ごじゃっぺ日記(旧、看悶日記)

京都生まれのにわか茨城県民による雑多な日記です。内容に一貫性はありませんが、どうかひとつ長~い目で見てください。

JR完全乗車への道・第1回、草津線の客車列車

2013-04-11 20:59:59 | JR完全乗車への道
昨年無事、JR完全乗車を達成したのですが、33年もかかってしまいました。
折角なので、33年の足跡を選別に思い出しながらたどってみたいと思います。
(ブログネタのないときにアップします)

記念すべき第1回は、草津線(草津~柘植)。
自分が小学校3年生、昭和53年だったと思います。この一人旅から国鉄(JR)全線乗りつぶしが始まりました。

山科駅の窓口で、山科→草津→柘植→木津→木幡の乗車券を購入。
当時の山科駅はみどりの窓口はなかったので、手書きの切符でした。
当時自宅が伏見区醍醐だったので、京阪バスで山科駅に出て、帰りは木幡で下車。
町並バス停(奈良線六地蔵駅前)まで歩いて、バスで自宅に戻りました。
JRの六地蔵駅周辺は今でこそ宇治市でも有数の繁華街ですが、当時はのどかなもので、奈良線に駅はなかった。

さて未電化時代の草津線、朝夕は京都直通の客車列車が運行していました。
そして日中も一往復だけ、草津~柘植間に設定されていました。
このころはあまり車両の知識もなかったし、カメラも持っていなかったので、かすかな記憶しか残っていません。
車両は、おそらくオハフ33、オハ35、60系鋼体改造客車がメインで、編成はやたらと長かった。
それはその筈、メインの運用は京都への通勤通学も目的とした輸送力編成なんだから。
印象に残っているのは、デッキ付近をロングシートに改造したセミクロスシート仕様の車両や、
旧2等車(並ロ)を格下げし、デッキからデッキまでロングシート、超ロングシート車両も混ざっていたような気がします。
草津線の車窓についてはあまり印象はないのですが、まさに雑多な旧型客車が印象的で車両の思い出ばかり残っています。

柘植からの関西本線はキハ35ばかりの編成でした。この列車で実感したことといえば…
伊賀上野を過ぎると木津川沿いの渓谷に入り、トンネルが連続する区間になるのですが、
車掌は車内灯を点灯させることもなく真っ暗な状態で走り抜けていました。子ども心には「なんで?」という感じでしたが、
昭和50年代前半はスト権ストなど、頻発するストや度重なる運賃値上げで、旅客貨物ともに国鉄離れが進行していた時期。
いかに国鉄職員の風紀やサービス意識が欠如していたかを示している事例ではないでしょうか。

さて草津線の京都直通客車列車は草津線電化後も残り、50系化され、なんと国鉄がJRに変わったのち平成に入るまで走り続けました。
昭和63年春、受験に失敗した私は、山科~京都の1駅区間ですが予備校に通っていました。
夕刻の京都駅、東海道線上りは2番線、湖西線は3番線から、満員の通勤通学客をのせて発車するのですが、
1時間に1本ないし2本、北陸線特急の合間を縫って、草津線直通の50系客車がまばらな客を乗せて発車するのです。
この列車…座れるので、通勤客の多くがお酒を買い込んでいて、裂きイカなどの臭いが車内に漂っているのが特徴。
車両こそ近代化されているものの、実に古き良き客車列車の風情があったので、よく利用したものです。
出足の遅いディーゼル機関車DD51牽引なので、221系の新快速よりわずか一駅で2~3分余計にかかりました。
また途中東海道線で4番目の長さを誇る東山トンネルを通過するも、50系客車には冷房がないので夏場は窓解放。
車内にはDD51機関車が吐き出す白い排ガスが充満。たった25年前ですが、今思えば隔世の感がありますね。
最近の電車はきれいにはなったが、画一的で面白みに欠けると思うのは、一部の鉄道ファンだけでしょうか。


*今日は仕事が絶対午前様。今日中にアップできないので、こんな事前投稿ネタで逃げました…