ZENZAIMU(全財務公式ブログ)

本ブログは全財務労働組合中央本部及び地区本部役員が持ち回りで掲載しています※PC版表示にすると背景がおしゃれになります

神に依らずしていかにして聖者たりうるか

2019-03-19 00:00:00 | 主張

中央本部溝口です。

残すところ任期もあとわずか、早いもので全国を巡るのもいよいよ終局を迎えつつある。2月には東北地本の代表者会議に出席するため仙台にお邪魔させていただいた。その際、ご厚意で被災地視察の行程を組んでいただき、どういった形で、このご恩に報いることができるのか、せめて機関紙のどこかで触れられないかと考えを巡らしているうちに、3月15日号の機関紙が、いつしか図らずも、だいぶ東日本大震災にフォーカスした紙面構成に仕上がっていった。P4のご当地自慢までが東北からの寄稿となったことも嬉しい偶然であった。

3月15日号に触れたついでに、1~2面がやや自己主張強めの記事になってしまったことについて弁明したい。読んでくれる人がいることを信じて弁明したい。

1面では共闘の集会の模様を取り上げたわけであるが、共闘の取り組みの意義とか温度感を、機関紙を通じて、全国の皆さまと共有するというのは中々に難しい。まずはやっぱり記事で取り上げた集会の目的とか意図を明示することが一番大事、これが肝、欠かしてはなるまいと集会の目的として「公共サービスの重要性に関する社会的な理解の再構築」、あるいは「公務が担う社会的責任と役割についての認識を共有」と、丁寧に掲載してみたものの、なんだか抽象的で、取り組みの具体的な成果、効果を実感としてどこまで全国の組合員の皆さまと共有できるか、そこに苦心した。今回は参加者である橋本書記次長の感想という形で、前述の目的で開催された本集会が参加者にどういった心的効果をもたらしたか、具体化することを試みた。また、「編集人のつぶやき」と題した記事については、特に自己主張が強めに出てしまった感が否めないが、集会が盛り上がった争点、論点を具体的に取り上げ、集会のライブ感、温度感をお届けできればと思って触れてみた次第である。同時に、復興庁が責められて、責められっぱなしの構図で幕を下ろすことは同じ国の職員として本意でない、つまり、同じく国の職員として、国民生活のために奉仕している同志の仕事はやはり正当に評価されるべきだと思う一方で、被災者の想いもあって、責める側、責められる側、双方の立場の平衡感覚を意識しながら着陸することを試みた結果として、「編集人のつぶやき」とかいう一見奇を衒ったかのような産物を拵えてしまったが、真意はそんなところである。読者の皆さまが温かく受け入れてくれることを祈るばかりである。

以降は、余談である。毎度おなじみ、あさっての方向に脱線していくことになるが、ここまで読んでいただけた読者が、もしいらっしゃるようであれば、さすがにこの後は読み飛ばしていただくことをオススメしたい。

さてさて、、3月15日号を作りながら、私自身、国の職員として働くことを志した当時の初心を顧みる良い機会となった。学生の頃、数学が好きで、数学で現実を動かしたいと思って商学部に入って、カントやロールズが謳うリベラリズムの思想を地で行くような自分本位な動機で学業に取り組んでいたが、国際貿易のゼミに入って、グローバリズムとは何か、教授との問答を経て、真にリベラルな、グローバルな、国際人とはどのようなものなのか、一度立ち止まって考えなおすことを余儀なくされた。日本という国に生まれ、日本の文化を愛し、親に育てられ、学校に入れてもらい勉強する機会を作ってもらって、、、少なからずこうしたルーツを誰しもがそれぞれに持っていて、こうしたルーツが複雑に絡み合って、日本人としての個性、家族の一員としての個性、社会人としての個性、などなど数多複数の個性の複合体として一人の人格が形成されている。リベラリズムには、こうしたルーツやしがらみから個人は独立している、自由であるという個人主義的要素も多分に含まれているようだが、私なりに思うのは、こうした個性に対して、それぞれに負うべき責任があるのではないかと。そう思い立ったはいいが、いざ責任を果たしていくとなると、いかにそれぞれの個性に対する責任を果たしていくか。。これが極めて難解な問いである。偉大な先人の思想にもヒントを求めた。今でも探求の途上ではあるが、ぼんやり描いている到達点がある。

「神に依らずしていかにして聖者たりうるか」(カミュ著「ペスト」より引用)

西洋が紡ぎあげてきた歴史の中で、「神」は、あるいは「聖者」は何を象徴しているのか。カミュが「神に依らず」と表現した真意はなんだったのか、これを「キリスト教への盲目的な信仰からの脱却」と捉えたとき、「聖者」は自発的な意思を持って、キリスト教が示しているような世界観を体現することだと解釈することができる。これは「神は死んだ」で有名なニーチェの「超人」にも通ずる、近現代西洋における主要トピックでもある。では、キリスト教が示した世界観とは?小説「ペスト」の主人公2人のうち1人は他者に対する「共感」、もう一人は他者に対する「理解」をキーワードとして提示している。

福音書の一節もいくつか引用してみる。

「敵を愛しなさい。あなたを憎むものを愛しなさい。」

「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。」

キリスト教というと、日本人からは縁遠い、無機質で空虚な信仰のように思っていたが、トルストイが、ど素人にも分かるように丁寧に、平易に教義を解説してくれている。ひととおりその本を読み終わったころには、キリスト教が自分の思想と有機的に一体化するような感覚、我ながら、ちょっとキモめの表現かもしれないが、なんとなくそんな感覚に襲われた、ある意味では座右の書といってもいいぐらいの名作なので、その内容、あらすじを紹介しておこう。

私たち人間は、そもそもなんのために生きているのか、ざっくりと言って、自分が幸福になるため、と言い切って差し支えないのではなかろうか。幸福を志向しない人はいない、そう仮定しよう(トルストイは断言しているが、私自身はやや懐疑的な立場をとっている)

お金持ちになること、おいしいものを食べること、寝ること、家庭を築き子どもを産み育てること、働くこと、運動すること、モテること、思い描く幸福は人それぞれだと思うが、こういうものは少なからず、受験競争、出世競争、そのほか資本主義・自由主義社会におけるありとあらゆる競争の過程で他者を押しのけて勝ち取ってきたものである。

残酷な競争至上主義の社会で生きてきて、一部の人は、私も含めてであるが、自分が思い描く幸福らしきものが、得難いもの、手の届かないもの、決して飽き足りることのない幻影、あるいは儚く失われてしまいかねないもののように思え、幸福への志向を断念する。断念せざるを得ないことに気づく。トルストイは、こうした葛藤、幸福を志向しながらも断念せざるを得ない葛藤を一言で「内的矛盾」と呼んでいるが、この内的矛盾をさらに突き詰めていくと、私たちが個々に自分の個人的な幸福を志向するのではなく、個々が自分以外のほかのすべての人の幸福を志向することによってしか、人生の幸福、すなわち社会全体の幸福を達成することができないことに気づいてしまう。この道より他にはないのである。そうとしか思えない。ほかのすべての人の幸福を志向すること、あらゆる他者に奉仕すること、この活動の総称こそがキリストの言う「愛」である。キリストの言う「愛」とは俗に言われる「愛」ではない。俗に言われる「愛」は往々にして「偏愛」や「性愛」でしかない。

「愛の源、愛の根源は、ふつう想像されているような、理性をくもらせる愛の衝動ではなく、もっとも理性的で明るく、したがって、子どもや理性的な人間に特有な、おちついた喜ばしい状態なのである。」

「真の愛は常にその根底に個我の否定と、そこから生ずるあらゆる人に対する好意を有しているものだ。」(「個我」は「エゴイズム」と言い換えて差し支えないだろう。)

この文脈における「愛」を体現することが、私が思い描く、私自身に課せられている責任の果たし方の究極的な到達点であり、国の職員としても、愛(←これは偏愛)してやまない日本文化への恩返しとして、その職務の中で、他者への「共感」「理解」のための想像力を研ぎ澄ませ、あらゆる他者への奉仕の在り方とはいかなるものなのか、模索を続けていきたい。

これが学生時代に漠然と思い描いた到達点であるが、今でもこの情熱の火(少々弱火)が絶えることはない。日々の職務の中で、各論となるとなかなか体現が難しいこともあるが、この芯の部分を見失わず、これからも日々の仕事と向き合っていきたいと思う今日この頃。

P.S.今回も気づいたら超大作となってしまった。。もはや誰もここまでたどり着く方はいるまい。ブログ当番も残すところ2回。。無目的で、なんの効果を期待することもなく、己の変人っぷりを遺憾なく世に晒すことに、いよいようんざりしつつあるが、読者のみなさまのほうがはるかにうんざりされていることかと思うので、せめてあと2回は辛抱して頑張ることにしたい。次回はキリスト教においてよく言われる「永遠の生命」とかけて「行政の組織で働くこと」と解いてみようかと目下思案中。相も変わらず読者置き去りで、独走状態を堅持する見込みとなっている。