[室町仏教]
鎌倉新仏教諸宗が,全国的規模の教団に成長したのは,宗祖入滅後 1 世紀以上を経た室町時代のことだった。たとえば,1282 年 (弘安 5) の日蓮入滅の時点で,日蓮宗は直弟・直檀を合わせても数百人,それらが散在するところも東国数ヵ国にすぎず,まだ微々たる地方宗教にすぎなかった。だが,13 世紀末,日像が京都で布教を始め, 15 世紀に入ると,宗内の諸門流の教線は北は東北地方,西は南西諸島にまでひろがり,しかも中央京都の町衆社会ではその半分が日蓮宗信者といわれるほど確固たる地位を築き,全国的な教団に成長した。折伏 (しやくぶく) の布教で知られる日親が活躍したのはこの世紀のことであり,また次の 16 世紀前半,京都では町衆信徒による法華一揆が史上に光彩を放った。浄土宗は法然の滅後,分派して発展したが,なお中世には純粋な浄土宗寺院の成立は少なかった。専修念仏者の集団は他宗寺院内に止住し,浄土宗の大勢は〈寓宗 (ぐうしゆう) 〉として推移したが,それでも室町後期,弁長のひらいた鎮西派が宗内外で雄飛し,知恩院を中心に独立した全国的教団に成長した。真宗では 15 世紀,本願寺に蓮如が出て,東海・北陸・東山・畿内の諸国を精力的に巡錫し,宗勢を飛躍させるとともに,真宗内部において仏光寺・専修寺を抜いた巨大な本願寺勢力を築き上げた。蓮如の膨大な消息と著述は〈御文 (おふみ) 〉とか〈御文章〉 (《蓮如仮名法語》) と呼ばれ,宗祖親鸞の著述よりも,長らく門徒に大きな影響を与えた。本願寺は蓮如の代に法主制を確立し,寺基も洛東の大谷から山科 (やましな) に移ったが,この城廓構えの山科本願寺は 1536 年 (天文 5) 法華一揆に焼討ちされ,ために孫の証如は本願寺を大坂石山へ移した。 16 世紀に畿内・東海・北陸に蜂起した一向一揆は,本願寺法主を頂点とした門徒支配の郷村か,戦国大名が支配する郷村かを決する戦国群雄と本願寺門徒の血みどろの戦いであり,この決戦に最終的に勝利して登場したのが信長・秀吉の近世統一政権であった。遊行上人と呼ばれた一遍の時宗は,宗祖の代には止住すべき草庵さえもたなかったが,室町時代になると時宗寺院が諸国に建立され,とりわけ京都に大きな基盤をもった。特殊な技能をもって室町将軍に近侍した同朋衆などのなかに,時宗の阿弥号をもつ人が多く,東山文化に果たした阿弥集団の芸術活動の役割には注目すべきものがある。
一方,室町前期の中央政界では臨済宗五山派が全盛をきわめた。幕府は京都・鎌倉五山以下,十刹・諸山 (五山・十刹・諸山) の寺格を指定し,これら五山派の禅寺を官寺として保護した。五山派寺院の住持任命は将軍が行い,寺領を寄せ,伽藍維持を援助し,かわって幕府は寺から莫大な礼銭を取り,五山派の禅寺は幕府の大きな財源となっていた。将軍にならって守護大名の多くも五山派禅寺を領国に建立経営し,五山禅に帰依した。こうして室町前期,五山禅は黄金期を迎え,名僧が輩出したが,五山禅僧は名利に接近し,内部では坐禅よりも詩文の教養が貴ばれ,ここに五山文学の隆盛をみた。だが,五山禅は幕府の衰退とともに室町後期にはしだいに衰え,かわって林下 (りんか) の禅が台頭した。 宗峰妙超が開いた大徳寺,関山慧玄が創建した妙心寺,それに道元が伝えた曹洞の禅がこれである。林下の禅は中央の権勢におもねることなく在野の禅を標榜し,詩文よりも禅家本来の坐禅を守り,地方武士や庶民社会にその支持者を増やした。一休宗純によって大徳寺禅が堺町衆社会に根づき,それが堺町衆の茶数寄を接点にして,戦国武将や町人茶人と大徳寺禅との結びつきが生まれ,その結びつきが契機となって,大徳寺が戦国期に雄飛することとなったのはその好例である。
鎌倉新仏教諸宗が,全国的規模の教団に成長したのは,宗祖入滅後 1 世紀以上を経た室町時代のことだった。たとえば,1282 年 (弘安 5) の日蓮入滅の時点で,日蓮宗は直弟・直檀を合わせても数百人,それらが散在するところも東国数ヵ国にすぎず,まだ微々たる地方宗教にすぎなかった。だが,13 世紀末,日像が京都で布教を始め, 15 世紀に入ると,宗内の諸門流の教線は北は東北地方,西は南西諸島にまでひろがり,しかも中央京都の町衆社会ではその半分が日蓮宗信者といわれるほど確固たる地位を築き,全国的な教団に成長した。折伏 (しやくぶく) の布教で知られる日親が活躍したのはこの世紀のことであり,また次の 16 世紀前半,京都では町衆信徒による法華一揆が史上に光彩を放った。浄土宗は法然の滅後,分派して発展したが,なお中世には純粋な浄土宗寺院の成立は少なかった。専修念仏者の集団は他宗寺院内に止住し,浄土宗の大勢は〈寓宗 (ぐうしゆう) 〉として推移したが,それでも室町後期,弁長のひらいた鎮西派が宗内外で雄飛し,知恩院を中心に独立した全国的教団に成長した。真宗では 15 世紀,本願寺に蓮如が出て,東海・北陸・東山・畿内の諸国を精力的に巡錫し,宗勢を飛躍させるとともに,真宗内部において仏光寺・専修寺を抜いた巨大な本願寺勢力を築き上げた。蓮如の膨大な消息と著述は〈御文 (おふみ) 〉とか〈御文章〉 (《蓮如仮名法語》) と呼ばれ,宗祖親鸞の著述よりも,長らく門徒に大きな影響を与えた。本願寺は蓮如の代に法主制を確立し,寺基も洛東の大谷から山科 (やましな) に移ったが,この城廓構えの山科本願寺は 1536 年 (天文 5) 法華一揆に焼討ちされ,ために孫の証如は本願寺を大坂石山へ移した。 16 世紀に畿内・東海・北陸に蜂起した一向一揆は,本願寺法主を頂点とした門徒支配の郷村か,戦国大名が支配する郷村かを決する戦国群雄と本願寺門徒の血みどろの戦いであり,この決戦に最終的に勝利して登場したのが信長・秀吉の近世統一政権であった。遊行上人と呼ばれた一遍の時宗は,宗祖の代には止住すべき草庵さえもたなかったが,室町時代になると時宗寺院が諸国に建立され,とりわけ京都に大きな基盤をもった。特殊な技能をもって室町将軍に近侍した同朋衆などのなかに,時宗の阿弥号をもつ人が多く,東山文化に果たした阿弥集団の芸術活動の役割には注目すべきものがある。
一方,室町前期の中央政界では臨済宗五山派が全盛をきわめた。幕府は京都・鎌倉五山以下,十刹・諸山 (五山・十刹・諸山) の寺格を指定し,これら五山派の禅寺を官寺として保護した。五山派寺院の住持任命は将軍が行い,寺領を寄せ,伽藍維持を援助し,かわって幕府は寺から莫大な礼銭を取り,五山派の禅寺は幕府の大きな財源となっていた。将軍にならって守護大名の多くも五山派禅寺を領国に建立経営し,五山禅に帰依した。こうして室町前期,五山禅は黄金期を迎え,名僧が輩出したが,五山禅僧は名利に接近し,内部では坐禅よりも詩文の教養が貴ばれ,ここに五山文学の隆盛をみた。だが,五山禅は幕府の衰退とともに室町後期にはしだいに衰え,かわって林下 (りんか) の禅が台頭した。 宗峰妙超が開いた大徳寺,関山慧玄が創建した妙心寺,それに道元が伝えた曹洞の禅がこれである。林下の禅は中央の権勢におもねることなく在野の禅を標榜し,詩文よりも禅家本来の坐禅を守り,地方武士や庶民社会にその支持者を増やした。一休宗純によって大徳寺禅が堺町衆社会に根づき,それが堺町衆の茶数寄を接点にして,戦国武将や町人茶人と大徳寺禅との結びつきが生まれ,その結びつきが契機となって,大徳寺が戦国期に雄飛することとなったのはその好例である。