受け身的な心理を持つ者である。
何者かに行動を決められる。
そういう受け身でいられることになぜか安心感を持つ。
安心する。
押し付けられる。
何かに。
押し付けられたもの。
それは、宗教的な何か。
あるいは、それは、ただの作業。
あるいは、強制的に押し付けられた支配者からの労働。
あるいは、ただの動物的な行動様式。
しなければならないと言うことをやっていると言う安心感がある。
しなければならないことというのは、自分で自由に決めたことからくる身勝手な印象ではなく、他者から合法的に認められた何か。
だから、許されるという。
だから認められるという。
自分以外の何かに対する依存性から来るものかもしれない。
しかし、それで良いのだと言う安心感が存在する。
例え押しつけられたものだとしても安心できる。
これでいいんだと言う安心感。
しかして、窮屈な心は残る。
それに対して文句を言ったとしても、深層心理の中では納得できている。
逆にやりたいことができたとしても、他者から認められなければ非常に大きなストレスとなる。
世の中から認められない。
往々にして自由と言うのは、そういうストレスとともに存在する。
抑制とか、抑圧とかがあっても、そこになんだかの安心感が存在する。
仕方がなかった、と。
そういう言葉は、安心感とともに歩み寄ってくる。
しかし、そこに精神的な隙ができる。
そこに付け入るのが悪党だ。
それを詐欺という場合もある。
それは絶対に回避しなければならない。
思考の中心が、受け身の思考である人は抑制を持った生き方の方が楽であろう。
アメリカのドナルドトランプのように、自己決定欲を強く持った人間は自由で身勝手な方が快楽を得られるのかもしれない。
しかしながら、それは個人個人によって違いがあるようだ。
自分自身を考えると、受動的な精神的安心感を求めようとする。
したがって、支配する側ではなく、支配される側の生き方の方が楽なのだろう。
純粋な日本人と言う印象もある。
ただし、心の中はそうであっても、実際の行動は食い違いが存在している。
人に言われた通りにやっている。
ところが、自分ではそのつもりなのに、客観的に他人から見ると全く言うことを聞かないと言う印象を与えているようだ。
それはそれで生きると言うテクニックの問題かもしれない。
自由奔放に生きていても、他人から従順な人間であると認識される人もいる。
やはり生き方の会得、そのための勉強はきっと重要なのだろう。
生き方の勉強とは宗教なのか。
たぶん少し違うと思う。
多くの場合必要なのは、コミュニケーションの習得だろうと思う。
人と人とのコミュニケーションの取り合い方によって自己満足感は高くなるようだ。
自己満足感が高いと言う事は、結果として安心できると言うことになるのか。
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