あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

重苦しさの正体

2013年09月08日 22時27分44秒 | Weblog
 これは論理でも批判でもなく、ただの愚痴である。
 ものすごく心が重い。
 たかがオリンピック開催の話なのに、自分でも驚くくらい気持ちが暗くなっている。

 いったい何故なのか自分に問いかけてみる。
 おそらく東京でオリンピックが開催されるという、そのこと自体の問題ではない。世の中の雰囲気の問題なのだ。

 オリンピックの2020年東京開催が決定した今日のお昼、あるニュースショーの冒頭で、宮崎県日向市の猿による被害のニュースが伝えられた。その時コメントを求められた漫画家の黒鉄ヒロシ氏はひとこと「サルのことなんかどうでもいいって感じですよね」と言い放った。あわてて隣にいたテリー伊藤氏がフォローしたが、まさにこの場面に、ぼくの重苦しさの根拠がある。
 ぼくは別に黒鉄氏ひとりを批判しているわけではない。当のテレビ番組を初めとして、マスコミも政治家もこぞってそういう雰囲気を作っているのだ。

 日向市の猿被害ではすでに20人近い重軽傷者を出しており、市議会まで中止になる大きな事件に発展している。こういう時に我々は、オリンピックと「たかが20人近くの重軽傷者」を比べて「どうでもいいって感じ」てしまう。たぶん当事者以外の多くの人がそう思うのだろう。
 そこにぼくは重苦しさを感じる。

 オリンピック招致は東日本大震災被災地の復興のため、と当初いわれていた。それが誘致成功後の安倍首相の言葉では微妙な違いを見せた。安倍氏はこう述べた。
「復興を見事に成し遂げた日本の姿を世界中の人々に向けて力強く発信していく。それこそが感謝の気持ちを表す最善の道だ」
 オリンピックの位置づけが復興へのエンジンではなく、政府の復興政策の成功をアピールする場に変わろうとしているように聞こえるのだ。

 日本中がはしゃいでいるが、被災地と原発事故がどこかに置き去りにされている気がして仕方ない。
 テレビのインタビューで町中の店の店主が「外国のお客さんも来るし景気がよくなる」と言っていた。なんだかそれでは復興のためと言っていた言葉が、ただ被災地をダシに使っただけのような感じになってしまう。

 「日本でオリンピックを開くことで人々に希望と元気を与えられる」という言葉もよく使われるが、それではオリンピックとは日本でやらなければ人に元気も希望も与えられないものなのだろうか。
 国内でやることで元気になるのは、それで何か儲けになる人だけなのではないのか、そんな風にも思ってしまう。

 ついこのあいだまで「復興に向かって心をひとつにして行こう」というのが、日本人のスローガンだった。いつの間にかそれが「オリンピックで心をひとつに」に変えられてしまってはいけない気がする。
 よくプラス思考とかマイナス思考とか言われる。明るい話題が必要なんだと言う人がいる。「オリンピック第一」はプラス思考なのか? 「被災地を忘れない」というのはマイナス思考なのか?
 オリンピックに期待するより、復興をこそ日本の期待、日本の希望にしなくてはならないのではないのか。

 オリンピックの華やかな喧騒で、何か大事なこと、重要なことが隠されようとしているのではないのか。

 集団的自衛権が容認され、自衛隊の敵地攻撃能力が増強され、人種差別デモが常態化され、日の丸・君が代が強要され、戦争を批判した教科書が排除され、秘密保全法案が制定され、ついに改憲が現実化しようという情勢の中で、大きな反対の声も無くオリンピックが日本中を席巻していくことに、ぼくは何とも言えない息苦しさ重苦しさを感じるのである。


▼今日ネットで目に留まった記事です

IOC総会で「健康問題は『将来も』まったく問題ない」と言い切った安倍首相
 http://bylines.news.yahoo.co.jp/takedasatetsu/20130908-00027934/

東京五輪決定 日本野鳥の会、カヌー会場見直し求め声明
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130908-00000580-san-spo

在特会 五輪招致待っていたかのように「嫌韓デモ」再開
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130908-00000009-yonh-kr

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