昨夜は結局睡眠がほぼとれてませんでした。
今日は 急な休みでした。
生きるためだけに仕事をしてる。
それは決してオカシイことでもなく当然のことの中にも入るかもしれない。
でも、それが自分にとって最もいい決断なのかどうか?
思えば40年近く昔に、思いつきで会社説明会に出向いて思いつきで入った仕事。
ただダラダラとすることがないからと続けてきたけれど、本当にそれでよかったのか?
似たような人は多いだろうし、それが間違いなどとは言えない。
でも、
強制的に辞めなくてはいけない時が来て、何故なんだろう?って。
でも、その前に組織にしがみつくのは何故なんだろう?って。
別の組織で別の仕事じゃダメなのか?って。
でも、組織に対して65歳まで雇用できるようにしなさいねって法律なら、仕事は「あるよ」になる。
でも、
結局、思いつきで選んだ仕事を嫌々ながらまだ延々と続けるのか?
それも居場所とは言えない場所に。
生きるためなら。
生きるためなら。
だから、針の山地獄で生活しろって言われても。
死んだ方がマシ、よりちょっとだけいいならそれでいいのか?
向上心って何を意味してるのか?
ただ、闇雲に希望に向かって突っ走るほど若くもないし、無謀ができる体力もない。
それは尚更、ハードな暮らしは難しい。
それができるなら少しでもマシな生活を目指したい。
そう感じることは悪いことなのか?
ブログって見られる頻度が多くなると身構える。
そんなに見られてるわけではないけれど。
なんだか書き込みがよそ行きになるから、自分をどんどん殺していってるような気もする。
お上品な自分は自分じゃないのに、何故か着飾るようになる。
昔、一ヶ月に閲覧者が1名あればいいほうだったブログ、それが自分の確認の閲覧だったりしたら、もうどうでもいいやって、言いたいこと書き込んでた。
その前はホームページ作製が流行った時代もあったし。
自分の撮った画像を意味もなく載せてて、本当になんだか意味不明なものが横行してて、それでもいい時代もあった。
ホームページはやたら自分のことだらけ。
見る人のことなどほぼ考えてなくて、それでもい時代。
出会い系のコミュニティが沢山あって、でもそれでいろいろなオフ会が繁盛してて、それで楽しかったり。
健全なものもあり、いろいろ。
いろんな人が行き来してて。
コミュニティから追い出されたりして。
ブログはなんだか、優等生だし、YouTubeなんかは、人から見てもうために自分を過激にしたりするから、それは本当の自分じゃないって後から言ってもダメ。
インスタグラムも見てもらうためのもの。
でも、それが自分に、自分自身の日常世界からの解放になってるかというと全く逆で、自己を世間のしがらみに追い込んでる。
最近、
昔の誰も見てないブログが懐かしく思う。
いくつものブログを渡ってそう思いだした。
出会いはある意味楽しいし、お互いの慰めにもなるな、とも感じるけれど本当はもっと俗悪な自己の気持ちが置き去りにされて、悶々とどこかに溜まってるんじゃないかって。
じゃあ、書き込みをもっとどストレートにするとたぶん否定されるだけだろうな。
嫌なものは嫌とは言っても、それが万人に通用するとは思えないし。
今の自分の顔出し画像をみんなが出さないのも、きっと日常と一線を画したいから。
面倒な日常から離れた別の場所に潜んでいたいから。
広告のための人もいるけれど。
裸で近所のスーパーに行く人はいないようなもの。
いるかもしれないけど。
もし日常でそんなことができるなら悩みもないだろうな。
ひとりぼっちでいると、もっと多くのコミュニティに加わろうとするのも人情。
でも、それは面倒なことが増えることなのも世間の通。
当たらず、触らずで通り過ぎるのが楽といえば楽。
そうはいかないから。
どうして人はこうも色々と頭で考えるんでしょうね。
馬鹿なくせに。
自分のことです。。
人事課に聴きました。
私、
今年の夏に定年になります。
長い様な短い様な。
そうなると単身赴任は終わり。
きっと。
たぶん。
わからないけれど。
あと半年。
自分自身はこの春で終わりでもいい様にも思うのですが、嫁さんはもっと働かないと年金が減るって言ってます。
年金だけでは生活できないとも思うのですが。
だがら一生働かないと生活できない。
若い頃はいくらでも、
何時まででも仕事しててもいいような感覚でいました。
でも、今はもう、いいかなぁ。
などと、感じるようになってます。
というより、きっと今の仕事が好きではないんでしょうね。
好きではないというより、今の仕事の環境がなんだか自分の居場所ではないって感じです。
ついでに
なんとなく感じるのは、
ずいぶんな老人が「もうあの世に行ってもいなぁ」と感じるのは、この世に中に自分の居場所が無いって感じるからなのかもしれない、ということ。
だんだんと、この世に自分の存在価値が無い、と思うようになるのでしょうね。
だから、どこに行っても役に立たない。
生きてても楽しく無い。
生きてても、価値を見出せない。
仕事においては、耄碌(もうろく)した自分の存在は今の職場にはあまり用事がない。
かといって、他の職場でも用事がない。
やってても存在価値を感じない。
まぁ、若い時も自己満足だけであって、本当の価値は別段、なかったのかもしれません。
でも、その勘違い野郎にもなれなくなったら、いよいよ存在してても意味なく感じてきます。
だったら、仕事じゃなく、生きてるだけでもいいような場所をみつけるとか。
若い人でも「ヒモ」ってよばれてる人がいるくらいですから、特別に年齢のせいじゃないかもしれません。
でも、感じる虚無感は無視できない。
そういえば、「虚無感」っていう言葉は若い頃の日記帳にもたくさん出て来てました。
空虚な感じ。
やらされ仕事でもいいから、やってるな、って感じ、達成感が欲しい。
仕事でなくてもいい。
給与なり、実入りがあればもっと良い。
今は65歳まで、雇用は延長できるってありますが、嫌々で仕事を自分からお願いするのもどうなのか?
どうせ、役立たずの仕事を与えてやるっていうなら、やりたい仕事に向かいたいし、
なんなら、再度、勉強しなおしてもいいかなぁ、
なんて思ったりしてます。
できるなら、自分がやりたくても、なかなかできなかった語学でも。
手習いがてらでもいいので、英語とかを勉強できたらいいなあ、、などと。
別に、仕事にしようとかではなく、
今の時代ですから、英語で本を読んだり、喋ったりできたらもっと世界が変わるかも、などと。
ただの「夢」?
夢は現実にできなければ「夢」とはよばない、って、職場のお兄さんが言ってました。
たかが英語でも、やるならしっかり本気で向かわないと、簡単じゃない。
自分のように日本語に関しても、ろくに理解力がない人間には、根性いれてやらないと無理なのかもしれません。
でも、
「夢」とするなら、本気で、
生きてる間に。
私の父は77歳で亡くなりました。
肺がんの手術後に肺炎を併発して。
手術は済んで家でリハビリ中に風邪をこじらせて肺炎にかかりました。
今の私から数えるとあと17年。
私はバセドウ病やら喘息やら、いろいろ
父より不健康なので、せいぜいあと十年くらいかもしれません。
なら、思案するより、はやくやらないと。
時間は待ってくれません。
でも、そう言ってても、周りの目を気にしたり、ADHDかもしれないような気が落ち着かない人なので。
以前、バオイリンを弾くぞって、一ヶ月で飽きました。
ほかにもいろいろ、、
飽きっぽいのはしょうがない。
飽きてもまた始められるように、何度でもやらないと。
ならば、もっと時間は有限ですね。
時間は有限。
あっという間。
定年を半年先に迎えたって知って余計にそう感じてます。
でも、明日になればまた、元の考えに戻るんでしょうね。
先のことを考えられない症候群なの?
一年後、私はどこでないをしてるんだろう。
そんな感じです。
楽~なアルバイトくらいがいいんだけどなぁ。。