コロナ禍の中で子ども達の学びのために、オンライン授業をと盛んに言われ、始まったところもあった。
でも、ずうっと2つの疑問を感じている。
1つ目は、その環境が無い子たちが多いこと。
大学生にも多いという。
経済的に可能なところはこれを機に整えればよいのかもしれない。だが、それができないところはどうするのか。
兄弟がいてそれぞれにパソコンを用意することはできるのか。
パソコンでなくてもスマホでいいじゃないか?
本当に?
小さな画面で、何時間も授業を受けることはできるの?
その受信料はどうなるの?
オンライン授業をするというのならば、どの子も参加できる状況にして始めなくてはいけないと思う。
2つ目は、年齢が下であればあるほど、機械ではなく、人と人が触れ合う機会、実物のものに触れることが、子どもの発達にすごく重要だということ。
コロナ禍を契機に、教育現場は今まで以上にというか急発進の感を持って、インターネットの整備が進むだろう。
だが、企業の要請や便利さでなく、子どもの発達にとって何が必要かをいつも考えてで進みたい。
9月始業が話題に上っている。だが、そんな簡単な問題ではない。コロナで4月始業式ができなかったから、休校で授業時間数が足りないからと単純思考で9月開始云々。4月か9月かは子どもの授業の問題だけではない。わずかな期間に、十分な論議もできない状況で決めるべきではない。
9月始業の方がグローバルだなどという人もいる。本当にグローバルというならば、25人学級か少なくとも30人学級にすべきだろう。
この方がコロナ対策ー密集を防げる。
しかも、この方が子どもたちの個に応じた学びを少しでも保障することができる。
また、コロナ予防のためにこれまで以上に過重労働を強いられる教師の負担を減らすことにもなる。教師の負担を減らすことは、子ども達にとっても有効なことだと考える。
これまでの学級編成で進めば、夏休み、冬休みの短縮で授業時数の確保となれば、ゆとりのない学習進捗になるだろう。直ちに小中高とも、少なくとも30人学級としていくこと。これならば、みんなが喜ぶ。
早く法的措置をし、予算措置をし、広く教師を募れ。
幼児教育の無償化が決まった。
それはそれでいい事なんだが、
無償化といっても、全部は無償化するわけではなく、
色々な問題がありそうだ。
私が一番気になるのは、
ずっと 大問題になっていたのは、無償化ではなく、
待機ゼロ、保育所を増やす事=保育士を増やす事だったはず。
どっちも 無償化も保育所を増やす=保育士を増やすも
両方ともが、一緒に解決されるならばいいのだが、そうでなければ、
保護者たちの願いを先に解決すべきだ。
定員を増やし、保育士・幼稚園教諭1人の負担を増やすやり方では
保育の質の低下を招く。
子どもたちが豊かに育つためには、保育の質は大事。
お金の使い道は
みんなの願いに沿って決めてほしい
本当に津波の被害にあった子どもたちに「ごめんなさい」と言えるために、
教員・教育界は何を学ぶのか。
訴訟を起こされた保護者の方の言葉にあるように、
地震から津波到着までの50分間に、何があったのか
何故避難ができなかったのかを明らかにすることなくして、
学ぶことはできない。子どもたちの命に報いることはできない そう思う。
1、津波の避難場所に学校がなっているのだから安心な場所なのだと思っていた。
2,一応、学校より標高の高いところに逃げようとした。
3,津波の大きさが予想外のものだった。
ということが、市の言い分。
1,2,について確かに、そうだろう。だから、
防災マニュアルがあって、その手順に乗っ取ったのだろう。
だけれど、だけれどだ。そのマニュアルに乗っ取るというところに一番の問題があると私は考える。
学校現場の話を見聞きして感じることは、
、上からの判断に従う、横並び、指導要領の範疇でしか動けない・動こうとしない、自由にものが言えない。
忙しすぎて、議論なんかして決めていたら、余計忙しい。だから考えない。言われたことをする。
そうしたことが、似たり寄ったりどの現場にもあるのを感じる。
子どもたちを、自主性がない、
言われたことはすることができる
ドリルによってパターン化された問題はできるが、思考判断することが弱い 等
問題視している発表や意見を聞いたことがあるが、教師も同じ状況だと私は感じている。
教師が、自主的に学び、共に教師間で議論を重ねていけない状況が日常だから、
この津波の避難の時にも同じだったのではないか。
マニュアルに従っているだけであったろう。(マニュアルを全面否定はしない。最低限の共通理解という意味で)
今回の地震は,いつもとは違うぞ。山の様子はどうだろう。と見に行ったり、情報を集めたり、
50分間の間に教師はどう動いたか。
もちろん大変な地震の恐怖の中、興奮状況にある子どもたちに対応する事と共に、
教師集団としてさっと、判断し分担し合いながら、動かなければならない。
それが日常的に培われている教師集団の力量となって現れるのではないだろうか。
ところが、忙しく、考えることをあまりできなくされて(言い過ぎたらごめんなさい)
目の前の仕事だけに追われている職場、
上からの判断・指示を待つ体制にある職場だとしたら・・・・
教師は教科を教えると共に命に責任を持つ。
だから、指導要領の範疇にとらわれることなく、
自ら様々なことに関心をもち 学び続けてほしいと思う。(自分にできるのか…1人ではないよね)
避難訓練をしていて、たとえばどこかの会場で火事が起きたその場にいたとき、あるいは係員であったとき、
風向きや出火元や、建材や、それらを状況に合わせて判断できるのかと思うことがある。
自信なくぞーっとする思いだ。
豊洲市場が問題になっているが、これについても、上からの命令・ご都合に合わせ、物言わぬ役所・与党議員
等々、私の考える一番の原因が関係していないか。
今裁判だけの問題ではない。
たった一人助かった教師の方は、今大変な心の葛藤の中で生きておられることだろう。
だけど、どこかでそっとだれかにでも伝えてほしい。