橘玲という作家の方がおられる。大変申し訳ないが、ぼくは全く知らない。ただネット上でたまたま軽いエッセイのようなものを読ませていただいて、ちょっとおもしろいと思った。
この方はどうやらぼくと同世代の経済小説作家とのことで、元編集者だそうだ。
ぼくが目にしたのは「週刊プレイボーイ」の2013年8月26日発売号に掲載されたという「共産党と右翼の主張が同じになり 日本からリベラル勢力がいなくなった理由」という文章だ。現時点ではネット検索していただければ読めると思うので、興味のある方はご自身で調べて欲しい。
話の概要は「日本の政治からリベラル勢力がいなくなってしまった。それはリベラルの理想がすべて実現してしまい、主張すべきことがなくなったからだ」というものである。
正直言って歴史軸がぐちゃぐちゃで、一読したらめまいがした。ただこの方の他の文章をネットでチラ見した限りでは、頭の良い方のようで発想が面白いし、変な混乱もしていないので、たぶん政治史の分野の知識だけが少し薄いだけなのだろう。
「歴史軸がぐちゃぐちゃ」と言うのは、
「リベラリズムが成立したのは、権力者に不都合なことを書けば投獄や処刑され、黒人が奴隷として使役され、女性には選挙権も結婚相手を選ぶ自由もなかった時代」
と、書かれているのに、
「リベラルが退潮したいちばんの理由は、その思想が陳腐化したからではなく、理想の多くが実現してしまったから」
と述べておられるような点だ。
確かに世界史的観点から考察すればそういう見解もあると思うが、日本においてリベラルが最も活発だったのは、1950年代から90年代のことであり、橘玲氏の論で言えば、日本においてさえすでに「権力者に不都合なことを書けば投獄や処刑され、黒人が奴隷として使役され、女性には選挙権も結婚相手を選ぶ自由もなかった時代」ではなかった。
その時代をリアルタイムで生きてこられた橘玲氏には当然よく分かることだと思う。
この文章の冒頭は先の参院選後の社民党の没落ぶりから始まっていて、問題意識は明らかに日本のリベラルにあるのだから、どうしてもこの説はちぐはぐである。
また、この文章ではリベラルに反対する保守勢力を「コミニュニタリアン」と規定しているが、これも事実とは異なる。むしろ日本のリベラルと呼ばれる勢力は、事実上コミュニタリアンに近い。日本でリベラルに反対している勢力は、少なくとも表面的には「近代以前の封建社会に戻せという暴論を唱えている」勢力と言ってよいであろう。
さらに、
「(日本共産党も)いまでは共産主義革命の夢を語ろうとせず、『アメリカいいなりもうやめよう』という不思議な日本語のポスターをあちこちに張っています。これは右翼・保守派の主張と同じ」
と書かれているが、これも事実誤認と言うか、錯誤である。
共産党を含めた日本の左翼のほとんどが「反米」を掲げたのは1950年代からであり、逆にその左翼を暴力的に排除することで安保体制を確立させようとしたのが、戦後のいわゆる「右翼」の始まりである。
つまり戦後一貫して、右翼はアメリカ追従であり、左翼は反米であったのだ。
いったいこの混乱した文章は、あまりに無知なのか、それとも意図的なのか、判断に苦しむところである。
ただこうした点を置いておくと、橘氏の論は核心を突いてもいる。
「日本のリベラルはいま憲法護持、TPP反対、社会保障制度の『改悪』反対、原発反対を唱え(中略)原発を除けば、リベラルの主張はほとんどが現状維持だ」
橘氏がどこまで理解しているかはともかく、実を言えばここが最大の核心なのだ。誰もが、当事者でさえ否定したがるが、まさに左翼とは保守思想なのである。
近代主義者である我々は、潜在的意識の中で「保守的=古い=悪、革新的=新しい=正義」というイメージを持ってしまっている。共産主義者は革新で、資本主義者は保守だと、たぶん誰もが無意識に思っている。
しかしそれが、そもそも間違いなのだ。
橘氏の文章の混乱の一因もおそらくこの「常識」によるところがあるだろう。
日本のリベラルはようするに左派である。そして実は左翼は最初から本質的に保守なのである。それはつまり、理不尽な危機や不安定を排し、人々の生活の安定を求める思想だからだ。
一方、自由競争の資本主義を求める人たちは、社会が変革され続けることを求める。自己責任のリスクを取り、ジェットコースターのような、もしくはバクチのような、富の奪い合いのできる社会を求める。
こうした内容は、当ブログで何度も主張してきたことなので、重複して申し訳ないが、最後にもうひとつ繰り返そう。本当に「保守」的な安定した社会を望むなら共産主義を選択すべきだ。そしてそれだけが地球人類が次の時代に生き延びるための唯一の選択肢である。
この方はどうやらぼくと同世代の経済小説作家とのことで、元編集者だそうだ。
ぼくが目にしたのは「週刊プレイボーイ」の2013年8月26日発売号に掲載されたという「共産党と右翼の主張が同じになり 日本からリベラル勢力がいなくなった理由」という文章だ。現時点ではネット検索していただければ読めると思うので、興味のある方はご自身で調べて欲しい。
話の概要は「日本の政治からリベラル勢力がいなくなってしまった。それはリベラルの理想がすべて実現してしまい、主張すべきことがなくなったからだ」というものである。
正直言って歴史軸がぐちゃぐちゃで、一読したらめまいがした。ただこの方の他の文章をネットでチラ見した限りでは、頭の良い方のようで発想が面白いし、変な混乱もしていないので、たぶん政治史の分野の知識だけが少し薄いだけなのだろう。
「歴史軸がぐちゃぐちゃ」と言うのは、
「リベラリズムが成立したのは、権力者に不都合なことを書けば投獄や処刑され、黒人が奴隷として使役され、女性には選挙権も結婚相手を選ぶ自由もなかった時代」
と、書かれているのに、
「リベラルが退潮したいちばんの理由は、その思想が陳腐化したからではなく、理想の多くが実現してしまったから」
と述べておられるような点だ。
確かに世界史的観点から考察すればそういう見解もあると思うが、日本においてリベラルが最も活発だったのは、1950年代から90年代のことであり、橘玲氏の論で言えば、日本においてさえすでに「権力者に不都合なことを書けば投獄や処刑され、黒人が奴隷として使役され、女性には選挙権も結婚相手を選ぶ自由もなかった時代」ではなかった。
その時代をリアルタイムで生きてこられた橘玲氏には当然よく分かることだと思う。
この文章の冒頭は先の参院選後の社民党の没落ぶりから始まっていて、問題意識は明らかに日本のリベラルにあるのだから、どうしてもこの説はちぐはぐである。
また、この文章ではリベラルに反対する保守勢力を「コミニュニタリアン」と規定しているが、これも事実とは異なる。むしろ日本のリベラルと呼ばれる勢力は、事実上コミュニタリアンに近い。日本でリベラルに反対している勢力は、少なくとも表面的には「近代以前の封建社会に戻せという暴論を唱えている」勢力と言ってよいであろう。
さらに、
「(日本共産党も)いまでは共産主義革命の夢を語ろうとせず、『アメリカいいなりもうやめよう』という不思議な日本語のポスターをあちこちに張っています。これは右翼・保守派の主張と同じ」
と書かれているが、これも事実誤認と言うか、錯誤である。
共産党を含めた日本の左翼のほとんどが「反米」を掲げたのは1950年代からであり、逆にその左翼を暴力的に排除することで安保体制を確立させようとしたのが、戦後のいわゆる「右翼」の始まりである。
つまり戦後一貫して、右翼はアメリカ追従であり、左翼は反米であったのだ。
いったいこの混乱した文章は、あまりに無知なのか、それとも意図的なのか、判断に苦しむところである。
ただこうした点を置いておくと、橘氏の論は核心を突いてもいる。
「日本のリベラルはいま憲法護持、TPP反対、社会保障制度の『改悪』反対、原発反対を唱え(中略)原発を除けば、リベラルの主張はほとんどが現状維持だ」
橘氏がどこまで理解しているかはともかく、実を言えばここが最大の核心なのだ。誰もが、当事者でさえ否定したがるが、まさに左翼とは保守思想なのである。
近代主義者である我々は、潜在的意識の中で「保守的=古い=悪、革新的=新しい=正義」というイメージを持ってしまっている。共産主義者は革新で、資本主義者は保守だと、たぶん誰もが無意識に思っている。
しかしそれが、そもそも間違いなのだ。
橘氏の文章の混乱の一因もおそらくこの「常識」によるところがあるだろう。
日本のリベラルはようするに左派である。そして実は左翼は最初から本質的に保守なのである。それはつまり、理不尽な危機や不安定を排し、人々の生活の安定を求める思想だからだ。
一方、自由競争の資本主義を求める人たちは、社会が変革され続けることを求める。自己責任のリスクを取り、ジェットコースターのような、もしくはバクチのような、富の奪い合いのできる社会を求める。
こうした内容は、当ブログで何度も主張してきたことなので、重複して申し訳ないが、最後にもうひとつ繰り返そう。本当に「保守」的な安定した社会を望むなら共産主義を選択すべきだ。そしてそれだけが地球人類が次の時代に生き延びるための唯一の選択肢である。