24時間戦えますかというコマーシャルが流行った時代、考えたらわかるけれども、24時間も仕事ができるはずがないのです。
24時間と歌いながら、だいたい12時間位仕事をしている、そして、残りの時間は、いかにして、サボろうかが課題になっているのです。
逆に、今の時代は上限8時間勤務と言っていますが、8時間の賃金で、その8時間に過重労働を詰め込まれているのです。
「24時間働けますか?」の時代は、給料は24時間とは言わないまでも、おおよそ12時間以上の給料をもらいながら、大体12時間以下の仕事をしながらたくさん働いた、きつかったと言っていたのでしょう。
現代は、拘束時間の8時間の監視付きで精神的な苦痛を絞られているのであります。
したがって、管理をすればするほど、人は窮屈になり、疲弊をしていくものなのだと思います。
でもって給料は8時間のままでです。
賃金を上げろと叫んでいる今のやり方はおそらく今後さらに労働者を精神的に追い詰めていくのではないかと思います。
むしろ逆に、労働時間を、長時間労働にしながらでも今の賃金で構わないので、長時間金もできるようにしてあげた方が救われるのではないかと感じています。
今は自国の労働者に仕事をさせないで、他国の労働者を入国させて仕事をさせてる。
そしてそれをどんどん進めてる。
ものすごいスピードで。
自国民を虐げて、他国民を優遇する。
自国民の消滅を推進することになってる。
実際には誰がこの国を管理してるのか?
おおよその想像はつきますが。
そんな事やこんな事を考えるのです。
そもそも他国の労働者の労働生産性が高いのは国の違い、つまり風土の違い、文化の違いから来てるように思います。
そもそもが管理されているよりも、自己管理で任されているようにも感じるのであります。
まぁ そこは本当にそうなのかどうかは知りませんけれども。
ただ、雰囲気的にそういう気がするのであります。
労働管理をきつくすれば、余計にその仕事に取り組む意欲が低下するように思いませんか?
私はやる気が削がれるように思います。
従ってとてもシンプルな発想で「24時間働けますか?」の時代の感じに戻してやったほうが良いように思います。
労働時間は任せるよ、24時間仕事をしても構わないよ、と。
自分の精神的な管理や肉体的な管理は任せるね、と。
そういった仕事の仕方が、よほどやる気につながるように感じます。
つまり 人は機械ではない、ただの道具ではないのだから。
もし、機械や道具等の方が良いようであれば、最初からそういうものを使ったら良いと思います。
でも、多分それではうまくいかないことが今よりも増えるような気がします。
特に、生き物の世界は、生き物の不安定さを受け入れながら消化していくしかないと感じます。
相手が機械なら、機械で操作したらいいけれど、相手が人間ならそこに必ず感覚が入ってきます。
さらに感情も入ってきます。
それを機会に託すのは不可能ではないかと感じるのであります。
なぜなら、機械は感じることがないから。
感じることが出来る機械が誕生したら それらは精神的に不安定な気持ちを理解しないと存在し得ないでしょう。
不安定な気持ち、不安や業務がわかる機会が誕生したら?
まさに、シンギュラリティが始まり、人としての機械は、機械の人になってしまうと思う。
まさに気分を害したた機械が人と戦うのでしょうね。
今の人間と同じ構図が出来上がる。
機械は人であり、人は機械である。
結局、人の世界は人で出来上がるということになる。
つまり世間を構築する中心に機械はなり得ない。
機械と機械が結婚して、機械が生まれるとしたら、どこから生まれるのか?
そんなことを想像すると、とても面白い。
でも、そういう時代が来たときに、機械に「24時間戦えますか?」と聞いたら 多分「嫌です」と答えるんだろうなぁ。
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