愛と自由に満ちた幸福な生活は公平であるべし、人権・平等・平和が生きる人の権利

原理  愛 ・公平・自由
原則 人権・平等・平和
命をつなぎ、知識を伝へ発展した文化・科学
人々の想いを伝承

歎異伝 人生論ノート 三木清 (3) 懐疑について

2018年01月16日 | 歎異伝
歎異伝 人生論ノート 三木清 (3) 懐疑について
青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html

 三木は何故、懐疑を人生論の3番目に持ってきたのでしょうか?戦前の大日本帝国の国家主義、翼賛政治、軍国主義が顕著になり、自由に意見を言えなくなった時代背景があります。又、近代までの哲学が絶対的な観念である神学に対抗する武器が懐疑がであった故かも。
 デカルトは「私は考える、ゆえに私はある」懐疑論者のどのような論外な想定によってもゆり動かしえぬ、確実なものとして哲学の第一原理としました。さらに踏み込むならば、、思考の自由、思想の自由。既成の概念に囚われない、初めに言葉あり、既成の言葉に支配されない。私は考える、ゆえに私はある、よって私は人間として存在する。基本的人権の萌芽です。
 一方でデカルトはこれを真理と表現しています。なぜ理に真を付ける必要が有るのでしょうか?言葉の修辞だけで無く、観念である「真理」に対抗する必要に迫られているとしか考えられません。本項では三木も「真の懐疑」「真の懐疑家」を使って表現しています。真と偽の使い分けで使っていますが、時代背景でしょうか?
 懐疑 吉本隆明の場合
NHK戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」 第5回 自らの言葉で立つ 思想家~吉本隆明~より
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/bangumi/movie.cgi?das_id=D0012200037_00000
吉本隆明が軍国少年青年であった頃、懐疑は無かった。敗戦後曰く、反戦とか厭戦とかが思想としてありうることを想像さえしなかった。
 彼が感激した高村光太郎 詩
  記憶せよ12月8日 この日 世界の歴史あらたまる アングロサクソンの主権 この日 東亜の陸と海とに否定さる 否定するものは彼等のジャパン 眇たる東海の国にして また神の国たる日本なり
 戦後 吉本は詩人達の戦争責任 詩人達はあざむかれたのであろうか、断じてそうではない 同胞の隊伍がアジアの各地にもたらした 残虐行為と現代詩人が日本の現代詩に 美辞と麗句を武器としてもたらした言葉の残虐行為とは 絶対に同じものである。 意味深ですが、軍国主義に青春を捧げた自分に対する悲しさ、無念さ、虚無感の表れであり、少しでも違和感を感じれば反対を貫く反抗の表明。決定的な懐疑主義への転向です。何をもって懐疑するか?懐疑の対義語は盲信と確信ですが、言葉をそのまま受け入れるか、検証の上で受け入れるか大きく意味が異なります。吉本は”言葉”ではなく違和感という感覚を重視しました。彼には青年期の反抗は皆無?戦後が反抗期?

 今も亡霊が公然と暗躍している
 【教育勅語】山口采希&塚本幼稚園 「大切な宝物」を熱唱!自衛隊  陸自海自空自 Ayaki Yamaguchi JSDF Kindergartener Japan



 自己主張の根性が弱い私にとっては、言葉が最重要でした。
人間社会のテーゼ
 Ⅰ、生る目的・生きる事 命をつなぐ事
 Ⅱ、どう生きるか・たくましく やさしさありて たのもしい
 Ⅲ、人生の共通解・私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある
   愛、生命の絆、アイデンティティー、希望、中今
懐疑が感覚的な反抗によるものか、論理的反抗かは重要です。
人は本質的に習慣や形式に一義的に従う保守的なものです。新たな習慣や形式は既存のそれに倣った上で無いと創造できません。言語を通して考える現実、一個の人間としては”初めに言葉あり”人が言葉を理解し受け入れさせられる観念の世界
 --私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある--生命意識の共通解の定理としましたが、真理という言葉は使いません。他者が共感するか、しないか。観念の世界です。しかしながら、現実に即した観念であり、原理です。ピタゴラスの定理を知る私の存在はピタゴラスの存在の証しです。生物的には私の存在は父母や祖先の存在の証明です。同様に、愛する次世代、次々世代の存在は私の存在の証明になります。戦前の思想”家制度”天皇家は万世一系がゆえに尊いという考えが、否、現在も信じて疑わない人がいます。あなたの存在そのものが悠久の時を生きてきた歴史の証明です。貴賤の別はありません。愛とは? 私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある との実感そのものです。
 懐疑の手段として生理現象では極めて薄弱です。勇ましい言葉、新○○、真○○がどれだけ人々を惑わし、虚構に騙されたか。吉本隆明の詩人達への戦争責任は人間社会の原理原則を盾にすべきことです。気分はいかようにも変遷します。
 真○○の言葉が生理的に拒否反応を示します。数学で真の正解とは言いません。書き手と読み手、○○の言葉の意味だけでなく、真に込められた○○の言葉の意味は同一ではあり得ません。理解が違う言葉を読み手が理解すれば、即 言葉の独走、主観的な観念になります。よって、私の主観としての定理であり且つ、他者の懐疑によっても否定できない主観の定理であると宣言します。

文科省の道徳教育で「真理・真実・理想を求め人生を切り拓く」最悪です。稲田元大臣は戦前の教育勅語は道義国家、親孝行とか友達を大切にする、現在に取り戻すべき核の部分である。それは戦前の主権在君、神話的国体観を基礎にした封建社会の道義です。万世一系の天皇制国家、家父長制度の社会、それは天皇を筆頭に男尊の家長を最小単位とした封建的国家の統治道義です。実体がカカア天下であっても家督相続による戸主、家長が権力者であり、一定の税金を納めた戸主にしか選挙権は無かった。女性に人権は無かった。それが真理・真実・理想という言葉で飾る現実でした。道議が建て前ならば、本音は懐疑。現実は服従か反抗です。その時代、親子では父と子供は服従と自立をめぐって対峙します。母親を含めて女性をめぐってもライバル、敵となる宿命があります。一方で息子の嫁ほど可愛いい存在でもあります。

三木
懷疑は知性の一つの徳です。懷疑すら神秘化され、国家神道の宗教が生ずるまでに至っている。あらゆる神祕を払いのけることが懷疑であるのに、懐疑は独断にされています。反対に、如何なる懷疑も懷疑であるという理由で容赦なく不道徳として断罪される独断になっています。・・・
 懐疑家は論理を追求する。しかし独断家は全く論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。独断家は知性の敗北主義者である。彼は外見に現はれるほど決して強くはない、彼は他人に対しても自己に対しても虚勢をはる必要を感じるほど弱いのである。・・・
 精神の習慣性を破るものが懷疑である。精神が習慣的になるといふことは精神の惰性を意味してゐる。懷疑は精神の惰性を破るものとして、惰性に対する知性の勝利を現はしている。不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり、結果であつて、端初としての原理は不確実なものである。懷疑は根源への關係付けであり、独断は目的への關係付けである。理論家が懷疑的であるのに対して実践家は独断的であり、動機論者が懷疑家であるのに對して結果論者は独断家であるというのが常であることは、これに依るのである。しかし独断も懷疑も共に方法であるべきことを理解しなければならぬ。肯定が否定においてあるやうに、物質が精神においてあるように、独断は懷疑においてある。すべての懷疑にも拘らず人生は確実なものである。なぜなら、人生は形成作用である故に、単に在るものでなく、作られるものである故に。

 三木清 1897 - 1945  和辻哲郎 l889-1960   吉本隆明 1924-2012
ジャン=ポール・サルトル1905 - 1980
アドラー 1870 - 1937 共同体意識
 フロム  1900 - 1980 愛は技術である
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歎異伝 人生論ノート 三木清 (2) 幸福について

2017年09月14日 | 歎異伝
歎異伝 人生論ノート 三木清 (2) 幸福について
since2017.9.2

青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html

 幸福について 三木は「幸福とは人格である」としています。人格に特別の意味を与えています。「人格」を少し調べると三木の師に当たる西田幾多郎が倫理「善の研究」の中で「善とは一言にていえば人格の実現である」としています。しかし、残念ながら私の嫌いな言葉、真理や真の○○が使われています。真理や真実は真で修辞しなくても理(ことわり)、事実で十分です。真の真は問答無用の押しつけ論です。幸いにも未だ三木清には見い出していません。
私達は生きるために衣食住が必要であり、命をつなぐための異性との生活が必要です。
肉体的な生活が、(生る目的)-生きる事 命をつなぐ事-とするならば、群生動物である人間の肉体的、且つ精神的な生活は、(どう生きるか)-たくましく やさしさありて たのもしい-です。
 純粋な精神的生活は(生命意識の共通解)-私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある-を知識だけで無く、人生経験の中で体感を重ねる事で人間性、人格は成熟します。三木清と同世代のエーリッヒ・フロムは「愛する」ということは技術として身に付ける必要がある、愛するには成熟した人格を必要とする。と 人間は赤子から順次成長して人格を得ていきます。
  幸福とは命の燃焼、歓喜、情緒の状態であると言えます。一方でランナーズハイのように苦しさの中でも快を得ます。労働の充足感、安息感、創造の過程、達成感。記憶が正しければ近江商人の心意気、千両天秤「山高ければ 高きをもってよし  道遠ければ 遠きをもってよし  坂険しければ 険しきをもってよし」
 今、現在が困難な状況であっても、希望があれば、幸せにむかって努力することが、幸せになります。健康な状態です。逆に、気力が萎え、現状に打ち砕かれれば不幸と言えます。鬱病とまでいかなくても、自己崩壊、自信喪失などに伴いプラス思考からマイナス思考に落ちいれば不幸のど真ん中です。
 生きるのがつらいと感じても自分を信じて耐えるか、逃げれば、新しい展望や希望が開きます。
 人間社会主義 テーゼ2、たくましく、やさしさありて、たのもしい。
(高倉健)あなたに褒められたくて が人生の一大事です。人が心に想うことは誰にも止められない。 自由が必要です。親兄弟、伴侶友人、社会の中での幸福。本能リピドーは性的欲動だけでなく強力なエネルギーの根源です。

 幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。・・「幸福は肉体的快楽にあるか精神的快楽にあるか、活動にあるか存在にあるかといふが如き問は、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。かような問に対しては、そのいづれでもあると答へるのほかないであらう。なぜなら、人格は肉体であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。そしてかかることは人格といふものが形成されるものであることを意味している。
 今日の人間は幸福について殆ど考へないようである。試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が国で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。只の一個所も幸福の問題を取扱つてゐない書物を發見することは諸君にとつて甚だ容易であろう。かような書物を倫理の本と信じてよいのかどうか、その著者を倫理學者と認めるべきであるのかどうか、私にはわからない。疑いなく確かなことは、過去のすべての時代においてつねに幸福が倫理の中心問題であつたということである。・・・
 幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。今日の人間もあらゆる場合にいはば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剩に苦しむともいはれている。その極めて自意識的な人間が幸福については殆ど考へないのである。これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴附けている。・・・
私は考える。今日の良心とは幸福の要求である、と。社會、階級、人類、等々、あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が抹殺されようとしている場合、幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか。
 幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考へねばならぬといふのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に對して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであらうか。
 愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であつたのでなく、反対に、彼等は幸福であつた故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犧牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。・・・
 幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも氣樂にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じやうに彼自身と一つのものである。この幸福をもつて彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
 機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現はれる。歌はぬ詩人といふものは真の詩人でない如く、単に内面的であるといふような幸福は真の幸福ではないであらう。幸福は表現的なものである。鳥の歌ふが如くおのづから外に現はれて他の人を幸福にするものが真の幸福である。


義務教育で道徳が教科化されます。文科省の道徳の目的は、道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め,道徳的実践力を育成するものとする。幸福に関しては 世界の平和と人類の幸福に貢献する。或いは、私達の道徳 小学5、6年生
(5)家族の幸せを求めて 家族に見守られて成長してきた私
 どんなときも 私を信じてくれている。どこにいても 私の心を支えてくれる。私の家族。大切な家族のために 私は何ができるのであろう。ときには「うるさいなあ」と想うこともある家族の存在。でも、これからも かけがえのない自分の居場所であり続ける課程。大切な家族とのきずなをより強いものにし 家族みんながもっと幸せになるように 私にできることがきっとあるはず。

 なぜ 個人の幸福と言わない。言わせないか? 個人の幸福は人権尊重が前提です。そして、個人の自信自覚自立を学校などの社会の中で学ぶことが肝心です。
 個人を倫理規範で固め、郷土愛、愛国、伝統を重視する道徳は くそくらえ

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歎異伝 人生論ノート 三木清 (1)死について

2017年09月12日 | 歎異伝
since 2017.8.16

初めに
 人生論ノートを知ったのはNHKの100分で名書でした

人間社会主義の定理として
Ⅰ、生る目的
  生きる事 命をつなぐ事
Ⅱ、どう生きるか
  たくましく やさしさありて たのもしい
Ⅲ、生命意識の共通解
  私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある
(愛、生と死、永遠の命の絆、アイデンティティー、希望、過去現在未来、中今)

を掲げました。65年の人生経験から見いだした定理です。少しでも理解を深めるため、哲学者である三木清にあやかれば理解が深まるかなと期待を込めて考えます。

青空文庫 人生論ノート 三木清
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html

1、死について
 生る目的は 生きる事 命をつなぐ事です。それ以上に何かあると考えることは出口の無い迷路に迷い込みます。これはDNAに込められた生命体の設計図です。死の恐怖は根源的な負の衝動、決定的な衝撃を人に与えます。「死後」を自分が死んだ後の現世では無く、恐怖心、不安から自分はどうなる?を考えれば不毛の議論に陥ります。
 経験や知識で乗り越えるか?宗教を帰依するか?親や祖父母、その又、親が死んで逝った悠久の歴史の世代がありました。世代交代の中に私達は生きています。そして、未来はこの延長にあります。私達を愛し育んだあなたが方の文明と伴に現在があり、私達が愛し育んだ子や孫が今の文明と伴に引き継ぎます。
-私がある限り貴方はあり、貴方がある限り私はある-

 三木清
「近頃私は死といふものをそんなに恐しく思はなくなつた。」
「愛する者、親しい者の死ぬことが多くなるに従って、死の恐怖は反対に薄らいでゆくように思はれる。生れてくる者よりも死んでいった者に一層近く自分を感じるということは、年齢の影響に依るであろう。」

  生きる気力を失った死を迎える老衰の心境のようである。原民喜は愛する妻を亡くした後、広島原爆の地獄と飢餓の体験で民喜の繊細な気力は自死へと向かった。

 「深く執着するものがある者は、死後自分の帰ってゆくべきところをもつている。」
 「私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。」

三つ子の魂百まで と言う言葉が有りますが、残念ながら私の記憶は1年制の幼稚園からです。しかし、50年も前に無くなった祖父や父の記憶はその時のままですが、それ以後に私が生きている瞬間毎に何か判断する時、祖父や父ならばどういう反応を示すかが瞬時に流れます。私の人格の一部としてあります。伝統や過去の問題ではありません。今、私が生きているということです。

 生る目的が 生きる事 命をつなぐ事であることは、この世の一部の人では無く、総ての人が等しく生きる権利を持つことを意味します。当然、幸せにです。
 死ぬな 病いだ そんなに苦しければ逃げよ 疲れたら休むがいい
  こだわるな 自分の人生を歩む それが一番
 一度の人生 人が生きると書いて 人生 一度きりのあなたの命 

 死後を現実の生者の世界では無く、死後の別世界を考えることは不毛です。生者が考える死後は現世で想像する死後でしかありません。受想行識の受 死は感覚器官が刺激を受けませんから、想行識もありません。死ねば想うことも考えることもありえません。たとえ死後の世界、別世界があったとしても、先に逝ったあなたを愛する圧倒的多数の人々がいい世界にしています。
 亡くなった家族友人に供物を捧げる習慣があります。心情の問題ですが、もし逝った先祖、祖父母等にお供えするならば、それ以上に身近な老人に供物する方が供養になります。現世では現世の間に供養しましょう。もし、あの世があったとしたら貴方より先に逝く可能性が大ですし、合う可能性もありです。

 一遍を愛した仏教詩人 坂村真民
 わたしは墓のなかにはいない わたしはいつもわたしの詩集のなかにいる だからわたしに会いたいなら わたしの詩集をひらいておくれ ・・・
  念ずれば 花ひらく
 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを
わたしもいつのころからか となえるようになった そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった



 CRAZY KEN BAND タイガー&ドラゴン
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