命の置き場はどこか?
命を受け入れることをしてるか?
最近の印象として、受け身の日本人的な意識がある。
それは責任転嫁したいという意識があるから。
「私が決めたことではない」
そういうところからの考え方。
しかし、行動したものは責任を避けられない。
イスラムの人が「神によって支持されたのだ。私の意思ではない」と、責任から逃れようとした犯罪行為の言い訳を新聞で読んだことがあった。
同類かもしれない。
決めなければ、或いは決定権が無ければ「私は責任者ではない」と言える。
だから、決定権を拒否する。
もしそこに「自己の人生」或いは「自己の命」を置いたらどうか?
それでも、決定権を放棄するか?
最近の日本人はそれでも尚受け身で居ようとしてる気がする。
ここの国はあなたの国ですよ。
それでもそこに自分の意志を置こうとしない。
それを一言で言うと「無責任」と言う。
受け身な日本人的意識。
幼児、小児、まるであかごだな。
生きることを放棄してる。
この国から若者が居なくなっているという錯覚は実は錯覚ではない気がする。
拒否。
それは存在拒否なのだろう。
受け身もそこまで行くとまるで死人だ。
老人の国というより既に存在を拒否したモノの国だ。
ではどうしたらイイ?
戦うしかない。
ただ生きるために。
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