「善き人のためのソナタ」 2006年 ドイツ
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監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
出演 ウルリッヒ・ミューエ
マルティナ・ゲデック
ゼバスチャン・コッホ
ウルトリッヒ・トゥクール
トーマス・ティーメ
ハンス=ウーヴェ・バウアー
ストーリー
1984年11月の東ベルリン、DDR(東ドイツ国家)は国民の統制と監視のシステムを強化しようとしていた。
劇作家ドライマンの舞台初日、上演後のパーティーで国家保安省(シュタージ)のヘムプフ大臣は、主演女優でドライマンの恋人でもある魅力的なクリスタから目が離せなくなる。
党に忠実なヴィースラー大尉はドライマンとクリスタの監視および反体制的であることの証拠をつかむようヘムブフから命じられる。
早速ヴィースラーは彼らのアパートに向かい、屋根裏に監視室を作り盗聴を始め、詳細に記した日々の報告書を書き続けた。
既にクリスタと関係を持っていたヘムプフ大臣は「君のためだ」と脅し関係を続けるよう迫っていた。
その一方で、ヴィースラーは毎日の監視を終えて自分の生活に戻る度に混乱していく自分を感じていた。
そんな中、ドライマンは、DDRが公表しない、東ドイツの高い自殺率のことを西ドイツのメディアに報道させようと雑誌の記者に連絡を取った。
シュタージはドライマンのアパートを家宅捜査するが、何も見つけることはできなかった。
クリスタに約束を破られた大臣は、薬物の不正購入を理由に彼女を逮捕させ、刑務所へ連行する。
そこではヴィースラーが担当官として尋問にあたることになり、クリスタは・・・。
寸評
ベルリンの壁崩壊を背景にした作品として、東ベルリン市民の戸惑いを描いた「グッバイ・レーニン」という秀作が有ったが、本作品は体制側の非道が崩壊していく様を描いている。
人間らしく生きるという当たり前のことが禁止されていた時代を持った国は不幸だと思わされる。
ヴィースラーもクリスタも変心するのだが、その変心のプロセスにもう少し盛り上がりがあればもっと良かったのにと思う。
ヴィースラーはドライマンが弾く「善き人のためのソナタ」を、”これを聞いた人は悪人にはなれない”との言葉と共に聞いて変心していく。
それはシュタージ局員のヴィースラーが、少年の言動からシュタージ批判をしていると思われる少年の父親を突き止めないことで描かれている。
本来なら逮捕に向かうはずなのに、問い詰めないで見逃すことを見て、我々はヴィースラーの心の変化を読み取る構成になっていた。
僕としては、随分とあっけない描き方だなあと思ったのだが、描きたかったのはどうもそんな事ではなかったのかも知れない。
実はクリスタも役者としての心底を突かれて、これまた簡単に変心してしまっているのだ。
映画的な盛り上がりから言えば、この二つのシーンはもっとスリリングに描かれても良かった筈なのだ。
そう思うとこの映画は、あくまでも社会主義国家だった東ドイツの国家保安省”シュタージ”がいかに非道なことをやっていたのかの告発に主眼を置いていたのだと感じてしまう。
その事は国家保安省の大臣(トマス・ティーマ)がクリスタに興味を持ち、権力を利用して彼女を犯すことなどによって強調されている。
ベルリンの壁崩壊後、善き人のためのソナタと言う楽曲が、ドライマンによって同名の書物となって発刊され、それを手にするヴィースラーの姿で終るのは、善き人はどの世界にでもいるのだと知らされて感動した。
このシーンを見るだけでも、この映画を見る価値があると思う。
もちろん報告書に記された署名 HCW XX/7 に付いていた赤い指紋の伏線が張られていたことは言うまでもない。
ハゲで地味なおやじがトンデモナイ仕事をやっている。
トンデモナイ仕事も、仕事の中身の割には極めて地味な仕事である。
そんな地味なおやじが主人公で、地味な盗聴活動が物語なのに、見終われば涼やかな感動をもたらす。
ベルリンの壁崩壊後、作家を守り通した主人公に出世とは無縁の孤独な人生を与えつつ、粋な贈り物を用意。
主人公は自分を守ってくれた人間の存在を知り、直接お礼を言う代わりに、ある方法で感謝を伝える。
この感動は薫風の清々しさのようでもあり、一遍の詩に出会ったような感動があった。
そして、国家に”シュタージ”のような組織があると、個人なんて本当にどうにでも抹殺できてしまうし、国家権力がそんなことをやりだしたら本当に怖いものだとの実感を持った。
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監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
出演 ウルリッヒ・ミューエ
マルティナ・ゲデック
ゼバスチャン・コッホ
ウルトリッヒ・トゥクール
トーマス・ティーメ
ハンス=ウーヴェ・バウアー
ストーリー
1984年11月の東ベルリン、DDR(東ドイツ国家)は国民の統制と監視のシステムを強化しようとしていた。
劇作家ドライマンの舞台初日、上演後のパーティーで国家保安省(シュタージ)のヘムプフ大臣は、主演女優でドライマンの恋人でもある魅力的なクリスタから目が離せなくなる。
党に忠実なヴィースラー大尉はドライマンとクリスタの監視および反体制的であることの証拠をつかむようヘムブフから命じられる。
早速ヴィースラーは彼らのアパートに向かい、屋根裏に監視室を作り盗聴を始め、詳細に記した日々の報告書を書き続けた。
既にクリスタと関係を持っていたヘムプフ大臣は「君のためだ」と脅し関係を続けるよう迫っていた。
その一方で、ヴィースラーは毎日の監視を終えて自分の生活に戻る度に混乱していく自分を感じていた。
そんな中、ドライマンは、DDRが公表しない、東ドイツの高い自殺率のことを西ドイツのメディアに報道させようと雑誌の記者に連絡を取った。
シュタージはドライマンのアパートを家宅捜査するが、何も見つけることはできなかった。
クリスタに約束を破られた大臣は、薬物の不正購入を理由に彼女を逮捕させ、刑務所へ連行する。
そこではヴィースラーが担当官として尋問にあたることになり、クリスタは・・・。
寸評
ベルリンの壁崩壊を背景にした作品として、東ベルリン市民の戸惑いを描いた「グッバイ・レーニン」という秀作が有ったが、本作品は体制側の非道が崩壊していく様を描いている。
人間らしく生きるという当たり前のことが禁止されていた時代を持った国は不幸だと思わされる。
ヴィースラーもクリスタも変心するのだが、その変心のプロセスにもう少し盛り上がりがあればもっと良かったのにと思う。
ヴィースラーはドライマンが弾く「善き人のためのソナタ」を、”これを聞いた人は悪人にはなれない”との言葉と共に聞いて変心していく。
それはシュタージ局員のヴィースラーが、少年の言動からシュタージ批判をしていると思われる少年の父親を突き止めないことで描かれている。
本来なら逮捕に向かうはずなのに、問い詰めないで見逃すことを見て、我々はヴィースラーの心の変化を読み取る構成になっていた。
僕としては、随分とあっけない描き方だなあと思ったのだが、描きたかったのはどうもそんな事ではなかったのかも知れない。
実はクリスタも役者としての心底を突かれて、これまた簡単に変心してしまっているのだ。
映画的な盛り上がりから言えば、この二つのシーンはもっとスリリングに描かれても良かった筈なのだ。
そう思うとこの映画は、あくまでも社会主義国家だった東ドイツの国家保安省”シュタージ”がいかに非道なことをやっていたのかの告発に主眼を置いていたのだと感じてしまう。
その事は国家保安省の大臣(トマス・ティーマ)がクリスタに興味を持ち、権力を利用して彼女を犯すことなどによって強調されている。
ベルリンの壁崩壊後、善き人のためのソナタと言う楽曲が、ドライマンによって同名の書物となって発刊され、それを手にするヴィースラーの姿で終るのは、善き人はどの世界にでもいるのだと知らされて感動した。
このシーンを見るだけでも、この映画を見る価値があると思う。
もちろん報告書に記された署名 HCW XX/7 に付いていた赤い指紋の伏線が張られていたことは言うまでもない。
ハゲで地味なおやじがトンデモナイ仕事をやっている。
トンデモナイ仕事も、仕事の中身の割には極めて地味な仕事である。
そんな地味なおやじが主人公で、地味な盗聴活動が物語なのに、見終われば涼やかな感動をもたらす。
ベルリンの壁崩壊後、作家を守り通した主人公に出世とは無縁の孤独な人生を与えつつ、粋な贈り物を用意。
主人公は自分を守ってくれた人間の存在を知り、直接お礼を言う代わりに、ある方法で感謝を伝える。
この感動は薫風の清々しさのようでもあり、一遍の詩に出会ったような感動があった。
そして、国家に”シュタージ”のような組織があると、個人なんて本当にどうにでも抹殺できてしまうし、国家権力がそんなことをやりだしたら本当に怖いものだとの実感を持った。