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知らなかった名作曲家・貴志康一:交響曲「仏陀」

2023年01月14日 22時21分27秒 | 日常のこと&写真
 今朝、驚きの発見をした。
 音楽にはかなり詳しいと思っていたが恥ずかしながら、我が国に18世紀に名を連ねる天才作曲家と肩を並べるほどの天才作曲家であり名ヴァイオリニストが居たのだ。
 我が国のクラシック作曲家といえば、知るところでは滝廉太郎、古関祐而、伊福部昭、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎などが頭に浮かぶ。だが、大阪生まれの夭折作曲家「貴志康一」がいたのだ。
 「貴志康一」はウィキペディアによれば、1909年3月31日生れ、1937年11月17日(28歳没)。甲南高等学校高等科中退(1926年)、ジュネーヴ音楽院卒業(1928年)、クラシック音楽を専門とし、作曲家、指揮者、ヴァイオリニストとして活躍したとある。
 今朝、BSテレ東(8時30分~)放映「エンター・ザ・ミュージック」で、貴志康一作曲の交響曲「仏陀」を関西フィルハーモニー管弦楽団が演奏。朝食をとりながらだったが箸が止まった。モーツァルトらが活躍した18世中期の名作曲家にも劣らぬ、4楽章からなる本格的交響曲「仏陀」の演奏。
 食事の手を止めて聴き入った。現代クラッシックは、理解しにくい前衛的なアングラ的なものが多く18世紀時代のクラシックをどうして作曲できないのだろうと落胆していたところがあった。
《ウィキペディア》
 貴志康一氏は、母の実家である大阪府三島郡吹田町(現在の吹田市)の仙洞御料屋敷西尾邸に生まれる。父方の祖父は代々式部卿を務め、後にメリヤス業で成功した裕福な大商家である貴志彌右衛門(松花堂弁当の考案者)という環境で育つ。小学校5年生の時に、芦屋市に転居、14歳より、神戸市の深江文化村でミハイル・ヴェクスラーに直接ヴァイオリンを師事。音楽理論と作曲法を当時、宝塚交響楽団の指揮を務めていたヨーゼフ・ラスカより学ぶ。16歳の時に、大阪で、ヴァイオリニストとしてデビュー。旧制甲南高等学校を2年生の時に中退後、ジュネーヴ音楽院に入学し、優秀な成績で修了。19歳より、ベルリン高等音楽学校でカール・フレッシュの教室に在籍。1929年、1710年製のストラディヴァリウスを(当時の3000円=現代の6億円で父親貴志弥右衛門が)購入。三度のヨーロッパ留学の中でも、特に1932~35年のベルリン滞在時に作曲家・指揮者として活躍し、1935年3月、ドイツテレフンケン社に自作作品19曲を貴志自身の指揮でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と録音。またフルトヴェングラーとも親交があったことで知られる。ヴァイオリニストから作曲・指揮者に転向したと言われるが、作曲・指揮活動で多忙になってからもヴァイオリニストとしての活動も諦めてはいなかった。1935年に帰国した後は指揮者などとして活躍するが、1936年に虫垂炎をこじらせ、1937年11月、腹膜炎の為、28歳で死去した。
 1936年には3回日本でベートーヴェンの第九を指揮している。その内の1回は新交響楽団(現NHK交響楽団)2月19日146回定期演奏会におけるものである(日本初の暗譜指揮による「第九」演奏)。
 湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞の後の晩餐会の時に、貴志康一の楽曲「竹取物語」が流れたと伝えられている。
《代表曲》
 交響曲「仏陀」(4楽章)、大管弦楽のための「日本スケッチ」(市場、夜の曲、面、祭り)、大管弦楽のための「日本組曲」(春雨、祈り、道頓堀、淀の唄、花見、戦死)、ヴァイオリン協奏曲、舞台音楽バレエ曲「天の岩戸」(全2幕)、オペレッタ「ナミコ」(シュレーダー・シュロムの脚本による。全3幕)、室内楽曲「ヴァイオリンソナタニ短調」、ヴァイオリン曲「竹取物語」「黒船」「スペイン女」など10曲以上。歌曲「かごかき」「赤いかんざし」「八重桜」「富士山」など14曲以上。自作の詞による作品が多い。


小松/都響:貴志康一:交響曲「仏陀」
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