あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

平和と平等と公平について考える

2013年09月03日 23時36分03秒 | Weblog
 平和が大事、平和にしなくちゃ、平和は守らねば、ということを、100人の人に聞けば100人が肯定するだろう。しかし、それでは平和とは何かと突き詰めたら、答えはバラバラになるかもしれない。世の中には「平和のための戦争」などと平気で言う人がいるくらいだ。
 平和とは、人々が安全に安定的に暮らせる状態のことを言うのだと、ぼくは思う。それは肉体的なことだけでなく、精神的にもそうでなければならない。
 だが資本主義はそれとは全く反対の価値観を基準にしている。それぞれがリスクを負う流動的な社会。もちろんその代償として、人類史上画期的な目を見張るような経済成長が実現した。ご先祖様がこの時代を見たら魔法の国だと思うだろう。
 人々はこの平和と資本主義の根本的矛盾について、気づかないか、見ないふりをするか、それとも、うまくやれば両立するはずだと考えている。

 平和の反対語は何だろう? 戦争?
 戦争がなければ、もしくは自分が戦争の被害にあっていなければ、それは平和なのか。どうやら、今のアメリカとか日本の政治家や世論などはそうは思っていないようだ。
 アメリカは遠く離れたシリアのアサド政権がサリンを使ったことが平和ではないと考えているし、日本では中国艦船が尖閣諸島の付近を航行することが平和ではないと考えている。
 そんな国際政治の話をしなくても、福島の原発事故が収束せず拡大を続け、いまだに多くの国内難民が存在する事態を平和と呼べるのか、埼玉と千葉の市街地で竜巻が突然発生し大きな損害を出すような状況が平和と呼べるのか。
 平和について考え始めると本当に難しい。

 平和はどうしたら実現できるのか。平和学という学問がある。ぼくは学んだことがないので全く分からないが、どうもあまり大きな成果はあがっていないようだ。
 平和というものが複雑で難しいということは、平和を阻害するもの、こと、メカニズムも複雑でわかりづらいということを意味する。たとえば戦争は戦争を生む。戦争は一方的には起こらない。ある勢力の攻撃に対してもう一方の側が反撃するから戦争になる。いったん起きた戦争は、仮に終結したとしても憎しみを残し、やがてそれが次の戦争の火種となる。このようにしてルサンチマンによる戦争の繰り返しは、いつかその戦争の始まりを忘れさせてしまいもする。

 しかし、そうした複雑でわかりづらい要素を丁寧に剥ぎ取り、冷静に客観的に見ていくと、平和を阻害する要因はかなりはっきり見えてくると思う。
 それは貧困、すなわち貧富の差、格差である。それは逆から言えば強欲である。

 「絶対的貧困」という用語がある。いわば世界的基準における「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を奪われた状態のことを言う。それはそういう概念の用語としてよいのだが、客観的事実として、貧困というのは全て相対的である。
 もし人類全体の生産力が数百年前のレベルであったら、現在の「絶対的貧困」はかなり一般的な状態だと言えるかもしれない。それが現代では容認しがたい悲劇的状況だと考えられるのは、世界の富裕層との格差があまりにも大きすぎるからだ。

 戦争が発生する本質的要因は経済問題である。貧困からの脱出を図るためか、もしくはより多くを得ることが目的である。
 日本が侵略戦争をおこなったのは「資源の無い国」が資源を得るためだと宣伝された。そしてまた事実としては、財閥が巨大な市場を獲得したかったからでもある。
 アメリカが湾岸戦争やイラン侵攻を強行したのは石油権益を求めてのことだった。
 戦争ではないが、中国が尖閣諸島を自国の領土だと宣言し問題化したのは、海底資源の存在が明らかになったからだ。
 イスラエルとパレスチナの問題も、イスラエル側にあったのは宗教的渇望だったかもしれないが、一方のパレスチナ人にとっては生活の基盤である土地を奪われ追われたのであり、自身の地位の奪還運動として反イスラエル闘争が始まったのだ。

 環境問題もその全ての発生源は経済的問題にある。差別問題も原初的にはある集団が別の集団から経済的権益を収奪する構造から発生する。

 もう少しわかりやすく考えるなら、様々な問題(の発生原因)について、もし誰かが誰かから何かを奪わなかったとしたらどうなったかという思想実験をしてみれば良い。ほとんどの問題は思想や宗教そのもの、もしくはプライドだとか郷土愛などという精神的理念的問題が主原因ではないことがわかると思う。
 経済的問題が無いところでは、民族や宗教や職種が違っていても人々は別に争ったりはしないのである。少なくとも圧倒的多数の人においては。

 経済問題というのは、すなわち収奪と格差の問題である。
 人々が完全に平等で、かつそのことに何の不満も無いなら経済問題は発生しない。誰かが誰かより、より多く手にしたいと思うところから、収奪と格差が発生する。
 もちろんある時代、ある場所においては、そのことは強欲というのではなく、本当に自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれてのことであるかもしれない。自分や自分の仲間が生きていくために富が絶対的に不足しており、あとは他の人々から奪う以外に手段が無いという状況もありうるだろう。
 しかし人間はあまりにも簡単に状況を自分に都合よく解釈してしまう。
 そのとき必ずしも自分たちが危機ではないにもかかわらず、ひょっとしたら将来は危ないかもしれない、だからもっと富が必要だ、だから他者からもっと奪わなくてはならないと拡大解釈が始まるのだ。

 もっとも「もっと必要だ」という強迫観念は、ただ収奪にだけ向けられるわけではない。それは技術的発展としても発現し、人類は加速度的に生産力を高めてきた。そして近代の産業革命という大爆発を経て、人類は現在、かつてない程の生産を実現しているのである。

 それでも人間は足ることを知らない。これはもはや言い訳の出来ない強欲である。収奪の仕方もどんどん洗練されてきて、今では地球上のほとんどの人間が誰かに収奪されているのにもかかわらず、そのことに気づかせない位、高度なやり方になっている。たとえば、そのひとつが賃金労働である。(残念ながら今日は賃労働について触れる余裕がない。いつかちゃんと書きたいと思う)

 実は「平等」という言葉もまた、その高度に洗練された収奪のテクニックに組み込まれている。
 よく政治家やエコノミストは「平等で自由な競争」を唱える。しかし現実のこの社会に「平等で自由な競争」など存在しない。誰でもわかることだが、少なくとも日本では金持ちの子どもはより高度な教育を受け、有形無形の様々な資産を受け継ぎ、より有利な条件で「競争」する。これはほとんど出来レースで、勝つのは当たり前だろう。
 もっと過酷な「競争」を強いられるのは発展途上国の人々である(「発展途上国」という言い方にも問題は無きにしも非ずだが、今回はわかりやすくそう呼んでおく)。アジア、アフリカ、中南米などの人々は長いこと欧米日の植民地(もしくは実質的植民地)の位置におかれ、競争するにしてもそのスタート時点から圧倒的な差をつけられている。こんな「競争」が競争と言えるわけがない。

 争いを止め平和を生み出すためには、絶対的平等が必要だとぼくは思う。それは結果の平等ということである。そもそも人間社会は協働社会であり、それぞれの人々の分業によって成立している。どの役割もみな社会に必要なのである。
 子どもは直接生産に加わらないかもしれないが、将来の生産者として核心的に重要だし、老人には知恵がある。一見、何の役にも立たないように見えるお調子者が、実はムードメーカーとして必要だったりする。宗教的な言い方かもしれないが「石ころにだって意味がある」
 その意味で、社会が生み出す生産物は全てが全ての人の協働の結果なのだ。そうであるなら基本的な考え方は、社会が生んだものは社会の全員に平等に分配されるべきだということになる。もちろん現実的には個々の諸条件によって分配に差があって当然だと思うが。
 昨今よく「グローバル化」などと言われるが、地球人類が全体でひとつの協働社会だと考えるなら、人類全体がみな結果の平等を得られるべきだと思う。

 ただ、こういう考え方には抵抗のある人がきっと沢山いるだろう。
 そうであるなら、せめて「スタート時点での平等」を保証すべきである。もし「平等で自由な競争」と言うのなら、アメリカのセレブの子どもも、アフリカのサバンナの遊牧民の子どもも、全くはじめから同一条件でスタートできなくてはならない。
 それが公平と言うものだろう。公平でない平等などあり得ない。