今まで日本人は周囲で起こっている様々な出来事を全て他人事として捉えていると言う批判を何度も繰り返してきた。
自分自身のネット上への書き込みを再度見直してみると、そういう批判的な書き方をしていることが多く見受けられる。
隣の国で起こった大統領を逮捕すると言う出来事にしても、実際にはあれはクーデターではないかと思える。
社会的な思想を持った野党の起こした行為だと思える。
社会主義国と結びつきの強い野党がある意味、強制的に、本来は起こり得ないその国のリーダーたる大統領を拘束すると言うことに他ならない。
かつては、大統領がその職を去った後に、様々な疑惑で逮捕されるケースはあった韓国だ。
ところが、前回の社会主義的な色合いを強く見せた大統領は、いまだに逮捕はされていない。
つまり、民主主義国から社会主義国へと移り変わっていると言って良いのではないかと思う。
それもある程度軍事的な行為をする政党が中心となり大統領を逮捕すると言う方法を取ったからだ。
私の目からは、これはまさしくクーデターだと感じる。
民意を無視したクーデターが起こるには、当然、近隣の社会主義国家からの水面下での工作があったように感じる。
ただし、これは憶測でしかない。
憶測しかできないのは、秘密裏に行われた工作だからであろう。
外部に漏らさないように、水面下で行うことを工作と言う。
日本で言えば、拉致問題にしてもそうだし、従軍慰安婦にしてもそうだし、他にもいろいろな水面下での工作が明らかになりつつある。
ところが、それを社会主義国家からの政治的工作として、メディアでは表現されていない。
そういう出来事があった事はあったけれども、「それでどうなんだ」と言うところで止まっている。
それが我が国の立場だ。
我が国民の意識だ。
実際には、これは国防突破した政治的な、あるいは情報的な攻撃がなされていると言うことだ。
それに対してしっかりした対策は一切行われていない。
それが我が国の現状だ。
なぜか?
それは全て他人事だからだ。
「そういう出来事がありました」
「へー、そうなんですか?」
「それで何がどうなのですか?」
そういった自分の身に降りかかってくる危険だと捉えていない。
自分が生きようが死のうが、それは全て他人事だと言う印象をすら持つ。
ところで、そういった社会的批判をたくさんしてきている自分自身について振り返ってみた。
最近記載した自分の身の上話がある。
それをある程度記載していた。
自分のこととして一通り書いた。
しばらくして、その記載したものを見直してみて、数日経過した後、もう一度追記をしている自分がいた。
そこには、自分自身の身上を書いたことに対する様々な社会的批判が加わっていた。
つまり、私自身の事なのだけれども、どこからか、それは何か別の人、赤の他人のように眺めている自分がいるのである。
結局は、自分自身も同じ感覚で生きているのだろうという感じがした。
他人を批判する事はたくさんあるが、結局は自分自身もその批判の対象であると言うことを認めていない。
認めるようなふりをして、結局受け入れていない。
君自身は、どうなのだと言われても、へらへら笑っているようなものである。
自分の身の上に降りかかっている大きな危険を感じているはずなのに、どこか他人事だと思っている自分も同時に存在する。
怖くないのか?
恐ろしくないのか?
ついには、困っていないのか?
困っているのであれば、どうにかしようともがいていない。
そういう感覚は、自分だけのものかどうかはわからない。
他の人は、今、現在の自分自身をすっかりと信じきっているのかもしれない。
そうであれば、他人事ではなく、ただの認識違いであろう。
ひょっとしたら、社会的批判をたくさん繰り返している自分自身は、実は自分に対してのみ言っている言葉なのかもしれない。
あるいは、これはあきらめなのか?
諦めであるならば、諦めた先に何かを見出すことはできないのか?
落ちるところまで落ちよう。
そこからどう進んでいったらいいか?
しかしながら、落ちるところまで落ちたら、もうすでに上に登る手段は切断されている。
雲の糸は切れているのだ。
今なら大丈夫か?
今までは、ただ運が良かっただけで何とかなった。
きっとこれからの時代は、そういう幸運はほぼ見られない時代になると思う。
もっともっと考えるしかない。