謝罪会見を見るたびに感じるのは何故誤ってるのか意味がわからない感覚です。
天気予報士が「昨日は雨が降ってすみません」という言葉。
天気は誰のせいでもないし、彼女の予報は未来を当てる責任者の断言でもないし、ただの予測でしかないのに。
おそらく予測が外れて(それをだれかのせいにしなければ気が済まない庶民たちの気持ちの整理のために言った言葉)という位置ずけなのでしょうね。
で、そういう言葉とは対照的に「天気は彼女のせいではない」という反論が来る場合もありますよね。
そうなると、謝ることは何をしたいのかが二つの意見に分けられるトリガーとなります。
そういう意識の2面性を煽るのは多くに意識が交錯しているからに他ならないのではないでしょうか。
多くの意識がSNSを通じて交錯して「貴方と私の意識は繋がっていて一致してる(筈だ)」という欺瞞。
実際には同じはずはない。
みんな違う。
それが同じでないと我慢ならない人の心理。
それが、『私』を強固にしてしまう。
先の世界大戦もそういう意識の操作、一般大衆の気持ちが一つであるという間違いから始まってる気がします。
SNSの誕生は「人類という生物」がこの地球上にあまりに増えすぎたから。
それらが自然淘汰への道を加速させるための手段なのではないかと感じます。
宇宙は恐竜が増えすぎそうになったら隕石で歯止めをかけた。
今度は知的動物が相手なのでSNSという魅惑の手法を使って整理しようとしてる。
宇宙は星たち家族の生きてる空間なのかもしれません。
人類の意識は必要悪なのではないのか、と疑問を持つとそういう考えが増幅されます。
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