愛と自由に満ちた幸福な生活は公平であるべし、人権・平等・平和が生きる人の権利

原理  愛 ・公平・自由
原則 人権・平等・平和
命をつなぎ、知識を伝へ発展した文化・科学
人々の想いを伝承

生命体としての存在論 2、自由と愛

2022年09月16日 | 生命体としての存在論
2、愛と自由  頭の中にたまった叙事叙情として

 生命体としての愛と自由を考えます。
 存在論として唯心論や唯物論があるならば生命体としての存在論もあり得ます。
生物学が自然科学として、人類の歴史及び生命存在を証すならば、第一の定理”生きること、命をつなぐこと”が生命体としての永続性を保証する原理です。そこには生存と命の継承が絶対である生物界の掟があります。今日では過酷な生存競争を文明として覆い隠し、残酷さ、冷酷さをオブラートに包む文化が確立してきました。少なくとも生物界の中での人類の行為を善悪で一刀両断に断じ、ゴッドとサタン或いは、福は内鬼は外に2分する世界観は不合理です。歴史として総ては人間の為せる生業であり、総ては自身が受け継ぐアイディンティーです。
 第二の定理、”私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る” As far as I am,you are here. As far as you are,I am there. 略して AS FAR YOU`RE
 これは生命体の存在論として成立します。生物は生命の設計維持情報、生活情報としてのDNAだけで無く、人類は文明文化を次世代に継承し発展させる知恵を身に付けました。ピタゴラスの定理やアルキメデスの原理は数学や物理の科学情報として伝承されています。
 生命体としての存在は生命誕生からの歴史であり、人類誕生からの歴史があります。言葉は言葉として存在します。しかし、それが科学のように実態を伴なわない観念論が虚構の存在として成立してきました。その中でコミュニケーション全体としての言葉は様々に発達誕生し、文明文化を作り上げてきました。生命科学は近年驚異的に発達し、大脳の働き、知能や意識の働きが解明されつつありす。文明文化的な刷り込み、アイデンティティの中で育ち成長した現代人とって、美しき虚構と現実のギャップは軋轢を重ねます。
 人間は生命体として本能としての働きDNAの継承だけで無く、文明文化を継承します。生命体が他の遺伝子を組み込むことで突然変異が発生するように、試行錯誤の中で言葉も変異し新たな言葉、芸術の文明文化が出現します。それは、刷り込みによるだけで無く地域や国、時代を超えて先人が残した生きた証が継承、発露します。

 人類史の文化を見れば自由は最近に確立した概念です。じまま(自侭)な行動が拡大すれば他者の行動を制限し、他者を支配する権力構造が発生します。一対一の人間関係で有れば完全な支配服従から、どちらが主導権を握るか?等、対等な人間関係とは?
 自由は権利としての自由 liberty cf:自由の女神the statue of Liberty と個人の嗜好選択の自由 freedom cf:信仰の自由freedom of religion があります。
 自由はフランス革命以来、自由、平等、友愛が文明国家の標語として確立しました。国家や宗教に抑圧されて来た人間にとって人権の確立は希望の時代でした。
 しかし、それ以降も国家による戦争は人間の自由を根底から破戒してきました、自由を守る戦い、自由と自由をめぐる生存の権力闘争は今も続いています。権利としての自由が確保されても、グローバル化とあらゆる物が商品化され、お金を持つ人の自由と持たない人の自由の格差は拡大しています。世界は今、自由主義バンザイの資本主義社会、北欧では個人の自由を重んじつつも高福祉国家の時代になっています。
 産業革命以降の労働者の貧困、悲惨な生活の中でマルクス、エンゲルスの共産党宣言、労働者階級よ団結せよ、は党による権力独占の国家が誕生しました。ロシアのウクライナ侵攻は帝国主義国家との違いは見いだせません。日本が帝国主義戦争で敗戦してすぐに、東西対立の戦争が朝鮮やベトナムで宗教や石油資源も含め戦火は絶えません、生産の貧しさゆえに人類の原始共産社会は群社会として生活する時代が長く続きました。
 私は原始共産社会を信用しません。現代社会に順応できず、疎外されドロップアウト、或いはニートの若者を想起します。原始共産時代は若者にも個人の尊厳と平等の概念が有ったのでしょうか?食べる事で一杯の生活では”掟”はあっても人権は望外のことです。共同体の掟に従順で無ければ生きて行けません。
 プロレタリアート独裁は共産党独裁であり、権力支配は個人の尊厳、平等よりも支配維持が中心のドグマです。原始共産制のドグマから知識人階層を一掃したカンボジアを思い出します。
 好戦的なボス社会のチンパンジーや平和的なメス主導のボノボとは違った一夫一妻を発展させてきた違いが、メスの発情の違いである知識がエンゲルスに有れば違った方向に歴史は進んだかも知れません。人類が性を秘事とすることで一夫一妻を維持する文化を構築してきましたが、性の多様性と人権意識の高まりの中で事実婚、契約婚の時代が始まっています。過去の婚姻制度の中でも15の法則として夫の子供では無い確立が15%も有ったと言う報告があります。不妊、妊娠しない原因は男女50%のようです。生命史の流れはy遺伝子が対で無いため補完されすに短くなってきているようです。

 個人一人一人に人権があり、人権と自由は並立して共存します。気儘な自由は愛も自分勝手な愛で満足します。つまり、自由と愛は人権があって初めて担保されます。個人への権力の集中を排除することが民主主義です。一人一人の人間に人権があるならば、相手の人権を認める必要があります。弱い立場の人に対する接し方にその人の人権意識が表れます、差別の根源は弱者に対する自己の苛立ちの解消であり、侮蔑で自己の優位を満足させる浅ましい根性です。
 国家の憲法としての3原則、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義が成立します。世界が確立すべき原則は -平和、人権、平等- です。
 その前提として人類が持つべき生命の原理は -愛、自由、フェア(公平)-です。
 政治制度として民主主義になりますが、残念ながら日本、とりわけ大阪の新自由主義の台頭と伴に、自由と民主主義の根本的なはき違え、選挙で勝ったもん勝ちの権力指向は国政でも国会軽視、公文書改ざん、モリカケ桜、やりたい放題と多大な影響を与えました。
 文句があるなら貴方が首長になればいい。古い発想ですが、もとより多様性のある個人の人権、自由を尊重し、妥協を計りながら多数の幸福に寄与するための民主主義が多数派による専制政治に貶めました。権力の独占を排除するための3権分立、国権の最高機関は国会のはずが内閣専制の状態です。
 選択的夫婦別氏制度は外国ではそれが普通のため、日本人と外国人の結婚では認められていますが、日本人同士では認められていません。多様性を認めない政治は個人の自由の侵害、人権軽視あり、民主主義を否定する政治です。

 日本の戦前までの家父長制度では自由は有ったでしょうか?家長が権力を持ち家人を支配していました。しかし、家長が自由であったとは必ずしも言えません。権力支配システムの歯車の役割を担う役割に縛られていました。人は共同社会の中での役割を担って生活しています、役にたって初めて生活が成立します。軋轢を嫌って出家遁世、出奔、逐電、駆け落ち、家出などの様々なパターンがありますが、現代では人権の確立と伴にかなり自由度が上がっています。逆に孤立する自由としてニート引きこもりで生活できる社会問題もあります。
 自由が幸福の一つの重要なな要素であり、貧富の格差の中でお金が自由を計る尺度としても、お金の量が幸福の決定的な要素ではありません。お金を至上とする守銭奴から、お金を稼ぎ、維持することが生活の主題になれば逆に自由の質は落ちます。或いは、8時間労働から1,5倍の12時間労働で収入が1,5倍になったとしても自由の質は落ちます。
 日本では自由な働き方、改革等が正規、非正規労働での格差を拡大しています。しかし、格差の拡大縮小は分配の問題であり政治の問題です。江戸時代、江戸っ子は宵越しの銭を持たない粋の文化、江戸の掛け売り文化、一説では盆暮れの年2回の殿様支払い、無い袖は振れない生活を楽しむ文化もありました。
 リバティーの自由が問題とされるのは文化、政治、宗教等による抑圧であり、規制です。近代になって確立された個人の尊厳、人権が疎外され抑圧されることです。そして、自由が自我の欲求とするならば、愛も対象を大切にするという自己愛、親子愛、兄弟愛、夫婦愛、共同体愛などいづれも自我の維持拡大でしかありません。自然界の動物が子育てに必死な姿は人間も行う同じ行為です。鳩の親が子の面倒を見、カラスに襲われそうになれば体を張って防ごうとする本能は人間も同様です。
 赤子が快不快の自己主張で養育する母親からの愛を受けることで成長します。そして、文化の伝承の中で、時代や場所に制約された自由や愛を学び、時代の継承者になります。社会への反発反抗はアウトローとして疎外され、その社会の文化を受け入れ順応して初めて成人と認められます。現代では個人の人権がかなり認められる時代になりました。しかし、未だに組織の中で長老ががマウントを取るピラミッド構造が残っています。一部の村社会や体育会系クラブ、お笑いや芸能の世界、ブラック企業での人権侵害です。DVや幼児虐待も他人を自己と同様に敬重すべきという人権意識と自制心の欠如です。自らもその不合理に耐え、今が有る思い上がりです。アダルトチルドレン症状と役得意識です。父母を敬い従う、文化を継承する。幼児児童の自我の拡充のママに成長した証です。それは何代にも渡る長い支配と従属、隷属の人類の歴史の中で継承されてきました。この反省、批判無しに薦められる道徳教育の教科化はオシツケでしかありません。上から目線、父母の愛に感謝し、協調性、同調性が求められ、社会秩序の継承維持の道徳学習に反発と抑圧を感じます。子供にとって大人に成長する最重要課題は人権尊重や多様性の承認です。子供に対しても人として自分と同様に接する。それが民主主義の根幹です。
 学校での体育で、集団行動とは日体大のアクロバティックな行進が代表する集団行動になっています。組体操よりも危険が少ないことで小学高学年より取り組みが有ります、集団の中での規制された様式美を求めた統一行動です。美しさと難度が求められる程に個人の人権、多様性を認める教育から排除される生徒が多くなります。それは民主主義の教育では有りません。多数の生徒の運動能力の正規分布の中央値に合わせる困難さは、指示命令に従う従順さと努力が必要になります。それが共同社会での生活で暴走しがちな自我を自制する訓練につながるとは思いません。集団として運動能力に多様性ある教育現場で助け合う行動が無ければ、大戦末期の個性無用の社会になってしまいます。多様性を認める教育は協調性や同調性の圧力では無く、違いを認め助け合うことに美しさを見出すグラデーションの様式美が必要です。
長くなりすぎたため表示上 分割します
続く


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生命体としての存在論 2、自由と愛 続編

2022年09月16日 | 生命体としての存在論
 自由や愛は自我の延長線上にあるだけで無く、自我の次元を超える自由や愛もあります。”生きる目的は生きること、命をつなぐこと”、そこに人生があり、過去の惨事を含む人類の歴史を受け入れることが可能になります。世界は善悪の無い自然社会です。人類は遺伝子DNAだけでなく大脳新皮質の発達で獲得形質や知識、たゆまない文化の創造によって時代は進化します。知識の蓄積だけで無く、法を作り、人権を発見しました。では今を生きる人間に何が必須か?
 初めに自然との共振調和、そして他者に共感する能力、共鳴する能力です。それは第一に他者と自己は同じ人間であるとの発見”気付き”が必要です。同じ時代の同じ地域、民族、国だけで無く、過去に生きた人々も含めた”気付き”です。幼児児童の成長の段階では未発達です。自我に目覚、確立する思春期前から学ぶ事が可能です。否、残念ながら成年、老年であってもエゴイストは大勢います。ここで言う自我の確立は他我の存在を自己と同等に認める社会性です。優越感や差別意識、劣等意識を排除して対等な人間として接することができる自我の確立、自己承認です。それが愛の目覚です。
 恋愛は愛を学び人間として成長する最大の機会です。私は男性ですので男性の立場であり、自分の生きてきた世代でしか論じられませんが、愛は性の目覚めと伴に自己の独立を促し、相手を選択します。集団の中で最も自分に合ったより良い相手を対象にします。或いは、自分に叶った相手を次善に選択します。出会って時間の経過は有っても恋に落ちるのは一瞬の直感です。日々あふれ出る精子と男性ホルモンが相手を求めます。しかし、単純な性的衝動とは違います。生物として最高の相手を選択する本能、よく言えば極めて人間的な欲求である理想を求める心です。自己中心の考えから他者に心を開いて行くことです。それは友達を選び仲良くなるのと同様に、人間として一緒にいる事が楽しく、自分の総てを理解してくれる、総てを相手に知って欲しい、或いは相手をより知りたいという熱情になります。それは有性動物としての片割れ、欠陥を補う相手、二人一組で一人前を見出す人生最大の喜びになります。
 しかし、世の中は相性の良い優れた相手は他者にとっても良い人になります。ライバルの存在です。或いは、すでに別の相手と良い関係にある人ほど美しくも見えます。百人百様、関係の継続は自己喪失の相手になる場合もあり得ます。相思相愛という考え方があります、相手がどう思っているかは厳密には不確実の中で恋心は募ります。相手が対象を求めていなければ不成立に終わります。男性が自我の独立を促されるのと同様に、女性も自我の独立を求められます。白馬の王子様を求める女性の心情には、自分が男性を愛するよりも男性から愛されたい気持ちが勝っています。これでは相思相愛の関係では有りません。愛されるから愛する、条件付きの愛情です。愛されていないと感じれば自動消滅する愛です。変な男には引っかかりたく無いという防御意識が強ければ恋愛経験は成立しません。当然、男性も変な女性に引っかかりたく無い意識があります。これでは恋愛は進展しません。白馬の王子様は単に強引な男性であり、持てる王子かダメ男の違いを選んでいるだけです。
 相手を独占する、嫉妬で相手を困らせる。それは相手を愛しているよりも玩具屋さんの前で駄々をこねる幼児と変わりません。エゴの拡大、他者に依存する自我の喪失です。
 フロムはThe Art Of Loving (愛するということ)で失敗という経験と人間的な成長の中で愛することを学ぶことができる。wikiでは失恋とは恋する相手への気持ちが成就しないこと。また、恋愛が何らかの形で終止符を打たれることである。としています。
 恋愛は失敗という経験を重ねて初めて成就します。失敗を重ねることで人間は成長し恋愛も成就します。未熟な青春の恋愛は自己を内省して相手を人として愛しているのか?性の欲求が満たしたいから?の自問自責があります。相手の笑顔、喜び歓喜が至上で有るならば、相手を一人の独立した人間の意思として尊重すべきです。それが相手に対する愛です。ここに告白による失恋を恐れない姿勢が生まれます。失恋を悲しむ必要は無い。あなたを想う我が愛は不滅の愛。機会が有ればまたその時に・・・失敗の原因は何だったのか?
 心を閉ざした孤独な少年が街をさまよう かわいい少女が少年に微笑む
 なぜ 独りで目的も無く歩くの? 目を開けば美しい世界があるよ
 孤独な少年は街に出て歩みを止める 美しい眼差の少女が少年に微笑む
なぜ 私を見つめるの? 見つめるだけでは私のことわからないでしょ
心を開いた少年が語りかける やさしい少女は次々変わる話題に付き合う
なぜ 必死にしゃべろうとするの? 二人で静かに歩くのも楽しいよ

 恋愛では、花よ蝶とおだてられる存在は、自分自身も魅力ある人間として成長する必然性があります。色付き始めれば少年少女は身心共に青年に成長しなければなりません。選ばれる人となるために体を鍛え勉学に励むと共に人間としての魅力向上に励む必要があります。しかし、心の成長は現代の教育システムの中で早熟が好まれない現実があります。また失敗の恐れや自己主張の弱さから身心の成長に追いつかない未成熟な自我の精神年齢があります。恋せよ乙女、恋せよ男(おのこ)
 いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 褪あせぬ間に
 熱き血潮の 冷えぬ間に あすの月日は ないものを

 蓮如が80才オーバーで3人の子供を儲けた逸話は高齢の男性にとって希望のトピックですが、若さの魅力は中年と伴に枯れます、人間の魅力は人間力です。米国の大統領リンカーンの人間力の3名言。
 40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持たなくてはならない。
 世には卑しい職業はなく、ただ卑しい人があるのみである。
 他人の自由を否定するものは、自ら自由を受けるに値しない。


 人間の魅力、情感知性の表現たる表情は若さの青い魅力もあれば熟成、完熟の魅力は老年になっても発揮します。年の功、人生を経験する中で美しさを減ずることは残念でなりません。久しく少子化が言われる日本で晩婚化、生涯独身という悲しい現実があります。無論、性的マイノリティを否定するものではありません。個人の尊重は多様性の尊重であり、自由と人権の根源です。苦労の中で希望を失わない生活が人間的な魅力を高めます。
 私は優しく控えめな男性が日々の生活の多忙さの中で、性の商品化の中に甘んじて、女性と接触する機会が極端に無いのではと危惧します。それは日本の貧困な文化ですが、女性にも当てはまります。
 日本ではロマンティック・ラブの先駆けとして19才で大恋愛の末に結婚し、人生を駆け抜けた天才、北村透谷がいます。”恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を引き去りたらむには人生の何の色味かあらむ。” 恋多き透谷が愛した教え子、富井まつ子の死の翌年、明治27年25才で自死、
=厭世詩家と女性=青空文庫より  https://www.aozora.gr.jp/cards/000157/files/45237_19755.html
 大正時代には恋愛至上主義として、厨川白村が 人間の燃ゆるが如き情熱と感激と憧憬と願望との白熱化した結晶とも見るべき恋愛には、悠久永遠の生命力がある。生きる事それ自らが人銘々の芸術である。そして恋愛は人間が全我的に全人格的に、最も力強く最も美しく生きる事である。恋愛結婚至上主義
 file:///C:/Users/fusako/Downloads/5011_0092_07%20(2).pdf より
 日本も戦後はロマンティックラブから結婚が主流の時代ですが、フランスの実存主義哲学者”実存は本質に先立つ”ジャン=ポール・サルトル 1905年~1980年74才没と第二の性”人は女に生まれるのではない、女になるのだ”で有名な同シモーヌ・ド・ボーヴォワール 1908年1月ー1986年4月 78才没、25才と21才の二人は”僕たちの愛は必然的なものだが、偶然の恋も知る必要がある”自由恋愛を互いの報告義務で認めた子供は作らない2年間の契約結婚の自動延長、事実婚のさきがけでした。男としては日常的に性愛の相手を確保しつつ、時には自由恋愛を謳歌する夫妻ですが、精神的経済的なタフさ必要です。なぜなら男性が日常的に性愛の相手を確保する時間と金銭の負担は非情な能力が必要です。サルトルは浮き名を流しましたが、シモーヌはアラフォー以降に2人の男性との性の目覚めを公表しています。
 私は20歳なのだ。私は、今、初恋を生き、これが私の初めての旅行なのだ。 私のすでに古びたいのちで、私は愛する男のために、幸福をつくりだしているのだ、なんという幸福だろう!  彼の欲望が私を変貌させた。あのように長い間、嗜好もなく、形態もなかった私が、再び両の乳房を、腹を、性器を、肉を所有したのだった。
NHK100分で名著上野千鶴子解説 ボーヴォワール老い(3)老人と性より、

 フランスでは恋愛とは性愛のことだった?と思うほどですが、恋愛が人間の睡眠、食、性の3大欲求の男女の性、生殖に向けたパッションの動機付け、恋愛の二人が一緒にいれば自ずから性愛に移行する経過です。日本では恋愛から性愛に移行する壁が高く、結婚による性交が許される古い文化ゆえ?TVで不倫が盛んに糾弾されます。
 しかし、ボーヴォワールの性の目覚めがアラフォーであったように、性の解放は女性が男は狼という偏見や、純潔貞潔、旧来の生殖の性という考えでは成立しません。男女ともに性を求める存在であり、相思相愛の愛し合う性、性愛と恋愛は単独では孤独で不安定な人間に絶対の自信と人間愛を目覚させます。場数を踏まなければ学習できない恋愛ならば、社会の中で唯一無二の恋愛を成就させる事は不可能に近いことです。大恋愛の末に19で結婚した透谷は、24才で別の恋愛に狂いました。相手に許容されるかは別問題ですが、性的な相性で交歓可能な人は多数存在します。
 他者に対する警戒からの解放、自己の総てをさらけ出す自由、自己の総てを受け入れる他者の発見であり、喜びです。それは逆に他者の総てを受け入れる寛容の心を育て熟成させます。死とも向き合う生存の厳しい人生の中で絶対の自信と歓喜の存在の発見です。そして、オンリーワンを選ぶ選択は数多くの経験によって劇的なパラドックスが発生します。
 私は自由だ!相思相愛は不問、貴方は愛される存在です。貴方を愛すると言う絶対の自信、幸福が私には有ります。貴方とどう関係を結ぶか、貴方がどう思うかに拘わらず、貴方は私が愛する存在であり守るべき存在です。ブラボー オー マイラブ!
 鳴海仙吉の一節に、ゲーテの植物学者としての不朽の功績は、一個の花が一本の枝の変形であることを証明したことであった。花が開き、雌雄がそこに交わり、虫と鳥を誘い寄せるのは、植物それ自身の肢体の一部の転生であること。存在する我以外の何ものも花咲くことができる筈がないことを芸術家ゲーテが知っていた。
 人が他者を愛するのは他者を愛する己が性ゆえです。人生の多くの経験は広汎な他者を愛し、若さを保ち自らを磨き成長させる力を発します。それが生命の躍動であり。愛と呼びます。
 I Love You Forever,Transcend Time and Space.
 時空を超え、永遠に貴方を愛している
 私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る。
 As far as I am,you are here. As far as you are,I am there.
略して AS FAR YOU`RE



追記
 女性の性は男女差別、フェミニズム女性解放、性の解放は男女同権の中で男性自身の抑圧も解放します。女性は妊娠と直結するがゆえ臆病になりがちですが、感染症、ピルやゴムが普及する今日、恋愛が技術で有るように性愛も経験を重ね無ければ上達しません。未熟な気の合う若者同士が一歩踏み込めず破局するよりも、失敗を覚悟のしてチャレンジすべきです。経験した上で破局する方が勉強になります。女性が自己主張の強い男性を白馬の王子と勘違いする失敗もあります、男性に依存する弊害です。少子化の中で日本の人工中絶件数が年間14万件を超え、DVや離婚はその証です。2人が共同生活をする上での自制心の涵養は必須です。SDGsが重要な課題であるように少子化に向かう社会は病んでいます。生殖につながらない性が否定される社会、隠ぺいされる性に問題があります。性欲が否定され、商品化される性が孤立化を進行させています。性暴力は他者の自由が欠落した異常事態。性欲が分別する心を占有した結果です。してはいけない自制のルールの大甘か自制心の欠落です。不思議なのは社会的成人がスカートの中を盗撮する冒険です。ペナルティが大きすぎます。余りにも自暴自棄な行為です、ことに夢中になれば我を忘れる男の性を知るべきです。
 純潔、貞潔を訴える保守層が性を棄損しています。性交の知識も教えられない貧困な学校での性教育と性の商品化が共存しています。愛を訴える宗教が二人の恋愛に干渉、或いは宗教団体が性を管理しようとする旧体制維持の存在は異常です。
 社会的に成人として認知される年齢の高齢化に伴って晩婚化が進んでいます。中高生の時代は性を抑圧され、以後も溢れる性の商品化情報の中で健全な二人の関係の構築が疎外され、お一人様の生活に慣れていきます。蓮如は80才代で3人の子供の父親になりました。難行苦行に耐える延暦寺とは違った超人性を称える?日本人のHの回数と満足度では圧倒的に外国に遅れを取っています。考えて見れば、昭和の男性は長時間労働と慢性的な睡眠不足で熟睡を得るためのHでしか無かったのかと疑います。住宅の狭さや子育ての中で、性愛が軽視される風潮が未だ未だ残っています。共働きと核家族化の中で家電製品の普及で家庭労働の軽減化が進んだとは言え、女性の負担は重く、子育て世代では夫婦生活より子供が中心の生活になりがちです。これも古い考え方と言えます。
 家庭の縛りによる人間疎外から、恋愛フリーの意識は相手ができるできないを別にして性の解放は人生を楽しく謳歌させます。しかし、家庭を守る意識は真剣であればあるほど危険に近づかない意識、外では美しい花を真剣に見ない抑制が生じます。抑制と感じない夫婦関係の構築が重要です。ある意味人生は長いと感じることが有っても、学業や仕事で過ごす時間は限られています。一時はそれに集中することも必要ですが、自分の生活を豊かにする時間を確保する事が前提です。しかし、努力が抑圧と感じないので有れば大きな意味と希望があります。
初稿2022-09-16 修正 2022-09-22

 3、宗教の未来形 百年後 千年後のカタチ 革新的変革
をアップしました 2022/10/30 画像クリックで移動

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