共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はマーラーの祥月命日〜性格が垣間見える自筆譜ーアバド指揮による『アダージェット』

2024年05月18日 16時50分15秒 | 音楽
今日の日中は、かなりの暑さとなりました。日陰に入ると風は涼しいのですが、まだ5月なのにこの暑さは堪りません…。

ところで、今日5月18日はマーラーの祥月命日です。



グスタフ・マーラー(1860〜1911)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家・指揮者で、交響曲と歌曲の大家として知られています。

1907年(47歳)12月、マーラーはニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれてウィーンから渡米して《交響曲第8番変ホ長調》(千人の交響曲)を完成させましたが、翌1908年5月にはウィーンへ戻りました。そしてトーブラッハ(旧オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)で《交響曲『大地の歌』》を仕上げ、秋に再度渡米しました。

1909年(49歳)にはニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となりますが、春にまたヨーロッパに帰ることとなりました。夏にトーブラッハで《交響曲第9番ニ長調》に着手して約2カ月で完成させた後、10月には再び渡米して旺盛な指揮活動を続けていました。

1910年8月(50歳)、マーラーは自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受けることを決意しました。18歳年下の妻アルマが自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていましたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、そこからは劇的な改善をみるようになっていきました。

マーラーは、かつて作曲家だった妻アルマの作品を世に出すことを固く禁じていましたが、ここへきてようやく彼女の作品出版を勧めるようになりました。同年9月12日にはミュンヘンで《交響曲第8番》を自らの指揮で初演し、成功を収めました。

1910年冬からの演奏会シーズンもニューヨーク・フィルハーモニックで精力的に演奏会活動を続けていたマーラーでしたが、冬に咽喉炎を患い、翌1911年2月(50歳)に発熱もしました。医師の見立てで連鎖球菌による感染性心内膜炎と診断されたマーラーはパリで治療を受けましたが回復の見込みが立たず。最終的に病躯をおしてウィーンに戻ることとなりました。

そして、51歳の誕生日の6週間前だった5月18日の暴風雨の夜、マーラーはこの世を去りました。遺骸はウィーン郊外のグリンツィング墓地に埋葬されましたが、

「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」

という生前のマーラー自身の考えを反映して、



墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていません。

さて、そんなマーラーの祥月命日にご紹介するのは《交響曲第5番嬰ハ短調》より『アダージェット』です。

《交響曲第5番嬰ハ短調》は、マーラーが1902年に完成させた交響曲で、5つの楽章からなっています。マーラーの作曲活動の中期を代表する作品に位置づけられるとともに、作曲された時期はウィーン時代の絶頂期とも見られる期間に当たっている作品です。

『アダージェット』はこの交響曲の第4楽章に相当する曲で弦楽合奏とハープのみで演奏され、壮大な規模の第3楽章とフィナーレである第5楽章との架け橋となる間奏曲のような立ち位置の音楽です。自筆譜を見てみると



長く歌う弦楽合奏の間をハープが印象的に分散和音を奏でていきますが、神経質なまでの几帳面さで音符ひとつひとつが書かれているのが分かります。

この第4楽章『アダージェット』は、ルキノ・ヴィスコンティ監督による1971年の映画『ヴェニスに死す』で使われたことで、後のマーラーブームの火付け役を果たしました。また



この曲を筆頭にして1995年に発売されたヘルベルト・フォン・カラヤンのコンピレーションアルバム『アダージョ・カラヤン』が全世界で500万部以上を売り上げたことで、この『アダージェット』は今やマーラー音楽の代名詞的存在ともなっています。

そんなわけで、今日はマーラーの《交響曲第5番嬰ハ短調》より第4楽章『アダージェット』をお聴きいただきたいと思います。クラウディオ・アバド指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団の演奏で、ヴィスコンティ監督や帝王カラヤンをも魅了したマーラーの名作をお楽しみください。


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再認識したポテンシャル

2024年05月17日 18時50分18秒 | 工作
今日は疲れました…。

今日は中学年が遠足で朝から出かけていたため、私が久しぶりに支援級の留守居役を仰せつかりました。私は、ただの個別学習支援員のはずなのですが…。

その中で、支援級の図工の時間がありました。そこで



紙粘土と小粒の磁石を使って、家の冷蔵庫等にくっつけられるマグネットを作ることになりました。

紙粘土で形を作って柔らかいうちに裏側に磁石を埋め込み、水彩絵の具で着色して作りましたが、ここで制作をサポートしていた時に紙粘土のポテンシャルの高さを再認識しました。何しろ加工しやすく、油粘土のような臭いもせず、絵の具を塗ったり混ぜ込んだりすれば鮮やかに染まり、完成品を風通しの良い場所に置いておけば翌日には硬化してくれるのです。

子どもたちのサポートをしておきながら、私がハマりそうな予感がしてしまいました。あまり趣味の幅を広げ過ぎないように、気をつけないと…。

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何でもかんでもコンビニで…

2024年05月16日 20時20分20秒 | 日記
今日は、今までやったことのないことをしてみました。と言っても大したことではなく、コンビニで印鑑登録証を取ってみたのです。

郷里の茨城県にある実家には現在誰も住んでいないのですが、家屋を潰して更地にしてしまうと固定資産税が高くなるという謎の仕組みを考慮してそのままにしていました。しかし、誰も人が住んでいない家屋というものは目に見えて朽ちていくもので、たまにグーグルアースで見かけたりすると

『これは…』

という状態になっていました。

そのことについて、今までは兄妹間で何となく触れずにきていました。しかし、いよいよ傷みが進んできていることもあって、相続の件も含めてきちんと手続きをしようということになったのです。

相続は、一番長く実家に住んでいた長女がすることになり、私はそれに同意して事実上相続放棄するかたちになりました。いろいろと思うところが無いわけではありませんが、一番にあの実家を出て以来、特に社会人になってから帰ったのは両親の葬儀くらいの私が相続するより、より長く住んでいて思い入れのあるであろう長女の方が相応しいと思ったのです。

それについては同意書への署名・実印捺印が必要なのですが、印鑑登録証の写しも送らなければなりません。我が家から厚木市役所までは徒歩5分もかからない距離なのですが、折角の機会なので、より近いコンビニで印鑑登録証を取ってみることにしたのです。

近所のセブンイレブンに行って



マルチコピー機にマイナンバーカードをセットします。画面を操作して印鑑登録証発行を選び、発行手数料300円を投入して待つこと暫し、無事に印鑑登録証を入手することができました。

いろいろと言われているマイナンバーカードですが、こうした便利な機能をもう少し評価してもいいのではないかと思います。この印鑑登録証、明日には長女に送り返そうと思います。

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ぶどうパン騒動と『ミートワッフル』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年05月15日 20時50分20秒 | カフェ
今日は給食の時に一悶着ありました。

今日の献立に、久々に『ぶどうパン』が登場しました。あの、レーズンがゴッテリ入ったコッペパンですが、やはりというかなんというか、支援級の子たちが大騒ぎしたのです。

私は低学年の子たちの給食補助に入っているのですが、そのうちの一人がぶどうパンがイヤで泣き出してしまったのです。さすがに泣くほどか…とも思ったのですが、当人にしてみればそれほどのことだったようです。

かく言う私もレーズンは嫌いなので、その子の気持ちはよく分かります。なので

「レーズン食べなくてもいいから、そこだけほじって出して、残ったパンのところだけ食べればいいよ。」

と伝えたのですが、

「ヤだ!触りたくない!」

と、またしても泣き出してしまったのです。

仕方ないので、私が思いっきり手を消毒してからフォークを使ってその子のぶどうパンからレーズンを全て摘出してパンだけの状態にしたところ、どうにか泣き止んでくれました。そこから子どもたちが片づけ始めるまでに自分の食事を済ませておかなければならないので、ただでさえ早食いになるところをほぼかきこんで食べてしまったため、全く食べた気がしないまま終わってしまったのです。

そんなシッチャカメッチャカな給食補助を済ませて午後の授業を終えてから、横浜あざみ野にある音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日はそんなわけで変に空腹になってしまったので、



久々に『ミートワッフル』をオーダーすることにしました。お店の看板メニューであるクロワッサン生地のワッフルに、自家製ミートソースがたっぷりと添えられていて、サラダとともにいただくと結構なボリュームがあります。

美味しいコーヒーとワッフルをいただいて、ようやくひと心地つくことができました。今日は夜半から雨が降るようなので、なるべく急いで帰ろうと思います。

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一時の迷いでフラペチーノ…

2024年05月14日 17時50分25秒 | スピリチュアル
昨日の大嵐が嘘のように、今日は気持ちよく晴れ渡った空が広がりました。そんな陽気に誘われたのか、今日は支援級の子たちも割と機嫌がよかったように思われました。

何しろ、普段なら不貞腐れて机に突っ伏して抵抗するような子が、今日は理科の時間に挙手して発表までしたのです。これは嬉しい驚きで、私もその成果を支援級の担任に伝えると喜んでいました。

子どもたちを下校させた後で小田原駅まで向かっていたのですが、その頃にはだいぶ疲れていました。いろいろな意味で奔放な彼らのサポートは、結構大変なのです。

なので、



普段ならまず寄らないSTARBUCKSに寄っていくことにしました。お目当ては



看板にもある『ストロベリーフラペチーノ』です。

濃厚なイチゴソースの甘さが、今日の疲れた心身に沁み渡りました。ただ、やはり強烈な甘さなので、そんなしょっちゅう飲みたいものではありません(笑)。

STARBUCKSの店内には、その店独自の黒板アートが飾られていることがあります。小田原店の店頭には、



どこかで見たような波濤の向こうに小田原城天守閣が描かれていました。

明日は6時間授業の日です。今日はどうにか乗り切ってくれた子どもたちですが、さて明日はどうなりますやら…。

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どこで息吸ってるの…?サックスアンサンブルによるバッハ《われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ》BWV639

2024年05月13日 18時50分25秒 | 音楽
今日は凄まじい雨の音で目が覚めました。何事かと思って外を見てみたら、ものすごい風雨が吹き荒れていました。

子どもたちには申し訳ありませんが、こういう時に出勤日でなくて本当によかったと思います。この雨は明日には上がる予報なのですが、にわかに信じられない状況が続いています。

ところで、今日自宅で調べ物をするためにYouTubeを見ていたら、サックスアンサンブルによるバッハの動画が出てきました。内容はバッハの《コラールとオルガン小曲集(オルゲルビュヒライン)》の中の一曲『われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ』をサックス3本で演奏しているものなのですが、それを見てビックリしたのです。

『われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ』BWV639は、全45曲から成る《コラールとオルガン小曲集(オルゲルビュヒライン)》BWV599〜BWV644の中に収められています。

この《コラールとオルガン小曲集》は、当初1年分の典礼に必要なコラールを164曲選び、その全てに作曲するつもりで計画されたようです。しかし何らかの理由で、実際に作曲されたのは45曲となりました。

この《コラールとオルガン小曲集》が作曲されたのは1713年から1716年にかけての頃と見られています。当時30歳前後のバッハは、ザクセン=ヴァイマル公国の宮廷オルガニストとして活動していた時期でした。

実際に楽譜を見てみると



こんな感じで、右手(最上段)にコラールの旋律があり、左手(中央段)の細かなパッセージとペダル(最下段)がそれを支えています。これを見ると分かると思いますが、中央段はひたすら16分音符が動いているのです。

そこでこのサックスアンサンブルに戻りますが、ソプラノサックスがコラールを、テナーサックスが中央段を、バリトンサックスがペダルを担当しています。それだけ書くとさして驚くこともないのですが、先程も書いた通りテナーサックスのパートには息を吸うタイミングが全く無いのです。

一体どうするんだろう…と思って見てみたのですが、これがどこでブレスをとっている=息を吸っているのか分からないのです。勿論、全く吸っていないわけではなく何回かブレスはしているのですが、ソプラノサックスやバリトンサックスと見比べてみると、圧倒的に回数が少ないのです。

おそらく循環呼吸をしているのだと思うのですが、こんなに音の切れ目の無いオルガン曲を、よくサックスアンサンブルでやろうと思ったなと感心してしまいます。そして、実際に演奏して動画をアップしているあたりに、彼らの技術力の確かさを見る思いです。

ゴチャゴチャ言うより、とにかく先ずは聴いていただきたいと思います。アーチス・サクソフォン・カルテットの演奏で、柔らかな音色のサックスアンサンブルによるバッハをお楽しみください。




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今日はヴィオッティの誕生日〜音大生の課題曲《ヴァイオリン協奏曲第22番 イ短調》

2024年05月12日 18時18分30秒 | 音楽
今日は、一日曇りがちな天候となりました。予報されたほどの暑さはなく、日陰にいれば過ごしやすい陽気でした。

ところで、今日5月12日はヴィオッティの誕生日です。



ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ(1755〜1824)は、イタリアのヴァイオリン奏者、作曲家です。

イタリア北西部フォンタネット・ポー生まれのヴィオッティは、ガエターノ・プニャーニ(1731〜1798)の下で学びました。同じくイタリア北西部に位置する都市トリノの宮廷に仕えていましたが、独奏者として巡回公演も行っていました。

やがてパリで名声を獲得したヴィオッティは暫くヴェルサイユで働き、フランス王妃マリー・アントワネットに仕えていました。しかし、フランス革命の勃発により創作活動が不可能になったヴィオッティはロンドンに赴くことになり、そこでハイドンと親交をもちました。

その後パリへ戻ったヴィオッティでしたが、ワイン事業を営む為に演奏活動を断念することになりました。結局このワイン事業は失敗に終わってしまいましたが、1819年から1821年にかけてパリ・オペラ座の音楽監督を務めることになりました。

そんなヴィオッティの誕生日である今日は、《ヴァイオリン協奏曲第22番 イ短調》をご紹介しようと思います。この作品は1795年、あるいは1797〜98年にロンドンで作曲された、ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲です。

この協奏曲は数あるヴィオッティのヴァイオリン作品の代表作の一つで、今日演奏されるヴィオッティ作品の中でも最も有名なものです。全体的にイタリア風な旋律の美しさによって独奏ヴァイオリンの演奏を十二分に活躍させるとともに、ハイドン・サイズのオーケストラを用いる事によって従来独奏に対して従属的な地位にあった管弦楽伴奏をそれと同位に引き上げようとしていて、こうした点が近代協奏曲への先がけともいうことができる作品です。

因みにブラームスはベートーヴェンのコンチェルトよりもこの曲を好み、友人のヴァイオリニストであるヨーゼフ・ヨアヒムのヴァイオリンと彼のピアノで何回も合奏を楽しんでは、その度に感激していたといいます。またそのベートーヴェンもヴィオッティの作品はよく知っていて、自身でヴァイオリン協奏曲を作曲するにあたって影響を受けたといわれています。

この作品は音楽大学でヴァイオリンを学ぶ者にとっては避けて通れないもので、学生時代にはレッスン室から漏れ聞こえてくるヴィオッティをよく聴いていたものてした。因みに私はヴィオラ科だったので、一切弾いておりません…。

そんなわけで、今日はヴィオッティの《ヴァイオリン協奏曲第22番 イ短調》をお聴きいただきたいと思います。ダヴィッド・オイストラフの独奏、キリル・コンドラシンの指揮で、ベートーヴェンやブラームスも愛した名曲をお楽しみください。


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今日はマックス・レーガーの祥月命日〜《モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ》

2024年05月11日 19時10分10秒 | 音楽
朝のうちは冷え込んだものの、日中は暑いくらいの陽気となりました。もう、何を着たらいいのか分からなくなっている自分に気づかされます…。

ところで、今日5月11日はマックス・レーガーの祥月命日です。



ヨハン・バプティスト・ヨーゼフ・マクシミリアン・レーガー(1873〜1916)は、ドイツの作曲家・オルガン奏者・ピアニスト・指揮者・音楽教師です。とりわけオルガン曲、歌曲、合唱曲、ピアノ曲、室内楽曲の分野で多くの作品を残していて、後期ロマン派の代表的な作曲家の一人として位置づけられています。

ヴァイデン・イン・デア・オーバープファルツに育ったレーガーは、1901年には家族に対して、地元オーバープファルツよりも音楽的な成果が期待できるとして、ミュンヘン行きを決めました。1905年にはミュンヘン王立音楽院の打診を受けてヨーゼフ・ラインベルガー(1839〜1901)の後任作曲科教授に就任しましたが、わずか1年後には保守的な同校と意見の食い違いを起こすようになっていたといいます。

1907年に演奏活動でカールスルーエに滞在中にライプツィヒ音楽院の教授に選任されましたが、その後も演奏活動と創作活動を続け、1908年には教授職を退いて1911年から1914年の始めまでマイニンゲン宮廷楽団の宮廷楽長に就任しました。1914年にマイニンゲン宮廷楽団が解散されるとイェーナに転居し、その後も精力的な作曲活動と演奏活動を続けていましたが、心筋梗塞のために43歳の若さで急死しました。極度の肥満や暴飲暴食、ニコチン中毒に過労も死因に関わったと言われています。

編集ヴァイデン・イン・デア・オーバープファルツに育ったレーガーは、1901年には家族に対して、地元オーバープファルツよりも音楽的な成果が期待できるとして、ミュンヘン行きを納得させられるようになっていた。

そんなレーガーの祥月命日である今日は《モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ》をご紹介しようと思います。

《モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ 作品132》は、マックス・レーガーが作曲した管弦楽曲です。後の1915年にレーガー自身の手によって四手ピアノ曲、あるいは二台ピアノ曲(作品132a)に編曲もされました。

この作品は



モーツァルトの《ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)》の第1楽章から主題を取った変奏曲で、1914年4月から7月にかけて書かれました。初演は同年10月に行われる予定でしたが、第一次世界大戦の勃発のために延期になってしまい、翌1915年1月8日にヴィースバーデンでレーガーの指揮によって行われました。

レーガーは作品の性格を

「気品に満ちて、俗世の苦しみから解き放たれている」

と述べていて、作曲にあたっては当時の音楽界の「混乱」、同時代人たちの作品の「不自然さ、奇妙さ、奇抜さ」への対抗の宣言という意図があったといいます。おびただしいレーガーの作品のなかでも、明快さと高い完成度を持つ代表作とされています。

初演直後から様々なオーケストラのプログラムに取り上げられ、現在でも演奏機会の多いレーガー作品となっています。日本でも早くから紹介され、1929年(昭和4年)に近衞秀麿(1898〜1973)の指揮する新交響楽団(NHK交響楽団の前身)で初演されています。

聴いてみると分かるのですが、始めのうちはモーツァルトのメロディに基づいた曲であることが分かります。しかし第2変奏になったあたりから、20世紀に足を突っ込んだレーガーらしい音楽が展開されていきます。

マックス・レーガーは自身をドイツ3大B〜バッハ、ベートーヴェン ブラームス〜の系譜にある作曲家だと豪語していました。しかし実際にはどちらかと言うとリストやヴァーグナー、リヒャルト・シュトラウスといった20世紀の作曲家のような楽曲展開が特徴的で、この作品の最後のフーガの主題に至ってはマーラーの角笛交響曲のようなコケティッシュさすら感じさせます。

そんなわけで、レーガーの祥月命日である今日は《モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ》をお聴きいただきたいと思います。ペーター・エトヴェシュ指揮、フランクフルト放送管弦楽団の演奏で、どんどんとモーツァルトの影が薄くなっていく(笑)濃厚なレーガーの音楽をお楽しみください。


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五月晴れに咲く花菖蒲

2024年05月10日 16時30分20秒 | 
今日の小田原は、見事な五月晴れとなりました。空には雲一つなく、これぞ快晴!という空が広がっていました。

子どもたちもおおっぴらに外で遊ぶことができて、本当に嬉しそうでした。今後に迫りくる梅雨の時期のことを考えたら、貴重な時だったでしょう。

今日は午後から学習相談があるので午前中授業で、給食を食べて掃除をしたら下校になりました。それで、かなり早くに退勤になったので、帰りがけに小田原城址公園へ寄り道していくことにしました。

本丸広場に到着すると、



真っ青な空の下に天守閣が聳えていました。御感の藤も終わって次は紫陽花と花菖蒲になるのですが、常盤木橋の下の東堀には来月から始まる『あじさい花菖蒲まつり』に備えて



ボランティアの手で花菖蒲の鉢が並べられていました。

中には、





気の早い花菖蒲が花を開いていました。一方の紫陽花は、



まだまだこんな感じです。

それにしても、こうした爽やかな季節がひと月も続かないことが残念でなりません。せめてもう少しこの爽やかさが続いて、ジメジメとした梅雨時期の到来が少しでも遅くなってくれることを願うばかりです。

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今日はジョヴァンニ・パイジェッロの誕生日〜名アリア《うつろな心》

2024年05月09日 18時28分38秒 | 音楽
今日も、季節外れのかなり寒い日となりました。そのせいで、折角衣替えで仕舞いこんだ長袖をまたひっぱり出すハメになってしまいました…。

ところで、今日5月6日はパイジェッロの誕生日です。



ジョヴァンニ・パイジェッロ(1740〜1816)は18世紀後半に活躍したイタリアのオペラ作曲家で、セミ・セリア様式と呼ばれるオペラの代表的人物です。

イタリア南部ターラント出身のパイジェッロは、地元のイエズス会の神学校に通っていました。その美声ゆえに多くの注目を浴びたパイジェッロは、ナポリの音楽学校に送られてフランチェスコ・ドゥランテ(1684〜1755)に師事しました。

1763年に音楽学校を終えると、劇場のためにいくつかの幕間劇を作曲しました。その一つが注目を集め、イタリア各地の劇場に招かれてオペラを作曲することになりました。

1776年にはロシア女帝エカチェリーナ2世に招かれてサンクトペテルブルクの宮廷に赴き、8年間を過ごすことになりました。この間にパイジェッロは魅力的な傑作《セヴィリアの理髪師》を完成させ、この作品の人気はヨーロッパ中を席巻しました。

パイジェッロの《セヴィリアの理髪師》は、イタリア音楽の歴史において一時代を画するものとなりました。この作品を以て18世紀の巨匠たちが培ってきた気高い甘美さは姿を消し、新しい時代の目も眩むような超絶技巧に道を譲ったといわれています。

1816年(パイジェッロの没年)にジョアキーノ・ロッシーニ(1792〜1863)がパイジェッロと同じ台本に曲付けして、《アルマヴィーヴァ》の題名で新作を発表すると、舞台から非難の声が上がったといいます。しかし《セヴィリアの理髪師》に題名を改めて発表するとこのオペラはロッシーニの最高の作品と見做されるようになり、一方でパイジェッロの作品は忘れ去られていくことになってしまいました。

不思議な運命のいたずらと言うべきか、かつてパイジェッロはペルゴレージ(1710〜1736)の有名な幕間劇《奥様女中》と同じ台本に当代風に曲付けをして、ペルゴレージの名声をかすめてしまったことがありました。はからずもそれと同じ轍を、自身の死後に踏むことになってしまったのです。

そんなパイジェッロの誕生日である今日は、アリア《うつろな心》をご紹介しようと思います。

《うつろな心(Nel cor più non mi sento)》は、ジョヴァンニ・パイジェッロが作曲したオペラ《美しい水車小屋の娘》のなかのアリアです。作詞者は台本を書いたジュゼッペ・パロンバと推測されていて、イタリア語の直訳としては『もはや私の心には感じない』となります。

歌詞は


Nel cor più non mi sento
brillar la gioventù;
cagion del mio tormento,
amor, sei colpa tu.

Mi pizzichi, mi stuzzichi,
mi pungichi, mi mastichi,
che cosa è qesto ahimè?
pietà, pietà, pietà!
amore è un certo che,
che disperar mi fa!

もはや私は心の中には感じない
青春の輝きを
私の苦しみの原因は
愛よ、お前の罪なのだ。

お前は私をつねってからかい、
ちくりと刺して噛みつく
ああ これは何なのだ?
もうやめておくれ!
恋とは間違いなく
私を絶望させるものだ!


というものです。

オペラ自体は現在では上演されることはありませんが、このアリアはパイジェッロ作品の中でも飛び抜けて有名で、イタリア古典歌曲集にも掲載されています。その人気は当初から高かったようで、1795年にはベートーヴェンがピアノ独奏の変奏曲《パイジェッロのオペラ『水車屋の娘』の二重唱「わが心もはやうつろになりて」による6つの変奏曲 ト長調 WoO.70》を作曲しています。

また1820年頃にはパガニーニが、ヴァイオリン独奏用の変奏曲《『うつろな心』の主題による変奏曲 ト長調》を作曲しています。その他にも、ヨハン・ネポムク・フンメルやジョヴァンニ・ボッテジーニ、ヨハン・バプティスト・ヴァンハル、フェルナンド・ソルなどが変奏曲を作曲していて、このアリアの当時からの人気の高さを窺い知ることができます。

そんなわけで、今日はパイジェッロの《うつろな心》をお聴きいただきたいと思います。三大テノールの一人ルチアーノ・パヴァロッティ(1935〜2007)の歌唱で、かつてヨーロッパを席巻した愛らしい名アリアをお楽しみください。


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ドタバタ支援級と『マンゴーワッフル』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2024年05月08日 20時40分20秒 | カフェ
今日も、小学校支援級では様々な出来事がありました。

今日は5年生の総合の授業で、今月末に行われる宿泊学習についての話し合いがありました。そこでは当日の係活動や役割分担について話し合ったのですが、話に集中することのできない支援級の男子たちが我関せずでふざけ始めてしまったのです。

それだけならまだよかったのですが、今日は彼らにつられて交流級の男子たちまでが一緒になってふざけだしてしまいました。当然のように私が締めましたが、今日はことの成り行きを見ていた交流級の担任からもキツいお叱りがあったのです。

壮年の先生の叱責の迫力に、支援級の男子のひとりが泣き出してしまいました。そして支援級の担任に泣きながら窮状を訴えたのですが、事の顛末を具に見ていた私が彼の都合のいい状況説明を訂正した結果、担任から更に注意を受けることになっていました。

思うに『寄り添う支援』という生ぬるい対応に徹したことで低学年の時に『けじめをつける』という初歩的なことをきちんと注意されてこなかったことも、こうした甘ったれた現象が起こる原因になっているような気がしています。恐らく父兄から怒鳴りこまれないようにした自衛的な忖度なのでしょうが、そろそろ本気で考え直す時期にきているような気がしてなりません。

そんなモヤモヤした気持ちを引きずって、横浜あざみ野の音楽教室に向かいました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今回は



今月限定メニューの『マンゴーワッフル』をオーダーしました。昨年にも登場したメニューが、今年も満を持しての登場です。

クロワッサン生地のワッフルに、マンゴーの果肉と自家製マンゴーソースがあしらわれています。ヨーグルトソースが爽やかさを演出していて、サクサク食感のワッフルとよく合っています。

いろいろと疲れた心身に、美味しいコーヒーとワッフルが沁み入りました。やはり、週に一度のここでの時間は貴重です。

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付箋のためならエンヤコラ…

2024年05月07日 17時50分00秒 | 日記
ゴールデンウィークもすっかり明け、今日からまた新たに学校がスタートしました。子どもたちはすっかり休みグセがついてグダグダしていましたが、私はそれを後ろから叱り飛ばしていました。

支援級の子どもたちが交流授業に行った時に、支援級の担任に子どもたちがどんな様子だったかを報告する必要があります。その時に使っているポスト・イットの横長の罫線付き付箋がちょうど切れてしまったので、帰りがけに買っていくことにしました。

小田原から厚木に着いて、駅前の有隣堂に行きました。ところが、いつも置いてある売り場に行ったら、なんと私が愛用しているタイプの付箋のみが欠品しているではありませんか!

『いや待て、隣の海老名にLoftがあったはず…』

ということで、もう一度小田急線に乗って海老名のLoftまで行ってみました。が、ここでも私が愛用しているタイプの付箋だけが欠品していたのです。

いよいよテンパってきたのですが、

『もう、こうなったら…!』

という思いで再び小田急線に乗り、更に遠い町田まで向かいました。そして祈るような気持ちで東急ハンズに向かい、ステーショナリーコーナーに行ってみたら…



ありました!

学校から支給される付箋もあるのですが、私にはこの付箋が、大きさと言い、書き心地と言い、丁度いいのです。それ故に愛用してきたのですが、これを入手するのにこんなに右往左往させられるとは思いもしませんでした。

また欠品したら一大事!ということで、とりあえず3つ確保しました。ネットで見ると製造中止になったりはしていないようなので、いずれ厚木の有隣堂に入荷してもらうよう頼んでおいてもいいかも知れないな…と思ったのでした。

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一目惚れしました

2024年05月06日 18時10分10秒 | 日記
今日は朝から、空一面に雲の広がる天候となりました。その分暑さはなく、割と過ごしやすい陽気となっていました。

そんな中、今日はちょっとした用事があって出かけていました。その近くでフリーマーケットをしていたのでちょっと寄ってみたのですが、そこで目を引いたものがあって、つい買ってしまいました。

それが



この柱時計です。出品者によるとメーカーなどは分からないながらも、昭和時代の物だろうということでした。

こういうものは見てくればかりのポンコツジャンク品が多いのですが、この子は振り子も時打ちもしっかりとしていました。しかも、欠落してしまっていることの多い擬宝珠が全て揃っていて、それも購入の決め手となりました。

持ち帰って水平を測りゼンマイを巻き上げてみると、コチコチ…という心地よい音とともに動き始めました。これから、大切に使おうと思います。

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薫風に舞う鯉のぼり〜厚木市温水・地蔵橋親水広場

2024年05月05日 16時20分30秒 | 日記
今日は端午の節句です。男子の健やかな成長を願う日ですが、それを祝すかのような快晴の空が広がっていました。

そんな五月晴れの空の下、あまりにも気持ちがよかったので散歩に出かけてみることにしました。我が家から南へ歩くこと数十分、厚木市の温水(ぬるみず)という地区まで歩いていくと、



田んぼの向こうに沢山の鯉のぼりが翻っているのが見えてきました。

ここは恩曽川(おんぞがわ)という川の流域にある、地蔵橋親水広場というところです。ここでは此の時期になると川の上に沢山の鯉のぼりを掲げているのですが、今年も



色とりどりの鯉のぼりが風の中で泳いでいました。

こちらにあるのは、かつて屋根より高いところで泳いでいた立派な鯉のぼりたちです。そして各家庭で役目を終えた鯉のぼりたちが寄贈されて、







今ではこの親水広場で子どもたちの歓声に包まれながら薫風に吹かれています。

ゴールデンウィークも明日で終わり、明後日からはまた日常が戻ってきます。学校勤務で凡ミスをやらかさないように、今から頭を切り替えておこうと思います。

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今日はロン・カーターの誕生日〜バッハ《無伴奏チェロ組曲》より

2024年05月04日 15時55分51秒 | 音楽
今日、またしても日中は夏日になりました。予報されていたこととはいいながら、やはり5月にこの暑さは堪えます…。

ところで、今日5月4日はロン・カーターの誕生日です。



ロン・カーター(1937年5月4日〜 )は、アメリカ合衆国出身の黒人ジャズ・ベース奏者、作曲家です。

ニューヨーク市立大学シティカレッジの元教授でもあり、現在86歳でご顕在です。因みに身長がものすごく高くて大谷翔平とほぼ同じ193cmもありますが、上の写真のコントラバスとの対比で、その大きさが分かっていただけるでしょうか。

ロン・カーターは1959年に、チコ・ハミルトン(1921〜2013)のグループでプロ・デビューしました。また、ポール・チェンバース(1935〜1969)やレイ・ブラウン(1926〜2002)、サム・ジョーンズ(1924〜1981)などの名だたるベーシストとの交流の中で自己を確立し、様々なジャズグループに参加しました。

その柔軟で奔放なプレー・スタイルが、当時モード・ジャズの表現を模索していたマイルス・デイヴィス(1926〜1991)の目にとまり、ポール・チェンバースに代わるベーシストとして抜擢されました。他のメンバーが繰り出すサウンドに絶妙な相性を見せたロン・カーターは、1960年代のマイルス・ミュージックの屋台骨を支える役割を果たしました。

ジャズ界の趨勢がモード・ジャズからエレクトリック・ジャズ/ジャズ・ロックに移行しつつあった1960年代末、ロン・カーターはマイルスのグループを離れて以降、主に著名ミュージシャンのセッションのサイドマンとして無数のレコーディングに参加しました。1970年代には、1976年からのハービー・ハンコック、フレディ・ハバード、トニー・ウィリアムスらによるV.S.O.P.クインテットや、ハンク・ジョーンズによるグレイト・ジャズ・トリオなどのバンドにも名を連ねています。

一方で、ロン・カーターはピッコロ・ベースという新楽器を開発し、ソロ楽器としてのベースの可能性を追求しました。ピッコロ・ベースはコントラバスより小さくチェロより大きい楽器で、コントラバスの4本の弦のうちE弦(最低音の弦)を廃して、最高音であるG弦の上にさらに4度上のC弦を配したものであり、チェロ同様に椅子に座って演奏するものです。

そんなロン・カーターの誕生日にご紹介するのは、バッハの《無伴奏チェロ組曲》からの一曲です。

ロン・カーターは若い頃からバッハなどに傾倒し、初めはチェロを習い、後にコントラバスへと転向しました。ロン・カーターは弓を使用したベース演奏もできたため、クラシックのコントラバス奏者を目指して1日8時間に及ぶ猛練習をするも、当時は人種差別の壁があって白人オーケストラへの入団は拒否されてしまいました。

現代の感覚から見ると信じがたいことですが、かつては黒人がクラシック音楽に携わることはタブーとまで言われていた時代がありました。モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の名ピアニスト、ジョン・ルイス(1920〜2001)もバッハに深く傾倒していましたが、黒人であるというだけで演奏することを禁じられたのです。

そこでジョン・ルイスは自身のインスピレーションに則ったアレンジを施した《平均律クラヴィーア曲集第1番》のアルバムを発表するに至りました。今では名盤とされているこのアルバムも、元々は白人による黒人差別から生み出されたものなのです。

ロン・カーターもバッハへの思いは絶ち難いものだったようで、1985年に



『ロン・カーター・プレイズ・バッハ』というアルバムをリリースしました。このアルバムではバッハの《無伴奏チェロ組曲》やリュートのための作品をベース一本で、しかも全てピチカート(弓を使わずに指で弦を弾く奏法)のみで演奏したものです。

このアルバムの評価については、かなり意見が割れます。クラシックとして聴くとちょっと荒っぽいのですが、ジャズアルバムとして聴けば絶妙なスウィング感を感じることができるアルバムです。

かつて、前出のジョン・ルイスが何故ジャズ・ミュージシャンなのにバッハを手掛けたのかと聞かれたインタビューで

「クラシックの作曲家の中でスウィングしているのはバッハだけだからだ。」

と答えたという逸話があります。そうしたスウィング感をロン・カーターも演奏者として肌身で感じていたからこそ、ジョン・ルイスとは違ったアプローチでこうしたアルバムを発表したのでしょう。

そんなわけで、今日はロン・カーターのベースソロによるバッハの《無伴奏チェロ組曲》より第5番の終曲ジーグをお聴きいただきたいと思います。ジャズベーシスト、ロン・カーターならではの、心地よいスウィング感をお楽しみください。


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