福島事故原発の汚染水垂れ流し問題。
きのう安倍総理は現地視察を行った。別に悪いことではないが、それでいったい何を確認できたのか。なんだか作りこまれた政治パフォーマンスにしか見えなかった。とにかく政府の対応は、まず口先だけ格好の良い抽象的な言葉を先行させ、実態としてはなるべくカネをかけず、また現実的には全ての責任を東電に丸投げするという、あまりにもフワフワしたものでしかない。
同じ視察でも菅直人総理(当時)の緊急視察のような切迫感も威圧感も無く、あまりにも危機感が薄い感じがした。実際にこの二年半の内閣の中で、福島原発事故が日本を滅ぼしかねない大事故であるという認識を持った政治家は、おそらく菅さん一人だろう。しかしその菅さんでさえ、結局は経済界の圧力に負け、すぐに腰砕けになってしまったのだが。
地元の漁協は今月から試験操業を行う予定だったが、汚染水問題の発覚によって延期せざるを得なくなった。しかし、このままでは地元漁業が壊滅してしまうという危機感から再度あらためて開始を決めるなど、混乱を深めている。
地元漁民にとって最も死活的重要性を持つのは消費者の動向である。いかに放射能の基準値が規定値を下回ったと言っても、同じものがあるのなら人があえてリスクの高い方をとるわけがない。スーバーに買い物に行けばすぐわかる。主婦は同じ棚に並んでいる同じ商品でも、細かく消費期限などをチェックして選んで買うのである。そこまで敏感な消費者に、汚染水が入り込んでいるかもしれない海で採れた魚を買わせるのは不可能に近い。
この汚染水問題をきっかけとして韓国が東北、関東の8つの県からの水産物の輸入禁止を表明した時、菅官房長官は韓国は科学的根拠がないのに輸入を禁止したと非難した。
しかし現実に日本国内においても人々が敬遠しているものを外国が拒否するのは当然ではないのか。管氏は忘れっぽい人なのかもしれないが、BSE(狂牛病)問題の時には日本政府はアメリカの基準を信用せず、日本独自の基準で輸入制限を行った。その規制がやっと緩和されたのは安倍政権が発足した今年の初めである。
安倍首相も菅氏も「世界で一番厳しい基準」と言う言葉を好んで使うが、そもそも「日本が一番」神話ははるか昔に崩れ去ってしまっている。だいたい震災前から日本の原子力発電所は世界一安全だったのではなかったか? しかもいくら表面上基準が厳しくてもそれを守らなければ、そこにはひとかけらの意味もない。
原子力規制委員会の田中俊一委員長が「世界一厳しい」と言い切った原発の新しい安全基準も、現実には各国が規定している予測される最大の地震の大きさが入っておらず、ザルと言われてもしかたないお粗末さだ。
国内の一般的な許容被爆線量は年間1mSvだが、いつの間にか福島の避難指示解除準備区域の基準は年間20mSv以下にされてしまった。これはチェルノブイリの5mSvよりはるかに高い。政治的な判断で政府の都合の良い数字にコロコロ変わってしまうような基準のどこに「科学性」を主張できるのだろう。
安倍氏の「汚染水は完全にコントロール出来ている」発言と言い、いったい政治家はこんないい加減な口から出任せを言い続けて恥ずかしくないのか。いや恥ずかしいどころではない。非常に危険である。一方でここに来ての秘密保持法だ。明らかに矛楯していることでもひょっとしたら今後はその根拠を追求することさえ出来なくなってしまうかもしれない。
もちろん事実として、放射能の海にいる魚を食べても「ただちに」健康に影響するわけではない。おそらく本当に深刻な影響が出るとしても、それが発覚するのははるか未来のことだろう。そのころには現在の政治家も官僚も企業家もみんな引退するか死んでるかしている。今さえ乗り切れば彼らは逃げ切れるのである。
政治家は言葉で戦うと言われる。雄弁、能弁であることが政治家の資質であると言われる。しかし、レトリックで乗り切ってはいけないこともあるのだ。政治家の言葉をそういう風に使うことは絶対に許されない。
本当か嘘か知らないが吉田茂は「嘘も百遍つけば本当になる」と言ったそうだ。しかし何千回、何万回嘘をつこうが、放射能の脅威が消えるはずがない。
今ぼくが恐れるのは、安倍氏が国際社会に対して「完全なコントロール」を宣言してしまったことが、逆に新たな問題の隠蔽を生むのではないのかということだ。嘘を真実に見せるためにまた嘘をつく、事実を隠す。そんな連鎖が続いたらいったいどうなってしまうのか。
福島の漁業の問題は確かに風評被害と言うことも出来る。テレビを見ていたらコメンテーターが「消費者の意識の問題だ」と言っていた。
しかしやはりこれは風評被害などではないのだ。風評被害というのは根拠なく消費者がパニックに陥ることを言う。だが人々はパニックに陥っているわけではない。それではこれは何かと言えば、それは政府に対する不信感なのである。
人々は風評に惑わされているのではなく、政府、行政によって担保されるはずの安全が失われている、嘘と隠蔽ばかりでもはや何も信用できないと感じているのだ。だから自分の身を自分で守ろうとしているだけなのである。
まず政治家、政府、行政、企業が、現実と真摯に向き合うこと、何が出来て何が出来ないのかをはっきりさせること、不都合な真実であればあるほど隠さず公表すること。
失敗したり、力が足りないことが悪いのではない。それを認めず隠蔽しその場しのぎをし続けることが最悪なのである。根底的な信頼を得られない政治は、どんなに表面的に好調であってもいずれ巨大な崩壊をまねく。歴史がそれを何度も証明してきたことを思い返すべきだろう。
きのう安倍総理は現地視察を行った。別に悪いことではないが、それでいったい何を確認できたのか。なんだか作りこまれた政治パフォーマンスにしか見えなかった。とにかく政府の対応は、まず口先だけ格好の良い抽象的な言葉を先行させ、実態としてはなるべくカネをかけず、また現実的には全ての責任を東電に丸投げするという、あまりにもフワフワしたものでしかない。
同じ視察でも菅直人総理(当時)の緊急視察のような切迫感も威圧感も無く、あまりにも危機感が薄い感じがした。実際にこの二年半の内閣の中で、福島原発事故が日本を滅ぼしかねない大事故であるという認識を持った政治家は、おそらく菅さん一人だろう。しかしその菅さんでさえ、結局は経済界の圧力に負け、すぐに腰砕けになってしまったのだが。
地元の漁協は今月から試験操業を行う予定だったが、汚染水問題の発覚によって延期せざるを得なくなった。しかし、このままでは地元漁業が壊滅してしまうという危機感から再度あらためて開始を決めるなど、混乱を深めている。
地元漁民にとって最も死活的重要性を持つのは消費者の動向である。いかに放射能の基準値が規定値を下回ったと言っても、同じものがあるのなら人があえてリスクの高い方をとるわけがない。スーバーに買い物に行けばすぐわかる。主婦は同じ棚に並んでいる同じ商品でも、細かく消費期限などをチェックして選んで買うのである。そこまで敏感な消費者に、汚染水が入り込んでいるかもしれない海で採れた魚を買わせるのは不可能に近い。
この汚染水問題をきっかけとして韓国が東北、関東の8つの県からの水産物の輸入禁止を表明した時、菅官房長官は韓国は科学的根拠がないのに輸入を禁止したと非難した。
しかし現実に日本国内においても人々が敬遠しているものを外国が拒否するのは当然ではないのか。管氏は忘れっぽい人なのかもしれないが、BSE(狂牛病)問題の時には日本政府はアメリカの基準を信用せず、日本独自の基準で輸入制限を行った。その規制がやっと緩和されたのは安倍政権が発足した今年の初めである。
安倍首相も菅氏も「世界で一番厳しい基準」と言う言葉を好んで使うが、そもそも「日本が一番」神話ははるか昔に崩れ去ってしまっている。だいたい震災前から日本の原子力発電所は世界一安全だったのではなかったか? しかもいくら表面上基準が厳しくてもそれを守らなければ、そこにはひとかけらの意味もない。
原子力規制委員会の田中俊一委員長が「世界一厳しい」と言い切った原発の新しい安全基準も、現実には各国が規定している予測される最大の地震の大きさが入っておらず、ザルと言われてもしかたないお粗末さだ。
国内の一般的な許容被爆線量は年間1mSvだが、いつの間にか福島の避難指示解除準備区域の基準は年間20mSv以下にされてしまった。これはチェルノブイリの5mSvよりはるかに高い。政治的な判断で政府の都合の良い数字にコロコロ変わってしまうような基準のどこに「科学性」を主張できるのだろう。
安倍氏の「汚染水は完全にコントロール出来ている」発言と言い、いったい政治家はこんないい加減な口から出任せを言い続けて恥ずかしくないのか。いや恥ずかしいどころではない。非常に危険である。一方でここに来ての秘密保持法だ。明らかに矛楯していることでもひょっとしたら今後はその根拠を追求することさえ出来なくなってしまうかもしれない。
もちろん事実として、放射能の海にいる魚を食べても「ただちに」健康に影響するわけではない。おそらく本当に深刻な影響が出るとしても、それが発覚するのははるか未来のことだろう。そのころには現在の政治家も官僚も企業家もみんな引退するか死んでるかしている。今さえ乗り切れば彼らは逃げ切れるのである。
政治家は言葉で戦うと言われる。雄弁、能弁であることが政治家の資質であると言われる。しかし、レトリックで乗り切ってはいけないこともあるのだ。政治家の言葉をそういう風に使うことは絶対に許されない。
本当か嘘か知らないが吉田茂は「嘘も百遍つけば本当になる」と言ったそうだ。しかし何千回、何万回嘘をつこうが、放射能の脅威が消えるはずがない。
今ぼくが恐れるのは、安倍氏が国際社会に対して「完全なコントロール」を宣言してしまったことが、逆に新たな問題の隠蔽を生むのではないのかということだ。嘘を真実に見せるためにまた嘘をつく、事実を隠す。そんな連鎖が続いたらいったいどうなってしまうのか。
福島の漁業の問題は確かに風評被害と言うことも出来る。テレビを見ていたらコメンテーターが「消費者の意識の問題だ」と言っていた。
しかしやはりこれは風評被害などではないのだ。風評被害というのは根拠なく消費者がパニックに陥ることを言う。だが人々はパニックに陥っているわけではない。それではこれは何かと言えば、それは政府に対する不信感なのである。
人々は風評に惑わされているのではなく、政府、行政によって担保されるはずの安全が失われている、嘘と隠蔽ばかりでもはや何も信用できないと感じているのだ。だから自分の身を自分で守ろうとしているだけなのである。
まず政治家、政府、行政、企業が、現実と真摯に向き合うこと、何が出来て何が出来ないのかをはっきりさせること、不都合な真実であればあるほど隠さず公表すること。
失敗したり、力が足りないことが悪いのではない。それを認めず隠蔽しその場しのぎをし続けることが最悪なのである。根底的な信頼を得られない政治は、どんなに表面的に好調であってもいずれ巨大な崩壊をまねく。歴史がそれを何度も証明してきたことを思い返すべきだろう。