私の母は、昔から、人生の節目節目で一言メッセージを私に与え続けてきてくれた。
それも、たった一度しか言わない。
しかし、前言をくつがえすことは無かった。
自分の考えを押し付けたこともない。
時には、結婚とは、幸福とは何かを自分はこう考えた、というような言葉。
そして、あとは、できるだけ子どもが親のことを心配しないように配慮した言葉。
親も年をとってきたと感じたときに、さーっとメッセージが届いた。
「老後の蓄えは、すんでいます。私たちの生活の経済的な心配は無用ですよ」
そして....何年前だったろうか?
まだ、介護の心配も浮かばない時だった。さーっとメッセージが届いた。
今から思えば、それが、母の最後のメッセージだった。
「人間は、必ず死ななければならない。自分で生活できる間は自分で生活をしていきます。しかし、生活できなくなった時は、家で死にたいなどとは思っていません。
子どもに世話をして欲しいなどと思っていません。重い私の体をかついでお風呂にいれるなどということは、大変で続きっこありません。私は施設に入りたい。それが悲惨なことなどとはまったく思っていません。人間は、誰でも最後はそうなるのです。
大体、私自身も素人になんだかんだと世話をしてもらうよりも、設備の整った施設で、プロに囲まれて世話をしてもらったほうが安心です」
母は、現在、ゆるやかに世界の認知を失いつつある。生活も、お料理もできなくなり、お風呂にもいれてもらわなければならなくなった。まだ、寝たきりではないが、歩行もやっとなので動くのが億劫になったらしく、午前中は起きているが、午後は昼寝をしている。そんな生活になっていた。
隣に住む弟夫婦は、親を思う一心であくまでも自宅で世話をしようとしている。
母は会いにいったら、昼寝をしていたが、私が来たことを知らされて、「どらどら」と、起きてきて、「よいしょ」と言いながら歩いていてきてソファーに座った。そして、にこにこしていたが、涙を流し無言で私の手を握った。
私には、その無言の手の感触が、何か意味あるように感じた。
母は、自分で生きていくコントロール力を完全に失っている。
今なのでは、ないか!母の最後のメッセージを伝えるのは。
そう感じた私は、父の入院の介護で帰郷した折に、思い切って、何も言えなくなっ母の代弁者として、母の最後のメッセージを、弟夫婦に伝えてきた。
故郷から帰ってきて1ヶ月になるが、先日様子を見にいった東京にいる下の弟のお嫁さんから両親の様子を聞いた。
入院中の父の「せんもう」は完全に治り、しゃっきとしていたということだ。一人でスタスタ歩けるようになっていたとのこと。もうすぐ退院とのことで、喜んでいたとのこと。
母は、月、水、金、土と近くのディケアサービスに通わせられることに決まり、9時~16時半まで施設に滞在し、お風呂に入れてもらって帰ってくることになったそうだ。こじんまりした施設で15人ほどの人数で、アットホームの雰囲気のところだそうだ。
昼寝ができなくなって、疲れたと言っていたというが、私は、それでいいのだと思っている。きっと規則正しい生活をして長生きできるだろう。
私は、ほっとした。母のメッセージを聞いた隣に住む弟夫婦が、近くにすぐいい施設を見つけられて、よかった。
母は、弟やお嫁さんからお風呂にいれてもらうことを拒否し、父が入院しからは、唯一弟夫婦の娘、(今年25歳)のみ、世話してもらうことを受け入れていたそうだ。それも、孫娘という認知ではなく、誰か若い娘さんという認知で。
それを聞いて、私は、あの涙と、手の感触の意味のとり方は、まちがっていない、おそらくと、確信した。
弟夫婦は親との家と渡り廊下をつくり、お風呂場も改善工事に入ってもうすぐ工事を終えて父をむかえいれるとのことだ。
いよいよ、親の介護が本格的にスタートする雰囲気満々。
老人介護の要は、自己満足することではない。本人の希望をかなえてあげることではないだろうか?
早くから、希望をはっきりと表明してもらうと、子どもとしては迷いがなくて、助かる。
孫娘に言っていたそうだ。
認知力を失った頭でいっしょうけんめいに。
「私には、たしか、娘が一人いたはずなの。それが、なかなか会いにきてくれないの」
すまぬ。母よ。待っていたのか。おそくなった。
世話を引き受けている弟一家よ。すまぬ。お疲れさま。お世話になります。
それも、たった一度しか言わない。
しかし、前言をくつがえすことは無かった。
自分の考えを押し付けたこともない。
時には、結婚とは、幸福とは何かを自分はこう考えた、というような言葉。
そして、あとは、できるだけ子どもが親のことを心配しないように配慮した言葉。
親も年をとってきたと感じたときに、さーっとメッセージが届いた。
「老後の蓄えは、すんでいます。私たちの生活の経済的な心配は無用ですよ」
そして....何年前だったろうか?
まだ、介護の心配も浮かばない時だった。さーっとメッセージが届いた。
今から思えば、それが、母の最後のメッセージだった。
「人間は、必ず死ななければならない。自分で生活できる間は自分で生活をしていきます。しかし、生活できなくなった時は、家で死にたいなどとは思っていません。
子どもに世話をして欲しいなどと思っていません。重い私の体をかついでお風呂にいれるなどということは、大変で続きっこありません。私は施設に入りたい。それが悲惨なことなどとはまったく思っていません。人間は、誰でも最後はそうなるのです。
大体、私自身も素人になんだかんだと世話をしてもらうよりも、設備の整った施設で、プロに囲まれて世話をしてもらったほうが安心です」
母は、現在、ゆるやかに世界の認知を失いつつある。生活も、お料理もできなくなり、お風呂にもいれてもらわなければならなくなった。まだ、寝たきりではないが、歩行もやっとなので動くのが億劫になったらしく、午前中は起きているが、午後は昼寝をしている。そんな生活になっていた。
隣に住む弟夫婦は、親を思う一心であくまでも自宅で世話をしようとしている。
母は会いにいったら、昼寝をしていたが、私が来たことを知らされて、「どらどら」と、起きてきて、「よいしょ」と言いながら歩いていてきてソファーに座った。そして、にこにこしていたが、涙を流し無言で私の手を握った。
私には、その無言の手の感触が、何か意味あるように感じた。
母は、自分で生きていくコントロール力を完全に失っている。
今なのでは、ないか!母の最後のメッセージを伝えるのは。
そう感じた私は、父の入院の介護で帰郷した折に、思い切って、何も言えなくなっ母の代弁者として、母の最後のメッセージを、弟夫婦に伝えてきた。
故郷から帰ってきて1ヶ月になるが、先日様子を見にいった東京にいる下の弟のお嫁さんから両親の様子を聞いた。
入院中の父の「せんもう」は完全に治り、しゃっきとしていたということだ。一人でスタスタ歩けるようになっていたとのこと。もうすぐ退院とのことで、喜んでいたとのこと。
母は、月、水、金、土と近くのディケアサービスに通わせられることに決まり、9時~16時半まで施設に滞在し、お風呂に入れてもらって帰ってくることになったそうだ。こじんまりした施設で15人ほどの人数で、アットホームの雰囲気のところだそうだ。
昼寝ができなくなって、疲れたと言っていたというが、私は、それでいいのだと思っている。きっと規則正しい生活をして長生きできるだろう。
私は、ほっとした。母のメッセージを聞いた隣に住む弟夫婦が、近くにすぐいい施設を見つけられて、よかった。
母は、弟やお嫁さんからお風呂にいれてもらうことを拒否し、父が入院しからは、唯一弟夫婦の娘、(今年25歳)のみ、世話してもらうことを受け入れていたそうだ。それも、孫娘という認知ではなく、誰か若い娘さんという認知で。
それを聞いて、私は、あの涙と、手の感触の意味のとり方は、まちがっていない、おそらくと、確信した。
弟夫婦は親との家と渡り廊下をつくり、お風呂場も改善工事に入ってもうすぐ工事を終えて父をむかえいれるとのことだ。
いよいよ、親の介護が本格的にスタートする雰囲気満々。
老人介護の要は、自己満足することではない。本人の希望をかなえてあげることではないだろうか?
早くから、希望をはっきりと表明してもらうと、子どもとしては迷いがなくて、助かる。
孫娘に言っていたそうだ。
認知力を失った頭でいっしょうけんめいに。
「私には、たしか、娘が一人いたはずなの。それが、なかなか会いにきてくれないの」
すまぬ。母よ。待っていたのか。おそくなった。
世話を引き受けている弟一家よ。すまぬ。お疲れさま。お世話になります。