天皇裕仁と日大アメフト監督。「絶対王政」という非近代性と個人の消去による全体主義を清算しましょう。
日本を著しく特徴づけるものは、上位者に従うしか生きる道がないと思わせる全体主義=上位下達の集団一致です。
明治維新政府の「天皇現人神という天皇教」(狂気の国家宗教)は、「個人の自由と責任」を元から奪うもので、非民主性・非民主制・非民主政の象徴ですが、その悪しき文化がいまも清算されません。
自民党の憲法案から「個人」という文言が消され「人」に変えられたのは、彼らのもつ全体主義の現れで、天皇・皇室を利用して全国民を一つにしようとするアナクロニズムなのです。
日大部員たちが証言する監督による「絶対王政」とは、天皇裕仁の現人神という存在を想起させます。彼もまた犠牲者の側面は持ちますが、「上官の命令は天皇の命令と思え!」が合い言葉となり、徹底して上位者に従う人間(個人の良心は下に置かれる)がつくられたのでした。無条件降伏という大敗戦の後、自害はおろか退位さえしない最高責任者(主権者であり軍隊の統帥権者であり生きる神!であった)とは何なのか。主権者が天皇から国民へと180度転回し、神ではなく人間だと「人間宣言」をした、その前も後も同じ「昭和時代」という。退位しないので、日本の歴史はわけのわからない話となり、グチャグチャにされてしまいました。
最高責任者が責任を取らずに「言い訳」に終始するのが、日本の文化となったのです。責任を取らず、戦争への反省もしない人間(神から人へ転回した天皇という存在)が「のうのうと生き延びた」(皇軍兵士たちの言葉)のでは、誤魔化しが常態となり国は腐ります。
きちんと個人の自由と責任により精神的に自立して生きる人が評価される日本にしなければ、未来はなく、朽ちていくだけです。
なによりも個人が尊重され、個々人の自由と責任に基づいて公共世界と政府がつくられ、官僚は主権者である国民の僕となるまともな民主国家にしたいものです。スポーツ組織も学校の運営も会社の営業も国家運営もみな同じで、個人につき個人から立ち昇る民主的思想と行為に依らなければ未来はありません。もう目を覚ましましょう、わが日本人よ。
それにしても、安倍首相とその手下たちの吐き気もよおす嘘、厚顔無恥、無責任に対して、20歳の宮川選手は、組織の論理を超えて、個人の良心に基づき、自分の非を認め、真実を話したのは立派でした。日本も捨てたものではない。戦前思想の愚か者の国会議員の集団(主に自民党)を消去するのは、良識ある個人としてのわたしたち国民です。
武田康
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「民主主義とはなんだろう?」[「戦後とはなんだったのか?」
わたしたちはどういう国家を望んでいるのだろうか?
わたしが小学生~中学性の時に愛読した本に講談社の[少年・少女世界文学全集」がある。(全150巻)。敗戦後の壊滅的な状況のなかで出版社もようやく息吹を撮り戻し、これからは平和で民主主義の時代だという希望にむかって張り切っていた気分が反映された企画だったと思う。(わたしは100巻ぐらいしか読まなかったと思うが夢中で読んだ。1か月に2冊づつとってくれた亡き母のこころづくしに感謝する。
そのなかの一冊にフランス革命にからめた物語がはいっていた。あとがきは「フランスは血を流して革命したが、わが日本は流血なしに革命したのだ」とあった。当時の人は新しい時代がきたと張り切っていたのだ。わたしはそれを単純に信じていた。
しかし、今思う。
ウソであった。幻覚であったと。
民主主義の先駆的宣言の書物としてルソー(1712-78)の『社会契約論』がある。
わたしは長じて一時ルソーにひかれ、ほとんど著書を読んだ。3人の息子がまだ少年だったころ。浜辺で夫と海水浴をさせながら、わたしはルソーの本をはなさず持ち、3人の息子が溺れやしないかと見張りながら本を読んでいた。
今思うとなんてことをしていたのだろうかと悔いるが、それほどまでして夢中で読んでいたルソーであったが、『社会契約論』はあとのお楽しみにとっておいたのが仇となり、これと後1冊を読み残したままです。(笑)
引っ越しても持ってきた『社会契約論』
だが、まだ読んでいない。
岩波文庫の表紙をながめながら、いまだにページをめくっていない。
いわく
「フランス革命の導火線となった近代デモクラシーの先駆的宣言の書」とあります。
ただいま、わたしは「あれもこれも読んでいない。読めばよかった」状態にあります。(笑)
わたしは、まだ民主主義(デモクラシー)ってなにかを分かっていないと思う。
《国に支配されるのではなく、民衆が国を支配するのだ。個人の尊厳を第一のものにするのだ》に向かって歩いていこうと思っている。
空を飛ぶカバ