初南米旅行 アルゼンチン&ブラジル1992年3月9日(~4月14日)。
始めて南米へ旅立ったのは1992年3月9日(~4月14日)。アメリカン航空の格安航空券をいつもの代理店で購入。ここの社長さんも旅行好きで兎に角お客に親切。この社長の世話で顧客中心の小さな英語塾が出来て英国人の女性に1年間英語を習いました。2組に分かれていて一組は留学や海外出張や海外移住の為必要に迫られた方々。
もう一組は海外旅行中一言でもいいから英語を喋りたいというノンビリ派。1年後社長の肝いりで「英語だけ喋って行く香港」なるツアーが企画されほとんどの生徒が参加しましたが、機中も旅行中も殆どが沈黙。イギリスへ非英語圏から来た方に教える教材は為になりましたし、立ったまま喋るのも良い経験でした。
余談ですが、この方実は香港駐留海軍の元えらいさんの娘さんで、現地では海軍の基地(その時はまだ英国の租借地)やネパールから来たグルカ傭兵さん達との交流もあって楽しい旅でした。これでジジも大分度胸がついてこの南米旅行も個人で行きました。勿論長年国際文通で培った現地の方からの招待でもありました。
このチケットはアメリカ国内に2か所Stopover出来たので、往路はオーランド、帰途はシアトルに寄りました。
1. アメリカ・フロリダOrlando (3/9--3/13)
3月9日は9.00am大阪―成田―テキサスダラス経由でオーランドへは同じ9日の900pmに到着。偶然生年月日が同じで交流していたオハイオ州から冬季はオーランドで過ごしていたペンフレンドSさんが出迎えて下さいました。
オハイオは冬寒いので、同じ大学で教鞭をとっておられた数名がオーランドの同じ場所に冬は住んでいるとかで私はUS$30位の安いモ-テル6に泊まりました。オーランドへ行った目的はまず時差調整、ディズニーワールドMGMやアプコットセンター、デイトナビーチ等へ行くため。車社会のアメリか、友人が車で案内してくれたので大助かり。
一つアクシデント発生。花火を見ていて遅くなりモノレールで広大な駐車場へ戻ったら昼間と勝手が違いさて駐車場所はどこかいな??? いくら探しても似たような場所ばかりでワカリマセン。おまけに大雨が。ほぼギブアッテプ寸前、同様の人が多いのでしょうね。パトロールが助けられました。というオハナシ。多分一人だったらどうしょうもなかった。
2. Buenos Aires(3/13--3/16)
5日間滞在し13日マイアミ経由でイヨイヨ「ブエノスアイレス」へ。当時アルゼンチンは景気が良くて機内はアメリカ旅行帰りのアルゼンチーナで満員。14日の11am到着時には何故かほぼ全員が大拍手。ペンパルHさんが出迎えてくれました。この方はブエノスアイレスの衛星都市サンイシドロに住まわれているのでバスでブエノスアイレスを車窓観光しながら1時間くらいで到着。列車なら40分位で彼は40年以上も大学へ通勤していたとか。
当時南米は治安が今一だと聞かされていましたが、見た目でも滞在中でもまず不安な事に出くわすことはなかった。一番びっくりしたのはアルゼンチンがスペインの植民地だと思い込んでいたら、実際はドイツとイタリアからの移民が大部分で、要は白人の国。現地人が多く住むブラジルやチリとはこの点が大きく違っていました。
勿論日系人も少しはおられますがあくまで少数派。日本の対蹠地(地球の真反対側)で丁度行った3月は日本の9月頃の気候で出ている月も日本で見るのと同じで虫の音まで似ていました。住んでいる方も穏やかそうな人ばかりで夕方には戸外で夕涼みする風景なんか日本とそっくり。
Hさんのお宅は大河ラ・プラタ河に近く何度か水害に遭ったので2Fが1Fのような造りでした。15日はブエノスアイレス観光に連れて行ってもらい、ヨーロッパそのものの街並みが残るブエノスアイレスを堪能。夜は「タンゴショー」も見ましたが客もダンサーも高齢者が多かった。後ブロードウエイでミュージカル「タンゴ・アルゼンチーノ」がヒットし若いダンサーが増え観客も若返ったと後日聞きました。
写真はパノラマ写真がそのまま取り込めたので修正版ではありません。
フロリダ州 デイトナビーチ
海かと思う広大なラ・プラタ河を通過してブエノスアイレスに到着直前
南米でも屈指のオペラハウス
タンゴ発祥の地と言われる港に近いボカ地区カミニート
繁華街フロリダ通り
公園です。
塔のデザインが変わった教会
ブエノスアイレスのランドマーク 五月広場