ケニアの武装グループによるショッピングモール占拠、銃撃事件。
ぼくはやはり、すぐにリッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)を思い出してしまう。
1972年、パレスチナ闘争の最左派であったPFLPと連携して、黎明期の日本赤軍が決行した無差別テロ事件である。空港利用客26名が死亡、73人が重軽傷を負い、実行部隊の奥平、安田の両名もその場で死亡、ただひとり岡本公三氏だけが生き残った。岡本氏はその後ながく独居拘禁を受けて精神を病み、現在はパレスチナで庇護されているという。
目には目を、歯には歯を、虐殺には虐殺を、という等価報復の論理で行われた闘争だが、当時20代の未熟な革命家を動かした単純な論理はもちろん間違っていた。まだ銃によって世界が変えられると思われていた時代の悲劇だった。(いまだにその頃から思想の変わらない前時代的な輩が世界中にたくさんいるが)
今回の襲撃はソマリアのイスラム原理主義グループによるものと言われいてるが、目的はケニアによるソマリア出兵を停止させることにあるらしい。実行部隊の中には白い未亡人と呼ばれるイギリス人もいたと報道されている。
現在のソマリア情勢はあまりにも混沌としており、誰の主張に最も合理性があるのか一概に判断できない。ケニアにも大義名分があるだろうし、ソマリアにも様々な立場の人がいるだろう。さらに世界規模で思想と運動が拡散している。その意味ではリッダ闘争の頃のように問題を単純に見ることすらできない。
誰の言っていることが正しく、もしくは嘘なのかはともかく、ひとつはっきりしていることは、ケニアがソマリアに出兵したことが原因だ(もしくは口実にされている)ということである。
これは全く他人事ではない。
残念ながら多くの人が忘れ去っているのだろうが、日本もまたソマリア沖に出兵しているのだ。しかも当初は日本の船の警護を目的としていたが、新法が作られたり政権の判断による活動範囲の拡大がおこなわれ、現在では事実上アメリカ海軍が指揮を執る合同軍の中に自衛隊が組み込まれている。しかも日本国土を防衛することが目的であるはずの自衛隊が、この作戦のために史上初めてジブチに海外基地を建設しているのである。
おりしも安倍首相は昨日、訪問先のアメリカの保守系シンクタンクでの講演で「もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのならどうぞ」と、ついに極右自認宣言を行った。
(皮肉が読み取れない読者の方も極まれにいらっしゃるので一応補足するが、これは皮肉表現です。事実としては安倍氏の真意は中国への挑発、もしくは日本の反軍拡派に対する開き直りにある)
この講演の中で安倍氏は公海上での米艦防護などの具体的ケースを取り上げ「日本の艦船はどれだけ能力があっても米艦を助けることができない」と、集団的自衛権行使実現への強い意志を表明し、前段のマスコミ取材に対しては「地球の裏側という考え方はしない」と世界中どこにでも自衛隊の戦闘目的の派兵を行う姿勢をはっきり示した。
かつて国会では、自衛隊の活動範囲を巡って激しく粘り強い議論が行われてきた。常識的に考えればそれは当然、日本の領土、領海、領空であるに決まっているが、日米安保との関係で「極東」という概念が生まれた。ここまでならちょっと押されたかなという感じだが、そのうち「極東」の範囲が広がっていった。いつの間にか世界中どこもが「極東」だというおかしな話になった。
「極東」はまさに薄っぺらいイチジクの葉っぱだったわけだが、もはや現在ではその「極東」という言葉さえ使われない。そういえばゾッとすることに最近では専守防衛という言葉さえあまり聞くことがない。
日本を守るために自衛権が必要だという論議は、それ自体奇異なものではない。それなのになぜ日本には反自衛隊の議論が起きるのか。それは政府が信用されていないからだ。
そもそも日本の自衛隊が発足したのも朝鮮戦争への対処が発端だった。しかもそれを指示したのはアメリカ(GHQ)である。始まりからしてうさんくさいのだ。さらに政府は「日本防衛」を言いながら常に対外戦争に向けた軍備の拡大を進めようとしてきた。そしてついには現状の事態にまで到達し、やがては米国さえ懸念するような核武装と独自の軍事大国化を目指すことになるのだろう。
ある意味で、本当の自衛、防衛の論議が完全にすっ飛ばされてきたのである。政治論争は自衛、防衛という言葉を使いながら、実は対外戦争をするかしないかという、まさに憲法九条を巡る本質的論議がされてきたのだ。しかし政府・与党はそのことを一般的な自衛権の問題とすり替え宣伝してきた。混乱の根本はここにあるのである。
今回のケニアの武装グループの問題が教えてくれることは、どういう意味があるにしても、海外への派兵は自国の安全を守るどころか、常に自国を危険にさらすということである。
アメリカを襲った9・11テロは、まるで一方的にアメリカとアメリカ国民が被害を受けたように言われるが、実際にはそれ以前にアメリカが世界中に軍隊を派遣し、世界の警察を名乗って世界を支配下に置こうとしていたのだ。当然のことだが、アメリカ軍がイスラム圏内に乗り込んで戦争をしていなかったら、イスラエルに軍事支援をしていなかったら、9・11が起こることはなかっただろう。
もちろん、日本が侵略を受ける可能性が無いとはいえない。なぜなら日本自身がかつて理不尽な侵略を行う側だったからだ。我々はなぜ侵略が起こるのかを内面的実感として知っている(はずだ)。
だから自衛権を否定するつもりはない。憲法も「国際紛争を解決する手段として」戦争と武力の行使を否定しているのであって、国内における自衛行動を禁じているわけではない。もちろんそこに自衛隊が存在する根拠もある。本来のちゃんとした自衛組織が、しっかりとした節度の中で構築されればよいと思う。
もっともそれだけでは不十分だという意見もあるだろう。だからこそ平和外交の充実が必要なのである。軍事と戦争が平和の手段だなどという詭弁はあってはならない。
右翼政治家や評論家は、海外派兵された自衛官が自由に銃を撃てないと自分の身を守ることもできないと言う。しかし、戦後の日本はあえて外に向かって銃を撃たないことをもって安全を守ってきた。
銃を持ち銃を撃てるから相手から撃たれないわけではない。むしろ武装しているから撃たれる可能性が高まるのである。そもそもだからこそ紛争地域に自衛隊を派遣してはいけないという論議になっていたのに、論議は歯止めなく横滑りしていく。
たしかに絶対の安全など無いだろう。ただ撃たなければ撃たれないかもしれない。しかし撃てば確実に撃ち返される。
自衛隊員を死地に送ってはならない。ましてや誰かの特定の利益のために自衛隊員を犠牲にしてはならない。もし派兵しないと何らかの不利益を被るというのなら、日本人全部で平等に被ろう。嫌だと言う人もいるだろうが、少なくとも右翼の人たちだけは、おそらくきっとそういう自己犠牲精神を十分持ってるにちがいない。
※下の記事を参考にさせていただきました
日本がアブナイ!
安倍が「右翼の軍国主義者」宣言?&営業活動+増税対策で政府与党間の対立
ぼくはやはり、すぐにリッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)を思い出してしまう。
1972年、パレスチナ闘争の最左派であったPFLPと連携して、黎明期の日本赤軍が決行した無差別テロ事件である。空港利用客26名が死亡、73人が重軽傷を負い、実行部隊の奥平、安田の両名もその場で死亡、ただひとり岡本公三氏だけが生き残った。岡本氏はその後ながく独居拘禁を受けて精神を病み、現在はパレスチナで庇護されているという。
目には目を、歯には歯を、虐殺には虐殺を、という等価報復の論理で行われた闘争だが、当時20代の未熟な革命家を動かした単純な論理はもちろん間違っていた。まだ銃によって世界が変えられると思われていた時代の悲劇だった。(いまだにその頃から思想の変わらない前時代的な輩が世界中にたくさんいるが)
今回の襲撃はソマリアのイスラム原理主義グループによるものと言われいてるが、目的はケニアによるソマリア出兵を停止させることにあるらしい。実行部隊の中には白い未亡人と呼ばれるイギリス人もいたと報道されている。
現在のソマリア情勢はあまりにも混沌としており、誰の主張に最も合理性があるのか一概に判断できない。ケニアにも大義名分があるだろうし、ソマリアにも様々な立場の人がいるだろう。さらに世界規模で思想と運動が拡散している。その意味ではリッダ闘争の頃のように問題を単純に見ることすらできない。
誰の言っていることが正しく、もしくは嘘なのかはともかく、ひとつはっきりしていることは、ケニアがソマリアに出兵したことが原因だ(もしくは口実にされている)ということである。
これは全く他人事ではない。
残念ながら多くの人が忘れ去っているのだろうが、日本もまたソマリア沖に出兵しているのだ。しかも当初は日本の船の警護を目的としていたが、新法が作られたり政権の判断による活動範囲の拡大がおこなわれ、現在では事実上アメリカ海軍が指揮を執る合同軍の中に自衛隊が組み込まれている。しかも日本国土を防衛することが目的であるはずの自衛隊が、この作戦のために史上初めてジブチに海外基地を建設しているのである。
おりしも安倍首相は昨日、訪問先のアメリカの保守系シンクタンクでの講演で「もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのならどうぞ」と、ついに極右自認宣言を行った。
(皮肉が読み取れない読者の方も極まれにいらっしゃるので一応補足するが、これは皮肉表現です。事実としては安倍氏の真意は中国への挑発、もしくは日本の反軍拡派に対する開き直りにある)
この講演の中で安倍氏は公海上での米艦防護などの具体的ケースを取り上げ「日本の艦船はどれだけ能力があっても米艦を助けることができない」と、集団的自衛権行使実現への強い意志を表明し、前段のマスコミ取材に対しては「地球の裏側という考え方はしない」と世界中どこにでも自衛隊の戦闘目的の派兵を行う姿勢をはっきり示した。
かつて国会では、自衛隊の活動範囲を巡って激しく粘り強い議論が行われてきた。常識的に考えればそれは当然、日本の領土、領海、領空であるに決まっているが、日米安保との関係で「極東」という概念が生まれた。ここまでならちょっと押されたかなという感じだが、そのうち「極東」の範囲が広がっていった。いつの間にか世界中どこもが「極東」だというおかしな話になった。
「極東」はまさに薄っぺらいイチジクの葉っぱだったわけだが、もはや現在ではその「極東」という言葉さえ使われない。そういえばゾッとすることに最近では専守防衛という言葉さえあまり聞くことがない。
日本を守るために自衛権が必要だという論議は、それ自体奇異なものではない。それなのになぜ日本には反自衛隊の議論が起きるのか。それは政府が信用されていないからだ。
そもそも日本の自衛隊が発足したのも朝鮮戦争への対処が発端だった。しかもそれを指示したのはアメリカ(GHQ)である。始まりからしてうさんくさいのだ。さらに政府は「日本防衛」を言いながら常に対外戦争に向けた軍備の拡大を進めようとしてきた。そしてついには現状の事態にまで到達し、やがては米国さえ懸念するような核武装と独自の軍事大国化を目指すことになるのだろう。
ある意味で、本当の自衛、防衛の論議が完全にすっ飛ばされてきたのである。政治論争は自衛、防衛という言葉を使いながら、実は対外戦争をするかしないかという、まさに憲法九条を巡る本質的論議がされてきたのだ。しかし政府・与党はそのことを一般的な自衛権の問題とすり替え宣伝してきた。混乱の根本はここにあるのである。
今回のケニアの武装グループの問題が教えてくれることは、どういう意味があるにしても、海外への派兵は自国の安全を守るどころか、常に自国を危険にさらすということである。
アメリカを襲った9・11テロは、まるで一方的にアメリカとアメリカ国民が被害を受けたように言われるが、実際にはそれ以前にアメリカが世界中に軍隊を派遣し、世界の警察を名乗って世界を支配下に置こうとしていたのだ。当然のことだが、アメリカ軍がイスラム圏内に乗り込んで戦争をしていなかったら、イスラエルに軍事支援をしていなかったら、9・11が起こることはなかっただろう。
もちろん、日本が侵略を受ける可能性が無いとはいえない。なぜなら日本自身がかつて理不尽な侵略を行う側だったからだ。我々はなぜ侵略が起こるのかを内面的実感として知っている(はずだ)。
だから自衛権を否定するつもりはない。憲法も「国際紛争を解決する手段として」戦争と武力の行使を否定しているのであって、国内における自衛行動を禁じているわけではない。もちろんそこに自衛隊が存在する根拠もある。本来のちゃんとした自衛組織が、しっかりとした節度の中で構築されればよいと思う。
もっともそれだけでは不十分だという意見もあるだろう。だからこそ平和外交の充実が必要なのである。軍事と戦争が平和の手段だなどという詭弁はあってはならない。
右翼政治家や評論家は、海外派兵された自衛官が自由に銃を撃てないと自分の身を守ることもできないと言う。しかし、戦後の日本はあえて外に向かって銃を撃たないことをもって安全を守ってきた。
銃を持ち銃を撃てるから相手から撃たれないわけではない。むしろ武装しているから撃たれる可能性が高まるのである。そもそもだからこそ紛争地域に自衛隊を派遣してはいけないという論議になっていたのに、論議は歯止めなく横滑りしていく。
たしかに絶対の安全など無いだろう。ただ撃たなければ撃たれないかもしれない。しかし撃てば確実に撃ち返される。
自衛隊員を死地に送ってはならない。ましてや誰かの特定の利益のために自衛隊員を犠牲にしてはならない。もし派兵しないと何らかの不利益を被るというのなら、日本人全部で平等に被ろう。嫌だと言う人もいるだろうが、少なくとも右翼の人たちだけは、おそらくきっとそういう自己犠牲精神を十分持ってるにちがいない。
※下の記事を参考にさせていただきました
日本がアブナイ!
安倍が「右翼の軍国主義者」宣言?&営業活動+増税対策で政府与党間の対立