撮影
いつの季節でも、富士山を眺めると心が穏やかになります。

小学校2年生から3年生の夏休みまで 静岡県清水市に住んでいました。
通り奥の家でしたから、家からは見えなかったのですが、
小学校の通学路では 東側?正面に雄大な富士山全景を仰ぎ見る事が出来ました。
毎日、富士山を観る事が出来て、
今なら 「しあわせ~~」 と、心で呟くと思いますが、
その頃は 当たり前の風景だったのですね。
四季折々の姿は今も心に残っています。
雪が融けて、赤茶色の富士山も力強い感じでした。
いつの頃からかなぁ~~~???
冬の冠雪が少なくなっています。
これも温暖化の影響でしょうか?

 昭和31年1月頃? 自宅近くの西高校校庭で・・・
周りはほとんど田んぼばかりで、住宅も少なく平屋や2階建てでしたから全景を観る事が出来ました。
 2011年(平成23年)11月に静岡を旅行した時に、小学校と住んでいた家の付近にも行ったのですが、
住宅が立ち並び、富士山を観る事は出来ませんでした。

静岡つれづれ-8- 想い出 - yoyo独り言

余談ですが・・・
小学校の近くの交差点の真ん中に、
コンクリートかレンガ造りの ドーム型の小さな建物があって、
2~3段の階段を上がると 中は水飲み場になっていました。
上向きにちょろちょろ水が出ているのね。
その頃は車もさほど走っていませんから、
交差点に行って水を飲むのも危険じゃなかったと思いますが・・・
不思議な風景で・・今も記憶に残っています。
「馬糞だ!馬糞だ!」 と騒いでいた事もありますから
馬車も行き来していたのでしょうね。
どこの交差点でも 信号機は無く、
車の混み合う?時間帯には、
交差点の真ん中でお巡りさんが台の上に乗って
ピッピッと笛と手信号で交通整理をしていました。

10年一昔  2011年3月7日のブログ記事一覧-yoyo独り言
モロッコハイライト-50-カサブランカへ
モロッコハイライト-49-マラケシュ観光-7-
2題あります。

今日は啓蟄~~~初めての記憶?

2021年03月05日 | 昭和人間の想い出話


今日は啓蟄・・・暖かいのですが、終日雨になりました。
室内に取込んでいた鉢類を屋外に出しました。
雨水を受けて喜んでいるようです。
(カランコエの鉢はまだリビングです。)



戦後・・・1947年に生まれたyoyoです。
父親に抱かれて・・・ぎこちない父親の表情~~~
母親と一緒は2歳ころ???
勿論、この頃の記憶は全くありません!
最初の記憶はいつだったのだろう???
ず~~と昔を辿っていくと・・・
3歳頃?
名古屋市内の大喜町? 
祖母の実家の離れに住んでいた頃・・・
中庭でおままごとが、遊びだったようです。
突然、けたたましく泣いて~~~~
大人達が駆けつけて・・・・
「目が痛い!!!」 といったかどうか覚えておりません!
庭にあった「赤唐辛子」をままごとの材料にして・・・
その手で顔や目を触った????
鮮烈な想い出レビューなのですが・・・
霧がかかっているような、曖昧模糊とした風景だけ・・・
空が青かったような・・・
私は大泣きして、涙ぽろぽろなのに、
周りの大人たちが笑っている・・・
それがまた癪で さらに泣き声をあげる~~~
はっきりとした記憶は無いのですが・・・
親戚が集まった時、何かにつけてこの時の話が持ちだされて・・・
「yoyoは 赤唐辛子でおままごとして 大泣きしたんだよ~」
と祖母・母・叔母の笑い話になって・・・・
それが 上書き加味されて記憶に残っているのかもしれませんね。
その後は 少しずつ記憶が自分のものとなっていく・・?
yoyoの年相応に残っている気持ちや、出来事、生活事情・・・
時空間をあちこちに飛んで、思い起こせたらいいなぁ~と思います。

10年一昔  2011年3月5日のブログ記事一覧-yoyo独り言
モロッコハイライト-48-マラケシュ観光-6-