マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

聞くことを大切に

2008-07-08 00:48:34 | 教会の風景
日曜の午後は、毎月恒例の役員会でした。
聖書からの学びと具体的な教会の運営について話し合いました。
今回も話し合いの中で、新たな発想と動きが生まれました。
役員さんたちの話を聞くのも楽しみの一つです
時間ギリギリまで有意義な話し合いが持てました


そして、Youth For Jesusです。
司会のS君が教会の別の用事で遅れたので、急きょN君に司会を頼みました。
いつもどおり賛美と聖書の短い集会。

メッセージはヨハネ15:7,8からでした。
「みことばを聞くこと」というテーマで前回の続きです。

人の話を聞くのにも、注意力や忍耐や思考が必要です。
相手が自分に何を伝えたいのかを掴むのは、時には難しいこともあります。

それは聖書を通して
神様のみこころを知ることにも当てはまります。
「わたしにとどまりなさい」(4節)と語られたイエス様。

そうして、このようにも言いました。
「あなたがたがわたしにとどまり、
わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、
何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。
そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

ものすごい約束です。
「何でも・・・ほしいものを求めなさい。
そうすれば、・・・かなえられます。」
私たちにとって、とても心躍るような約束です。

ですが、注目すべきところは・・・
「あなたがたがわたしにとどまり・・・」です。
やはり、主に聞き続けること、
主のみことばからみこころを正しく知ることが、大切な鍵です。

主のみこころを正しく知り、それに従って生きる時、
実り多い人生となり、本当の意味での弟子となるのです。
それによって、神様は栄光を受けられるのです。
主のみこころを教えていただくための忍耐や注意力を頂いていきたいものです。
聞き続ける者でありたいです。



夕食はいつもどおり、みんなで。
メニューは、ロコモコ丼とスープ・デザート付でした。





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大切にしたいものです

2008-07-08 00:15:18 | 教会の風景
今日は休日ということで、しっかり休みました。
午後、教会の事務的な仕事を少ししましたが。
充電の日になりました。
明日からまたがんばります


さて、昨日の一日を振り返ります。


朝は分級からスタート
集まった方々と賛美と祈りの時間。
そして、「神の国はあなたがたのもの」から学びも。
義に渇くという面と義に満ち足りるという面を併せ持つ私たちについて。

続いて礼拝です。
礼拝説教は、創世記49章の後半から50章の最初の辺りからです。
「ヤコブの死」を迎える場面です。
「死」について考えました。

日常では「死」について語ったり、考えることはあまり歓迎されることではありません。
誰にも必ず訪れることなのに。
でも、死を意識することで、今の生を大切にできるのではないでしょうか?

 時を大切に。
ヤコブは死を意識した時、子孫の祝福の祈りと自分の埋葬への指示という行動を取りました。
その時その時に自分が何をなすべきかを知り、行動できることは幸いなことです。

 別れを悲しむ。
「死」は、当然のことながら、信仰の有無に関係なく訪れます。
「死」は、別れの時です。
ヨセフは、自然な感情として父との別れを悲しみました。
この自然な態度が、実はもっともふさわしく、必要です。
悲しい時は、悲しむ。
周囲(エジプト全土)も喪に服しました。
エジプトで権力者になっていたヨセフのゆえだったのでしょうが。
はるか昔から、しかも異教社会においてさえ・・・
悲しむ者とともに悲しむことこそ、
人が本来大切にしてきた態度でした。

 故人への尊敬や感謝を示す。
ヨセフは、父ヤコブの遺言を実現するように行動します。
埋葬についての指示は、神様に対する父の信仰の表明でもありました。
ヨセフは、父の意向を大切に扱いました。
パロもヨセフの願いを尊重しました。
エジプト式の葬儀を故郷カナンで7日間行うことを許しました。
もちろん、この場合、表面上エジプト式だったのでしょうが、
偶像崇拝的な要素は行われなかったと考えるのが妥当でしょう。

以上、これらを踏まえて・・・
確かに「死」に対しての態度を考えることは大切です。


しかし・・・
これらのことは大切ではありますが、「死」に対する根本的な解決にはなりません。
読んでいて、気付かれたことでしょう。


聖餐式でイエス・キリストの十字架での「死」を心に留めました。
「死」対する根本的な解決は、イエス・キリストの十字架の死にあります。
イエスの十字架の死は、身代わりの「死」です。
主の死を自分のためだと信じる者には、「死」に対する根本的な解決が与えられます。


イエスの死によって・・・

「死」は、神の裁き・滅び・永遠の別れ から
       
神のみもとに、永遠のいのち、再会の希望 を伴うものとなりました。


改めて、主の救いの尊さを心に留めました。
「死」について真摯に向き合えるのは、この救いがあるからこそ
イエス様の御名がほめたたえられますように

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