[平安仏教]
行き詰まった律令政治の刷新をめざした 794 年 (延暦 13) の桓武天皇の平安遷都は,その裏面に奈良の仏教の官大寺経営に費やされる膨大な国費,増大する寺領荘園,加えて教団の腐敗堕落,僧綱制度の欠点などを改革しようとする意図を秘めていた。果たして,従来遷都とともに行われた大寺移建の慣例は放棄された。ここに新しい平安仏教が出現する契機があった。桓武朝の末年,入唐求法 (につとうぐほう) して持ち帰った最澄の天台宗,空海の真言宗がこれである。だが,南都仏教も平安仏教も,前者は〈鎮護国家〉,後者は〈護国仏教〉を標榜し,目的語句こそ異なったが,ともに古代国家の隆盛期に形成された仏教として,所椿は国家仏教の性格を共通してもっていた。だが,それでも,両者の間に政治とのかかわり方で大きな隔りがあった。南都仏教は平城京という都城に存在し,僧侶はつねに中央政界に進出するいわば都市の仏教だった。だが平安仏教では,天台宗は比叡山,真言宗は高雄の神護寺や高野山など,主要寺院が山岳に営まれた。この都市仏教から山林仏教への変化は,政治に従属する仏教から,政治に一定の距離を置いてそこに政治から不可侵独立の〈聖域〉を築き,国家を護持しようとする平安仏教の政治に対する新しい姿勢を語るものだった。こうして,〈王法と仏法は車の両輪のごとし〉という,王法・仏法の対等相依の理論が平安仏教の段階で初めて唱えられ,新時代の国家仏教の理念となった。円禅戒密の四種相承を果たして帰朝した最澄の大戒独立の運動は, 仏教教理でみると戒律における大乗・小乗の優劣論にすぎないが,歴史的にみると国家権力に緊縛された南都の僧戒を, 仏教側の自主的管理に取り戻そうとする僧戒自立の運動だった。この比叡山大乗戒の独立は,最澄の没後 7 日目に勅許され,日本天台宗の名実ともの独立がなしとげられた。長安の青竜寺の恵果 (けいか) から純粋密教の秘法をうけて帰朝した空海は,嵯峨天皇に重用され,816 年 (弘仁 7) 高野山を開創, 823 年 (弘仁 14) 東寺を給付され,真言宗の拠点を確保した。仏果を得ることは文字や学解によるのではなく,字 (真言)・印 (印相)・形 (曼陀羅) などで表現され,如来の言葉である真言陀羅尼を念誦し,観修することで即身成仏できると説く空海の教えは,彼の南都諸宗に対する妥協的態度や加持祈裳の容認と相まって,貴族や地方の豪族や民衆のなかに急速にひろまった。法相宗学を主流とした南都仏教が,成仏の可否は人間の素質によるという〈五性各別〉を説いたのに対して,天台・真言の平安仏教は〈一切皆成〉,すなわち素質や能力に関係なく,すべての人間が成仏できるとの一乗主義を説き,これも平安仏教の新しい特色だった。こうして,平安時代,化外の地域とされた東北地方まで天台・真言の僧が布教の足跡をのばし, 仏教はほぼ日本全域にひろまった。天台宗は最澄のあとの円仁・円珍のころ,密教 (台密) が教学の中心となり,東密 (真言密教) とともに,平安貴族の厚い帰依と保護をうけた。
寺院造営や法会や加持祈裳が宮廷貴族社会に盛行し,貴族出身の僧侶が大寺の住持を独占するようになり,平安仏教もしだいに貴族仏教となった。諸大寺は貴族から寄進された荘園をもつ大領主となり, 僧兵という武力をもち,権門と呼ばれて栄えた。だが,平安中期以降,末法思想が飢饉・疫病・地震・洪水などの当時の災害現象と相まって人心を強くとらえるようになると,阿弥陀浄土信仰 (阿弥陀) が盛んになった。念仏によって極楽往生を願うこの信仰は,市聖 (いちのひじり) と呼ばれた空也,《往生要集》を著した源信,融通念仏宗を開いた良忍らによって急速に古代末期の社会に浸透していった。
[鎌倉仏教]
仏教が真の意味で民衆の宗教として確立したのは鎌倉時代だった。いわゆる鎌倉新仏教の成立である。念仏門の系統から,まず法然 (源空) が日本浄土宗を開いた。法然は主著《選択 (せんちやく) 本願念仏集》を著し,富と知識を独占する貴族しかできない造寺・造仏・学解・持戒などの意義を退け,往生の要諦は阿弥陀―仏を信じて,念仏だけを唱えること (一向専修) で,これにより人びとは貴賤・男女の差別なく在家の生活のまま往生できると説いた。これまでのように観想の阿弥陀仏礼拝も, 浄土三部経の読誦も不要であり,称名念仏だけが〈正定業 (しようじようごう) 〉であるという点で,阿弥陀信仰はより易行 (いぎよう) となり,在家民衆の生活のなかに定着する条件をそなえた。法然の教えをさらに徹底化したのが, 浄土真宗 (真宗) を開いたその弟子親鸞である。師の法然がおもに京都で活躍したのに対し,親鸞は晩年こそ京都に帰ったが,越後に流されたあと妻帯し,そののち関東に移り,東国辺地の農民や下級武士に法を説いた。彼は往生の当否は称名よりも,阿弥陀仏への絶対的な信心にあるとし (信心為本),しかも《陸異抄(たんにしよう) 》のなかで〈善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや,しかるに世のひとつねにいはく,悪人なを往生す,いかにいはんや善人をや〉,阿弥陀仏の〈願をおこしたまふ本意,悪人成仏のためならば,他力をたのみたてまつる悪人,もともと往生の正因なり〉と,絶対他力と悪人正機の説を述べた。法然・親鸞におくれて元寇のころ,念仏門に新境地を開いたのが, 時宗の宗祖一遍である。一遍は,念仏往生の鍵は信心の有無,浄や不浄,貴賤や男女に関係するのではなく,すべてを放下 (ほか) し,〈空〉の心境になって,名号 (みようごう) (念仏) と一体に結縁 (けちえん) することにあると説いた。一遍は生涯を廻国遊行 (ゆぎよう) の旅に過ごし,念仏に結縁した人びとに往生決定の証明として念仏を書いた紙の札を与え (賦算 (ふさん) ),彼らに阿弥号をつけた。時衆に〈某阿弥陀仏〉と称する人が多いのはこのためである。彼らは賦算と阿弥号をうけ,生きながら阿弥陀仏と一体となると信じた。一遍が遊行し賦算するところ,歓喜の踊 (念仏踊) の輪がひろがり,これが時宗の特色となった。一遍と同じころ,東国で日蓮が日蓮宗を開いた。日蓮は《法華経》だけを唯一の正法と認め,この《法華経》の眼目が〈南無妙法蓮華経〉の題目であるとし, 《法華経》への唯一絶対の信心をもとに,専持法華と唱題だけで,すべての人びとが差別なく成仏できると説いた。しかも日蓮は,彼岸での救済よりも,主著《立正安国論》で明示したように,正しい仏法が興隆すれば国土の災害除去は可能であると,現実国土の世なおしや現世での救済を重視し,この教説における強卑な現世性がこの宗派の特色となった。
以上述べたように,浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗は,それぞれ教説に特色をもつが,その反面でいくつかの共通点ももっていた。一つは諸経や諸仏や諸行のなかで,4 宗とも一つの経,一つの仏を選びとって,余仏・余経・雑行を徹底的に排し,念仏や題目を専修することを主張する,いわば〈一筋の信仰〉だった。二つには 4 宗とも貴賤・男女・貧富の差別なく,殺生を業とする悪人さえ往生や成仏を認める徹底した民衆宗教だった。三つには,したがって奈良・平安の貴族仏教が重視した戒律の意義を認めず,民衆の日常生活のなかで信仰が維持できるよう,易行にして,在家成仏の仏教だった。四つにはこれら 4 宗の寺には,旧仏教や禅宗の大寺のように,創建当初から朝廷や幕府の官寺や祈裳所として七堂伽藍を整備し,寺領寄進をうけて出発した寺はなかった。浄土宗の知恩院,真宗の本願寺や専修 (せんじゆ) 寺,日蓮宗の久遠 (くおん) 寺など,いずれも武士や民衆に支えられて草庵から出発した寺院である。五つには,旧仏教や禅宗が宗祖によって中国から将来された仏教だったのに対し,これら 4 宗の宗祖,法然・親鸞・一遍・日蓮は入唐求法の意志もまたその経験もなく,経典や聖教を模索して教説の体系を形成した歴史をもち,この意味では鎌倉時代の日本がその社会のなかで育て上げた日本仏教ともいうべき宗教だった。
鎌倉新仏教のうち,残る禅宗は宋からもたらされた。臨済禅は 1191 年 (建久 2) 帰国した栄西が,曹洞禅は 1227 年 (安貞 1) 道元が伝えた。本来の禅は来世の概念がなく,不立文字 (ふりゆうもんじ) を旨とし,坐禅や公案 (こうあん) を中心として自力による悟りを自己の心中に形成することを目的とした。この気骨ある教義と,禅のもつ郁々とした中国文化の香りが,新しい時代の担い手として台頭する武家,それに一部の公家の気風に合致し,当代仏教界に禅宗は新風を吹きこんだ。 臨済宗は幕府の保護をうけ鎌倉や京都に唐様建築による大寺院を建立し,蘭渓道隆,無学祖元,一山一寧など宋元の中国禅僧を迎え,次の室町時代に五山禅・五山文学の隆盛を築いた。 曹洞宗は道元が中央権勢に接近して名利を得ることを拒んだので,彼が拠点とした越前の永平寺を中心に,鎌倉・室町時代,おもに地方武士層に教線をのばした。こうした新仏教諸宗の活躍に対して,旧仏教側にも新しい改革の運動が興った。禅宗を除く新仏教諸宗が戒律を軽視もしくは無視したことに対して,法相宗の貞慶 (解脱) や華厳宗の高弁 (明恵(みようえ) ),律宗の叡尊 (興正)・忍性 (良観)・俊巣(しゆんじよう) らが,戒律の復興や施薬・土木建設などの社会事業をすすめた。また従来の外護者だった宮廷貴族層の衰退に伴って,旧仏教系の諸寺では,古い由緒や秘蔵する仏像の霊験をあらためて世間に喧伝し,観音・阿弥陀・地蔵など諸仏の霊場として,台頭する武士や庶民の信仰を集め,民衆仏教に再生脱皮しようとする動きが盛んとなった。
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行き詰まった律令政治の刷新をめざした 794 年 (延暦 13) の桓武天皇の平安遷都は,その裏面に奈良の仏教の官大寺経営に費やされる膨大な国費,増大する寺領荘園,加えて教団の腐敗堕落,僧綱制度の欠点などを改革しようとする意図を秘めていた。果たして,従来遷都とともに行われた大寺移建の慣例は放棄された。ここに新しい平安仏教が出現する契機があった。桓武朝の末年,入唐求法 (につとうぐほう) して持ち帰った最澄の天台宗,空海の真言宗がこれである。だが,南都仏教も平安仏教も,前者は〈鎮護国家〉,後者は〈護国仏教〉を標榜し,目的語句こそ異なったが,ともに古代国家の隆盛期に形成された仏教として,所椿は国家仏教の性格を共通してもっていた。だが,それでも,両者の間に政治とのかかわり方で大きな隔りがあった。南都仏教は平城京という都城に存在し,僧侶はつねに中央政界に進出するいわば都市の仏教だった。だが平安仏教では,天台宗は比叡山,真言宗は高雄の神護寺や高野山など,主要寺院が山岳に営まれた。この都市仏教から山林仏教への変化は,政治に従属する仏教から,政治に一定の距離を置いてそこに政治から不可侵独立の〈聖域〉を築き,国家を護持しようとする平安仏教の政治に対する新しい姿勢を語るものだった。こうして,〈王法と仏法は車の両輪のごとし〉という,王法・仏法の対等相依の理論が平安仏教の段階で初めて唱えられ,新時代の国家仏教の理念となった。円禅戒密の四種相承を果たして帰朝した最澄の大戒独立の運動は, 仏教教理でみると戒律における大乗・小乗の優劣論にすぎないが,歴史的にみると国家権力に緊縛された南都の僧戒を, 仏教側の自主的管理に取り戻そうとする僧戒自立の運動だった。この比叡山大乗戒の独立は,最澄の没後 7 日目に勅許され,日本天台宗の名実ともの独立がなしとげられた。長安の青竜寺の恵果 (けいか) から純粋密教の秘法をうけて帰朝した空海は,嵯峨天皇に重用され,816 年 (弘仁 7) 高野山を開創, 823 年 (弘仁 14) 東寺を給付され,真言宗の拠点を確保した。仏果を得ることは文字や学解によるのではなく,字 (真言)・印 (印相)・形 (曼陀羅) などで表現され,如来の言葉である真言陀羅尼を念誦し,観修することで即身成仏できると説く空海の教えは,彼の南都諸宗に対する妥協的態度や加持祈裳の容認と相まって,貴族や地方の豪族や民衆のなかに急速にひろまった。法相宗学を主流とした南都仏教が,成仏の可否は人間の素質によるという〈五性各別〉を説いたのに対して,天台・真言の平安仏教は〈一切皆成〉,すなわち素質や能力に関係なく,すべての人間が成仏できるとの一乗主義を説き,これも平安仏教の新しい特色だった。こうして,平安時代,化外の地域とされた東北地方まで天台・真言の僧が布教の足跡をのばし, 仏教はほぼ日本全域にひろまった。天台宗は最澄のあとの円仁・円珍のころ,密教 (台密) が教学の中心となり,東密 (真言密教) とともに,平安貴族の厚い帰依と保護をうけた。
寺院造営や法会や加持祈裳が宮廷貴族社会に盛行し,貴族出身の僧侶が大寺の住持を独占するようになり,平安仏教もしだいに貴族仏教となった。諸大寺は貴族から寄進された荘園をもつ大領主となり, 僧兵という武力をもち,権門と呼ばれて栄えた。だが,平安中期以降,末法思想が飢饉・疫病・地震・洪水などの当時の災害現象と相まって人心を強くとらえるようになると,阿弥陀浄土信仰 (阿弥陀) が盛んになった。念仏によって極楽往生を願うこの信仰は,市聖 (いちのひじり) と呼ばれた空也,《往生要集》を著した源信,融通念仏宗を開いた良忍らによって急速に古代末期の社会に浸透していった。
[鎌倉仏教]
仏教が真の意味で民衆の宗教として確立したのは鎌倉時代だった。いわゆる鎌倉新仏教の成立である。念仏門の系統から,まず法然 (源空) が日本浄土宗を開いた。法然は主著《選択 (せんちやく) 本願念仏集》を著し,富と知識を独占する貴族しかできない造寺・造仏・学解・持戒などの意義を退け,往生の要諦は阿弥陀―仏を信じて,念仏だけを唱えること (一向専修) で,これにより人びとは貴賤・男女の差別なく在家の生活のまま往生できると説いた。これまでのように観想の阿弥陀仏礼拝も, 浄土三部経の読誦も不要であり,称名念仏だけが〈正定業 (しようじようごう) 〉であるという点で,阿弥陀信仰はより易行 (いぎよう) となり,在家民衆の生活のなかに定着する条件をそなえた。法然の教えをさらに徹底化したのが, 浄土真宗 (真宗) を開いたその弟子親鸞である。師の法然がおもに京都で活躍したのに対し,親鸞は晩年こそ京都に帰ったが,越後に流されたあと妻帯し,そののち関東に移り,東国辺地の農民や下級武士に法を説いた。彼は往生の当否は称名よりも,阿弥陀仏への絶対的な信心にあるとし (信心為本),しかも《陸異抄(たんにしよう) 》のなかで〈善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや,しかるに世のひとつねにいはく,悪人なを往生す,いかにいはんや善人をや〉,阿弥陀仏の〈願をおこしたまふ本意,悪人成仏のためならば,他力をたのみたてまつる悪人,もともと往生の正因なり〉と,絶対他力と悪人正機の説を述べた。法然・親鸞におくれて元寇のころ,念仏門に新境地を開いたのが, 時宗の宗祖一遍である。一遍は,念仏往生の鍵は信心の有無,浄や不浄,貴賤や男女に関係するのではなく,すべてを放下 (ほか) し,〈空〉の心境になって,名号 (みようごう) (念仏) と一体に結縁 (けちえん) することにあると説いた。一遍は生涯を廻国遊行 (ゆぎよう) の旅に過ごし,念仏に結縁した人びとに往生決定の証明として念仏を書いた紙の札を与え (賦算 (ふさん) ),彼らに阿弥号をつけた。時衆に〈某阿弥陀仏〉と称する人が多いのはこのためである。彼らは賦算と阿弥号をうけ,生きながら阿弥陀仏と一体となると信じた。一遍が遊行し賦算するところ,歓喜の踊 (念仏踊) の輪がひろがり,これが時宗の特色となった。一遍と同じころ,東国で日蓮が日蓮宗を開いた。日蓮は《法華経》だけを唯一の正法と認め,この《法華経》の眼目が〈南無妙法蓮華経〉の題目であるとし, 《法華経》への唯一絶対の信心をもとに,専持法華と唱題だけで,すべての人びとが差別なく成仏できると説いた。しかも日蓮は,彼岸での救済よりも,主著《立正安国論》で明示したように,正しい仏法が興隆すれば国土の災害除去は可能であると,現実国土の世なおしや現世での救済を重視し,この教説における強卑な現世性がこの宗派の特色となった。
以上述べたように,浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗は,それぞれ教説に特色をもつが,その反面でいくつかの共通点ももっていた。一つは諸経や諸仏や諸行のなかで,4 宗とも一つの経,一つの仏を選びとって,余仏・余経・雑行を徹底的に排し,念仏や題目を専修することを主張する,いわば〈一筋の信仰〉だった。二つには 4 宗とも貴賤・男女・貧富の差別なく,殺生を業とする悪人さえ往生や成仏を認める徹底した民衆宗教だった。三つには,したがって奈良・平安の貴族仏教が重視した戒律の意義を認めず,民衆の日常生活のなかで信仰が維持できるよう,易行にして,在家成仏の仏教だった。四つにはこれら 4 宗の寺には,旧仏教や禅宗の大寺のように,創建当初から朝廷や幕府の官寺や祈裳所として七堂伽藍を整備し,寺領寄進をうけて出発した寺はなかった。浄土宗の知恩院,真宗の本願寺や専修 (せんじゆ) 寺,日蓮宗の久遠 (くおん) 寺など,いずれも武士や民衆に支えられて草庵から出発した寺院である。五つには,旧仏教や禅宗が宗祖によって中国から将来された仏教だったのに対し,これら 4 宗の宗祖,法然・親鸞・一遍・日蓮は入唐求法の意志もまたその経験もなく,経典や聖教を模索して教説の体系を形成した歴史をもち,この意味では鎌倉時代の日本がその社会のなかで育て上げた日本仏教ともいうべき宗教だった。
鎌倉新仏教のうち,残る禅宗は宋からもたらされた。臨済禅は 1191 年 (建久 2) 帰国した栄西が,曹洞禅は 1227 年 (安貞 1) 道元が伝えた。本来の禅は来世の概念がなく,不立文字 (ふりゆうもんじ) を旨とし,坐禅や公案 (こうあん) を中心として自力による悟りを自己の心中に形成することを目的とした。この気骨ある教義と,禅のもつ郁々とした中国文化の香りが,新しい時代の担い手として台頭する武家,それに一部の公家の気風に合致し,当代仏教界に禅宗は新風を吹きこんだ。 臨済宗は幕府の保護をうけ鎌倉や京都に唐様建築による大寺院を建立し,蘭渓道隆,無学祖元,一山一寧など宋元の中国禅僧を迎え,次の室町時代に五山禅・五山文学の隆盛を築いた。 曹洞宗は道元が中央権勢に接近して名利を得ることを拒んだので,彼が拠点とした越前の永平寺を中心に,鎌倉・室町時代,おもに地方武士層に教線をのばした。こうした新仏教諸宗の活躍に対して,旧仏教側にも新しい改革の運動が興った。禅宗を除く新仏教諸宗が戒律を軽視もしくは無視したことに対して,法相宗の貞慶 (解脱) や華厳宗の高弁 (明恵(みようえ) ),律宗の叡尊 (興正)・忍性 (良観)・俊巣(しゆんじよう) らが,戒律の復興や施薬・土木建設などの社会事業をすすめた。また従来の外護者だった宮廷貴族層の衰退に伴って,旧仏教系の諸寺では,古い由緒や秘蔵する仏像の霊験をあらためて世間に喧伝し,観音・阿弥陀・地蔵など諸仏の霊場として,台頭する武士や庶民の信仰を集め,民衆仏教に再生脱皮しようとする動きが盛んとなった。
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