マスコミって何なのだろう。
とても必要なもので便利なのだけれど、本当に一番重要なところで全く役に立たない。不思議なものである。
今日一日は大変な日だった。関東から西ではどこも大雨や竜巻やが吹き荒れ、首都圏を地震が襲い、本当に災害多発の一日だった。
もちろんマスコミはそれを報道するし、当然ニュース性のあるものを取り上げるのはわかるのだが、しかし、ニュース(それはつまり新しく、且つより近しい話題)を大々的に取り上げることによって、人々の意識を本当の危機から遠ざけてしまう。
下手な比喩を使えば、裏にある崖が数年以内に崩れそうだという家で、家族はいま茶の間に現れたゴキブリを追いかけることにばかり気を取られているというようなものだ。
雨や風で被災された方々のことを放っておけと言いたいのではないし、心からお見舞い申し上げるとともに、早期の復旧を願わずにいられないが、しかし、それだからと言ってより大きな問題が片隅に追いやられてはいけないのだ。
なぜ原発事故の問題が置き去りにされているのか?
本来比較してよいことではないのかもしれないが、だがやはり、放射能汚染が拡大し続け、全く収束できないという危機は、全人類的問題である。
本当なら毎日でも新聞の一面に載せ、テレビニュースの冒頭で触れるべきほどの事態である。片時も忘れてはならない事態である。
それにもかかわらず、マスコミはオリンピック招致がどうしたのと言った話題ばかりを先行させる。
それは意図的なものなのだろうか?
あまりつつくと政府・自民党から何らかの制裁を受けるので、おとなしくしているということなのか。
伝えられるところでは、他国では原発事故問題が連日トップニュース扱いで報じられ、大変深刻な事態と受け取られているという。当事国が一番のんびりしているような感じさえする。
これは一種の情報統制なのか。北朝鮮や中国の人々は自国の中で起きていることを十分知らされないから、自分の国で行われている不正義や人権侵害に鈍感なのだ、と我々はつい思ってしまう。しかしそれと同じように、他国から我々は見られているのかもしれない。
もちろん他の考え方もある。
マスコミはむしろ我々自身の欲望を体現しているのかもしれないという考え方である。
マスコミは当然大衆の志向を敏感にとらえ、大衆に迎合しようとする。つまり大衆の中に「嫌なものは見たくない」という気持ちがあるなら、マスコミもまた人々が嫌になるような事実はカットするようになるだろう。そして大衆が求めるような答えばかりを伝えるようになるだろう。
しかしそうやっているうちに、ダチョウはライオンに食われてしまうのである。
(ダチョウは恐いもの、嫌なものが近づくと、頭を地面の中に突っ込んで見ないようにし、安全になったと思い込むと言い伝えられている)
とても必要なもので便利なのだけれど、本当に一番重要なところで全く役に立たない。不思議なものである。
今日一日は大変な日だった。関東から西ではどこも大雨や竜巻やが吹き荒れ、首都圏を地震が襲い、本当に災害多発の一日だった。
もちろんマスコミはそれを報道するし、当然ニュース性のあるものを取り上げるのはわかるのだが、しかし、ニュース(それはつまり新しく、且つより近しい話題)を大々的に取り上げることによって、人々の意識を本当の危機から遠ざけてしまう。
下手な比喩を使えば、裏にある崖が数年以内に崩れそうだという家で、家族はいま茶の間に現れたゴキブリを追いかけることにばかり気を取られているというようなものだ。
雨や風で被災された方々のことを放っておけと言いたいのではないし、心からお見舞い申し上げるとともに、早期の復旧を願わずにいられないが、しかし、それだからと言ってより大きな問題が片隅に追いやられてはいけないのだ。
なぜ原発事故の問題が置き去りにされているのか?
本来比較してよいことではないのかもしれないが、だがやはり、放射能汚染が拡大し続け、全く収束できないという危機は、全人類的問題である。
本当なら毎日でも新聞の一面に載せ、テレビニュースの冒頭で触れるべきほどの事態である。片時も忘れてはならない事態である。
それにもかかわらず、マスコミはオリンピック招致がどうしたのと言った話題ばかりを先行させる。
それは意図的なものなのだろうか?
あまりつつくと政府・自民党から何らかの制裁を受けるので、おとなしくしているということなのか。
伝えられるところでは、他国では原発事故問題が連日トップニュース扱いで報じられ、大変深刻な事態と受け取られているという。当事国が一番のんびりしているような感じさえする。
これは一種の情報統制なのか。北朝鮮や中国の人々は自国の中で起きていることを十分知らされないから、自分の国で行われている不正義や人権侵害に鈍感なのだ、と我々はつい思ってしまう。しかしそれと同じように、他国から我々は見られているのかもしれない。
もちろん他の考え方もある。
マスコミはむしろ我々自身の欲望を体現しているのかもしれないという考え方である。
マスコミは当然大衆の志向を敏感にとらえ、大衆に迎合しようとする。つまり大衆の中に「嫌なものは見たくない」という気持ちがあるなら、マスコミもまた人々が嫌になるような事実はカットするようになるだろう。そして大衆が求めるような答えばかりを伝えるようになるだろう。
しかしそうやっているうちに、ダチョウはライオンに食われてしまうのである。
(ダチョウは恐いもの、嫌なものが近づくと、頭を地面の中に突っ込んで見ないようにし、安全になったと思い込むと言い伝えられている)