タイトルの後藤久典という名前を知っている人は少ないかもしれない。しかし今ニュースで大騒ぎになっている「復興は不要」とブログに書いた経産官僚と言えばわかるだろう。
この人は東大経済学部卒のエリートで、1986年に通産省に入省、中小企業庁、防衛省(出向)、貿易経済協力局貿易管理部安全保障貿易管理課長(長い;;)などを経て、事件発覚まではJETROに出向しミラノ国際博覧会日本政府代表を務めていた。安全保障と貿易管理の専門家とされている。
プライベートでは2006年から「コロンとパパのにゃぁ/ラブの男の子コロンとサッカー好きのパパとのにゃぁにゃぁな語らい」というブログを始め(当初は娘が飼い始めた犬の成長期だったそうだが)、そこに頻繁に非常識な書き込みをしていた。
マスコミでは「復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいい」という部分がクローズアップされているが、ネットで調べてみるととてもそんなことに収まらないような多くの問題があるようだ。
この人のブログは全体量が膨大で、しかもすでに記事は削除されており、申し訳ないことにぼくはまだ内容をちゃんと把握できていないのだが、ネット上では民族差別、高齢者差別、インサイダー取引き、防衛機密漏洩、天下り、動物虐待、盗撮など、多くの問題が指摘されている。また第一次安倍政権時に安倍首相を揶揄したり、野球や相撲など特定のスポーツや、特定の人の容姿について、侮蔑、誹謗、中傷もしていたようだ。
(そもそもこのブログが「発見」されたのは、2ちゃんねるのサッカーファンと野球ファンが罵倒しあうスレッドの中からだそうだ)
はっきり言って、とんでもないろくでなしである。眉をひそめる人、憤る人が大半だろう。経産省は早々に現職を更迭し二ヶ月間の停職処分を下した。
しかし。
ぼくも腹立たしいし、こういう人が国家の官僚にいて欲しくない。だが、だからと言って、後藤氏が公務員としての信頼を失墜させたという処分理由は、果たして正当なのだろうか。
確かに彼は国家のエリート官僚としてふさわしくない内容をブログに書いた。しかしそれは匿名であり、彼の身元を割り出し公開したのは2ちゃんねる住民であって、本人が公務員の身分を明かして意見表明する意図があったようには思えない。彼はむしろブログを匿名にすることによって公務員の信頼を守ろうとしたのではないのか。もちろん脇が甘かったというか、過失責任はあるかもしれないが。
はっきり言って彼の書いているような「非常識」な言葉は、残念ながらネット上に蔓延している。そうした大量の悪意に満ちた匿名の書き込みを、表現の自由として放置し(あるときには政治家や官僚がそれを「世論」としてうまく利用したりもしておいて)、ただ後藤氏の身元が暴露されたことを理由に、ひとり彼だけに責任を負わせてすますのが正しいやり方なのだろうか。
たとえばこれが、インサイダー取引だとか、機密漏洩だとか、はっきりした罪に対しての処分なら納得できる。彼に侮辱されたり、誹謗中傷されたり、盗撮された人々が彼を名誉毀損等で訴えたわけでもない。
何かを隠すように、臭いものにふたをするように、すばやい処分を決めてしまった国と経産省のやり方には、何か納得できないものを感じる。また同時に、この問題を被災地復興に関する暴言問題としてだけ報道するマスコミのあり方にも疑問を感じる。
ぼくは正直に言って、官僚や政治家が本音を語ることは、隠されるよりも、とりあえずずっと良いことだと思っている。本音がわからなければ批判もできない。騙され続けるより暴言を吐かれた方がずっと良い。
今年の春に復興庁の官僚がツイッターで暴言を吐いて問題になった。その直後に某岩手県議が県立病院の対応をブログで非難し、それが原因で自殺に追い込まれた。さらにあの一連の橋下発言騒動があった。安倍現首相はまさに言いたい放題だ。
確かにどれもひどすぎる。しかし彼らが発言するから、おそらく官僚は日本の現状についてこう考えているのだ、政治家は戦争と平和についてこう考えているのだ、そしてその品性はどの程度のものなのか、といったことがはっきりわかるのである。
それでもなお、そうした政治家を選び、そうした政府をよしとするなら、それは政治家や官僚の責任ではない。全くもって有権者の責任なのである。騙されたなどという言い訳はできない。だがそれが民主主義としては健全なあり方なのではないだろうか。
もうひとつ考えておくべきことは、思想、信条、言論の自由の問題である。
官僚や公務員が特定の思想・信条・宗教に偏って仕事をしたら、それは大問題である。それは当然ちゃんと検証され常識的な処分が下されてしかるべきだ。
しかし今回のケースで後藤氏の仕事にそういうことがあったのだろうか。あったとしたら国、経産省はそれを明らかにすべきである。それは後藤氏本人の人権の問題だけでなく、国民全体に対する問題だからだ。
しかし、もし彼が個人の立場、範囲において、自分の思うことを表現しただけだとしたら、それは安易に処分されて良いことなのだろうか。
たとえば日の丸・君が代に批判的な教員が恒常的に当局から監視され、毎年処分者が出る。たしかにそれは時の政権の方針を否定するものかもしれないが、少なくとも教員個人が自分の思想・信条に従って行動し意見を表明することを弾圧するのは憲法違反で不当だと、ぼくは考えている。
もちろん後藤氏の書いた内容は、ぼくの見るところでは犯罪に近いひどいものだと思うが、実際にそれが犯罪であると司法の判断が下されない限り、それをもって彼を処分してはならないと思う。
いかにひどい内容だとしても、思想を裁いてはならない。
ぼくは後藤氏が処分されたり処罰されることに反対しているのではない。むしろそうなって当然だと思う。しかしそのためにも国や経産省は弥縫のための(もしくは自己保身のための)処分を行うのではなく、彼のブログ書き込みがどのような罪に当たるのか、しっかり明らかにし、そして司法の場においてその罪をはっきりさせるべきである。
そうでないと後藤氏の罪は「隠し通せなかったこと」になってしまう。彼自身、テレビ朝日の直撃インタビューで次のように語っている。
「ごく親しい方にのみ自分の日常を伝えているつもりでしたので…」
「匿名であれば私人であろうという誤った観念でやっておったというのが正直なところで、自分の考えが甘かったと思わざるを得ません」
「日々の出来事を淡々と書いていただけだったんですけれど…ITに関するリテラシーがなかった」
「結果として大変多くの皆様方を傷つけたことを深く反省しておりますので…私自身は日本の国家がいつまでもしっかりと繁栄していくことを本来切に願っています…申し訳ございませんでした」
彼が反省しているのは、身元がばれてしまったことに対してであって、その内容、自分の思想に対して自己批判しているわけではない。「リテラシーがなかった」というのはブログをうまく使いこなせなかったという意味であり、書き込みは「国家がしっかり繁栄していく」ようにとの思いからだったが、それをうまくやれなかったと言っているようにさえ聞こえる。
当然のことながら問題の本質は、官僚の本音が表面化したかどうかではない。エリート官僚に根深く存在する選民思想をこの社会の中でどう受け止め、社会としてどう対処するかである。
これは政治的な問題、行政の問題というより、文化の問題であり、狭く言えば教育の問題、広く言えば社会の問題だ。処分、処罰をしたら解決するという性質のものではない。
いったいなぜ21世紀の文明国にこんな輩が出現し、しかも国家の中枢に巣くっているのか。もちろん巣くっているのは国家官僚の中だけではないのだろう。おそらく経済界や文化人の中にも同じような人たちがたくさんいると思う。
後藤氏たちの言動が示しているのはこの社会の根本的な歪みである。本音と建て前の乖離である。自由、平等、友愛、平和、民主主義といった我々の社会の基盤であるはずの崇高な思想と、現実にその社会に生きている人間が信じている価値観や思想が、あまりにも大きくずれているということだ。まるでこの世界が完全な虚構であったかのような気持ちに襲われる。
右翼勢力はやれ自虐史観だ、内向きだと、現代の文化、教育を批判するが、まさにその正反対の思想を身につけた者たちが、このような考え方になってしまっているのである。
ぼく自身が今この問いに対して、何かはっきりした答えを持っているわけではない。ただひとつ、もしかしたらヒントになるかもしれないのは、今日のこの文章の中で取り上げたすべての人物が、あのナチス発言の講演時に麻生氏が指摘して批判していた50代~60代の世代だと言うことである。
それはポスト全共闘時代に行われた大きな教育制度改悪と関係しているのではないだろうか。
いずれにせよ、この問題を即時処分で幕引き沈静化させてはならない。
多くの人が怒りを感じ、処分に賛同する気持ちはわかる。しかしここでそうしたルサンチマンに乗っかり、嫌なやつは排除しろという論議で終わってしまったら、この問題はただの笑い話、エピソードで消えていくだけだ。
冷静に、いったい後藤氏の何が犯罪であるのかをちゃんと検証して明らかにし、またすべての人が問題の本質としっかりと向き合うことによってのみ、この問題がこの社会において意味あるものになるのだと思う。
この人は東大経済学部卒のエリートで、1986年に通産省に入省、中小企業庁、防衛省(出向)、貿易経済協力局貿易管理部安全保障貿易管理課長(長い;;)などを経て、事件発覚まではJETROに出向しミラノ国際博覧会日本政府代表を務めていた。安全保障と貿易管理の専門家とされている。
プライベートでは2006年から「コロンとパパのにゃぁ/ラブの男の子コロンとサッカー好きのパパとのにゃぁにゃぁな語らい」というブログを始め(当初は娘が飼い始めた犬の成長期だったそうだが)、そこに頻繁に非常識な書き込みをしていた。
マスコミでは「復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいい」という部分がクローズアップされているが、ネットで調べてみるととてもそんなことに収まらないような多くの問題があるようだ。
この人のブログは全体量が膨大で、しかもすでに記事は削除されており、申し訳ないことにぼくはまだ内容をちゃんと把握できていないのだが、ネット上では民族差別、高齢者差別、インサイダー取引き、防衛機密漏洩、天下り、動物虐待、盗撮など、多くの問題が指摘されている。また第一次安倍政権時に安倍首相を揶揄したり、野球や相撲など特定のスポーツや、特定の人の容姿について、侮蔑、誹謗、中傷もしていたようだ。
(そもそもこのブログが「発見」されたのは、2ちゃんねるのサッカーファンと野球ファンが罵倒しあうスレッドの中からだそうだ)
はっきり言って、とんでもないろくでなしである。眉をひそめる人、憤る人が大半だろう。経産省は早々に現職を更迭し二ヶ月間の停職処分を下した。
しかし。
ぼくも腹立たしいし、こういう人が国家の官僚にいて欲しくない。だが、だからと言って、後藤氏が公務員としての信頼を失墜させたという処分理由は、果たして正当なのだろうか。
確かに彼は国家のエリート官僚としてふさわしくない内容をブログに書いた。しかしそれは匿名であり、彼の身元を割り出し公開したのは2ちゃんねる住民であって、本人が公務員の身分を明かして意見表明する意図があったようには思えない。彼はむしろブログを匿名にすることによって公務員の信頼を守ろうとしたのではないのか。もちろん脇が甘かったというか、過失責任はあるかもしれないが。
はっきり言って彼の書いているような「非常識」な言葉は、残念ながらネット上に蔓延している。そうした大量の悪意に満ちた匿名の書き込みを、表現の自由として放置し(あるときには政治家や官僚がそれを「世論」としてうまく利用したりもしておいて)、ただ後藤氏の身元が暴露されたことを理由に、ひとり彼だけに責任を負わせてすますのが正しいやり方なのだろうか。
たとえばこれが、インサイダー取引だとか、機密漏洩だとか、はっきりした罪に対しての処分なら納得できる。彼に侮辱されたり、誹謗中傷されたり、盗撮された人々が彼を名誉毀損等で訴えたわけでもない。
何かを隠すように、臭いものにふたをするように、すばやい処分を決めてしまった国と経産省のやり方には、何か納得できないものを感じる。また同時に、この問題を被災地復興に関する暴言問題としてだけ報道するマスコミのあり方にも疑問を感じる。
ぼくは正直に言って、官僚や政治家が本音を語ることは、隠されるよりも、とりあえずずっと良いことだと思っている。本音がわからなければ批判もできない。騙され続けるより暴言を吐かれた方がずっと良い。
今年の春に復興庁の官僚がツイッターで暴言を吐いて問題になった。その直後に某岩手県議が県立病院の対応をブログで非難し、それが原因で自殺に追い込まれた。さらにあの一連の橋下発言騒動があった。安倍現首相はまさに言いたい放題だ。
確かにどれもひどすぎる。しかし彼らが発言するから、おそらく官僚は日本の現状についてこう考えているのだ、政治家は戦争と平和についてこう考えているのだ、そしてその品性はどの程度のものなのか、といったことがはっきりわかるのである。
それでもなお、そうした政治家を選び、そうした政府をよしとするなら、それは政治家や官僚の責任ではない。全くもって有権者の責任なのである。騙されたなどという言い訳はできない。だがそれが民主主義としては健全なあり方なのではないだろうか。
もうひとつ考えておくべきことは、思想、信条、言論の自由の問題である。
官僚や公務員が特定の思想・信条・宗教に偏って仕事をしたら、それは大問題である。それは当然ちゃんと検証され常識的な処分が下されてしかるべきだ。
しかし今回のケースで後藤氏の仕事にそういうことがあったのだろうか。あったとしたら国、経産省はそれを明らかにすべきである。それは後藤氏本人の人権の問題だけでなく、国民全体に対する問題だからだ。
しかし、もし彼が個人の立場、範囲において、自分の思うことを表現しただけだとしたら、それは安易に処分されて良いことなのだろうか。
たとえば日の丸・君が代に批判的な教員が恒常的に当局から監視され、毎年処分者が出る。たしかにそれは時の政権の方針を否定するものかもしれないが、少なくとも教員個人が自分の思想・信条に従って行動し意見を表明することを弾圧するのは憲法違反で不当だと、ぼくは考えている。
もちろん後藤氏の書いた内容は、ぼくの見るところでは犯罪に近いひどいものだと思うが、実際にそれが犯罪であると司法の判断が下されない限り、それをもって彼を処分してはならないと思う。
いかにひどい内容だとしても、思想を裁いてはならない。
ぼくは後藤氏が処分されたり処罰されることに反対しているのではない。むしろそうなって当然だと思う。しかしそのためにも国や経産省は弥縫のための(もしくは自己保身のための)処分を行うのではなく、彼のブログ書き込みがどのような罪に当たるのか、しっかり明らかにし、そして司法の場においてその罪をはっきりさせるべきである。
そうでないと後藤氏の罪は「隠し通せなかったこと」になってしまう。彼自身、テレビ朝日の直撃インタビューで次のように語っている。
「ごく親しい方にのみ自分の日常を伝えているつもりでしたので…」
「匿名であれば私人であろうという誤った観念でやっておったというのが正直なところで、自分の考えが甘かったと思わざるを得ません」
「日々の出来事を淡々と書いていただけだったんですけれど…ITに関するリテラシーがなかった」
「結果として大変多くの皆様方を傷つけたことを深く反省しておりますので…私自身は日本の国家がいつまでもしっかりと繁栄していくことを本来切に願っています…申し訳ございませんでした」
彼が反省しているのは、身元がばれてしまったことに対してであって、その内容、自分の思想に対して自己批判しているわけではない。「リテラシーがなかった」というのはブログをうまく使いこなせなかったという意味であり、書き込みは「国家がしっかり繁栄していく」ようにとの思いからだったが、それをうまくやれなかったと言っているようにさえ聞こえる。
当然のことながら問題の本質は、官僚の本音が表面化したかどうかではない。エリート官僚に根深く存在する選民思想をこの社会の中でどう受け止め、社会としてどう対処するかである。
これは政治的な問題、行政の問題というより、文化の問題であり、狭く言えば教育の問題、広く言えば社会の問題だ。処分、処罰をしたら解決するという性質のものではない。
いったいなぜ21世紀の文明国にこんな輩が出現し、しかも国家の中枢に巣くっているのか。もちろん巣くっているのは国家官僚の中だけではないのだろう。おそらく経済界や文化人の中にも同じような人たちがたくさんいると思う。
後藤氏たちの言動が示しているのはこの社会の根本的な歪みである。本音と建て前の乖離である。自由、平等、友愛、平和、民主主義といった我々の社会の基盤であるはずの崇高な思想と、現実にその社会に生きている人間が信じている価値観や思想が、あまりにも大きくずれているということだ。まるでこの世界が完全な虚構であったかのような気持ちに襲われる。
右翼勢力はやれ自虐史観だ、内向きだと、現代の文化、教育を批判するが、まさにその正反対の思想を身につけた者たちが、このような考え方になってしまっているのである。
ぼく自身が今この問いに対して、何かはっきりした答えを持っているわけではない。ただひとつ、もしかしたらヒントになるかもしれないのは、今日のこの文章の中で取り上げたすべての人物が、あのナチス発言の講演時に麻生氏が指摘して批判していた50代~60代の世代だと言うことである。
それはポスト全共闘時代に行われた大きな教育制度改悪と関係しているのではないだろうか。
いずれにせよ、この問題を即時処分で幕引き沈静化させてはならない。
多くの人が怒りを感じ、処分に賛同する気持ちはわかる。しかしここでそうしたルサンチマンに乗っかり、嫌なやつは排除しろという論議で終わってしまったら、この問題はただの笑い話、エピソードで消えていくだけだ。
冷静に、いったい後藤氏の何が犯罪であるのかをちゃんと検証して明らかにし、またすべての人が問題の本質としっかりと向き合うことによってのみ、この問題がこの社会において意味あるものになるのだと思う。