歴史の詩学
―― 不運と忘却という視点から見えてくるのは、この小説ではさまざまうな出来事を語る以上に、どのような出来事が起こっても変わらない、現実と歴史にたいするある関係の仕方を語ることが目指されているということではないでしょうか。
C:すでにお話したように、アンティール人たちは非=歴史の中に生きてきました。しかし、それでも彼らは客観的な歴史のうちに生きているのです。だからアンティール人たちは、歴史に関して少し潤色された見方をしています。つまり自分たちが歴史から排除されることに慣れているために、アンティール人たちはそれを想像力によって変形する傾向があるのです。歴史をでっちあげる傾向とも言えます。私たちのところでは、人々の語る出来事は、客観的に知られている出来事とはいつもかなり異なっています。その違いは単に人間の記憶があてにならないという事実から来るのではなく、言ってみればその出来事を意識的に変更しようとする意志に由来しています。すこし空想的なやり方で出来事を自分のものにする――それは、言うまでもなく歴史からの排除と戦う一つのやり方です。歴史を自分の流儀で語ると、どこかで歴史を自分のものにしているというような印象、歴史を支配し、思うようにあやつっているというような印象を持てるのですから。もちろんそれは本物の支配ではありません。想像力による、歴史的事件の支配にすぎません。それでも私は、そのような制御が現実と歴史に対するまったく特殊な関係を作りだしていると思います。アンティール人が現実に対してとる距離には、三世紀にわたる奴隷制度が刻印されています。三世紀のあいだ、現実の何ものもアンティール人のものではありませんでした。自分の身体でさえ。なぜなら、自分がいつ売りに出されるかわからないからです。ゾンビや《スクリヤン》の神話が作られたのはそのためです。
《スクリヤン》とは、自分の皮膚を脱ぎ、夜のあいだ空を飛び、動物に変身できる存在のことです。私たちのところには、これこれの人が犬に変身した、三本脚の馬に変身したという民話がたくさんあります。そうした信仰は、自分のものでない身体を持つ人間、主人に所有される身体を持つ人間にとっては、生と死、現実と非現実との境界がとても曖昧だという事実に由来しています。
グラン=タンスの海
――『コーヒーの水』では、歴史は海とも切り離せない形で描かれていますね。
C:アンティール人と海との関係にはさまざまな問題が含まれています。なぜなら、海は初め奴隷の強制移送の場所だったからです。エドゥアール・グリッサンの見事な言い方によれば、アフリカとアメリカのあいだの海底は、死者の鎖でつながっている。旅のあいだ、しばしば奴隷の半分が死に、海に投げ込まれました。船内で反乱があれば、人びとはただちに奴隷を殺し、海に捨てたのです。
そう、海は初め苦しみの場所でした。奴隷はアフリカから引き離され、どこに連れていかれるのか知らなかったのですから。島々に到着し、反乱を起こして逃げようとすると、アフリカ人の前には海が広がっていました。したがって、海は障害でもあります。奴隷たちはその障害を乗り越えられませんでした。船もなにも持っていなかったのですから。私たちの島からは他の島々が見えますが、その間に横たわる海は広大ですから、泳いでは行けません。そういうわけで、私たちのところでは、奇妙にも漁があまり発達していません。もちろん奴隷制の時代ということですが、漁はあまり発達しませんでした。
もっとも、この点について、グラン・タンスの町はマルティニックのなかでも特殊なケースです。島のなかで漁師がいない唯一の町なのです。子供や、少し頭のおかしな連中を除けば、ここでは人びとは海水浴にも行きません。この海がどうして呪われたのか、どうして魚がいないのか、どうして《不妊》なのか――これは古仏語の単語で不毛を意味します、クレオール語では《ブランアン》という形で使われます――を説明するために、実に数多くの言い伝えや伝説があります。
しかし、それでも海の存在を忘れるわけではありません。グラン・タンスの海は、とても荒れた海なのです.............子供だったころ、一晩中海鳴りを聞いていたのを思い出します。もちろんそれで眠れなくなるわけではありませんが、眠っている時でさえ、夢はこの海によって作られているのです。海はグラン・タンスの人々の無意識を形成しています。
――海だけではなく、砂浜も一定の役割を果たしているように思えます。『ニグロと提督』でもそうですが、黒い砂には、コンフィアンスさんの想像力を掻きたてるものがあるのでしょうか?
C;ええ。「黒の幻想」と私は呼んでいるのですが、まだ明確に説明されていない幻想があるのだと考えています。。「黒の幻想」とは何か?アンティール人たちは、口では白くなりたいと言い、そのために必要なあらゆることをしていますが、集合的無意識においては、黒くなりたいという幻想をもっているのだと私は思います。それは最初の色に回帰したいという幻想なのです。私たちはもともと完全に黒かったのに、ヨーロッパ人との混血の結果、例えば私などは完全に黒いとは言えません。しかし、幻想の次元では、黒い色への結びつきがあると私は確信しています。
アンティール人たちは、ファノンが「乳白化」と呼んでいるもの、つまり完全に白くなりたいという願望だけではなく、完全に黒くなりたいとう願望にもひきよせられているのではないかと思うのです。その願望はさまざまな場所に姿を現し、とりわけ砂の色との関係で顕在化します。完全に白くなりたいという願望と、完全に黒くなりたいという願望との葛藤は、すっかり白いわけでも、すっかり黒いわけでもないまま、その二つのあいだに生きることの難しさの表明なのです。黒い砂は、失われた色を幻想的に表す何ものかです。なぜなら、アフリカ人のように原色を保っているアンティール人はそれほどいないからです。三世紀にわたり、白人男性が黒人女性にあまりにもたくさん子供を産ませたので、完全な黒人はもはや実質的にはいません。黒は失われた色なのです..................。
(1996年8月29日、東京にて
聞き手・翻訳/塚本昌則)
............................................(引用おわり)
―― 不運と忘却という視点から見えてくるのは、この小説ではさまざまうな出来事を語る以上に、どのような出来事が起こっても変わらない、現実と歴史にたいするある関係の仕方を語ることが目指されているということではないでしょうか。
C:すでにお話したように、アンティール人たちは非=歴史の中に生きてきました。しかし、それでも彼らは客観的な歴史のうちに生きているのです。だからアンティール人たちは、歴史に関して少し潤色された見方をしています。つまり自分たちが歴史から排除されることに慣れているために、アンティール人たちはそれを想像力によって変形する傾向があるのです。歴史をでっちあげる傾向とも言えます。私たちのところでは、人々の語る出来事は、客観的に知られている出来事とはいつもかなり異なっています。その違いは単に人間の記憶があてにならないという事実から来るのではなく、言ってみればその出来事を意識的に変更しようとする意志に由来しています。すこし空想的なやり方で出来事を自分のものにする――それは、言うまでもなく歴史からの排除と戦う一つのやり方です。歴史を自分の流儀で語ると、どこかで歴史を自分のものにしているというような印象、歴史を支配し、思うようにあやつっているというような印象を持てるのですから。もちろんそれは本物の支配ではありません。想像力による、歴史的事件の支配にすぎません。それでも私は、そのような制御が現実と歴史に対するまったく特殊な関係を作りだしていると思います。アンティール人が現実に対してとる距離には、三世紀にわたる奴隷制度が刻印されています。三世紀のあいだ、現実の何ものもアンティール人のものではありませんでした。自分の身体でさえ。なぜなら、自分がいつ売りに出されるかわからないからです。ゾンビや《スクリヤン》の神話が作られたのはそのためです。
《スクリヤン》とは、自分の皮膚を脱ぎ、夜のあいだ空を飛び、動物に変身できる存在のことです。私たちのところには、これこれの人が犬に変身した、三本脚の馬に変身したという民話がたくさんあります。そうした信仰は、自分のものでない身体を持つ人間、主人に所有される身体を持つ人間にとっては、生と死、現実と非現実との境界がとても曖昧だという事実に由来しています。
グラン=タンスの海
――『コーヒーの水』では、歴史は海とも切り離せない形で描かれていますね。
C:アンティール人と海との関係にはさまざまな問題が含まれています。なぜなら、海は初め奴隷の強制移送の場所だったからです。エドゥアール・グリッサンの見事な言い方によれば、アフリカとアメリカのあいだの海底は、死者の鎖でつながっている。旅のあいだ、しばしば奴隷の半分が死に、海に投げ込まれました。船内で反乱があれば、人びとはただちに奴隷を殺し、海に捨てたのです。
そう、海は初め苦しみの場所でした。奴隷はアフリカから引き離され、どこに連れていかれるのか知らなかったのですから。島々に到着し、反乱を起こして逃げようとすると、アフリカ人の前には海が広がっていました。したがって、海は障害でもあります。奴隷たちはその障害を乗り越えられませんでした。船もなにも持っていなかったのですから。私たちの島からは他の島々が見えますが、その間に横たわる海は広大ですから、泳いでは行けません。そういうわけで、私たちのところでは、奇妙にも漁があまり発達していません。もちろん奴隷制の時代ということですが、漁はあまり発達しませんでした。
もっとも、この点について、グラン・タンスの町はマルティニックのなかでも特殊なケースです。島のなかで漁師がいない唯一の町なのです。子供や、少し頭のおかしな連中を除けば、ここでは人びとは海水浴にも行きません。この海がどうして呪われたのか、どうして魚がいないのか、どうして《不妊》なのか――これは古仏語の単語で不毛を意味します、クレオール語では《ブランアン》という形で使われます――を説明するために、実に数多くの言い伝えや伝説があります。
しかし、それでも海の存在を忘れるわけではありません。グラン・タンスの海は、とても荒れた海なのです.............子供だったころ、一晩中海鳴りを聞いていたのを思い出します。もちろんそれで眠れなくなるわけではありませんが、眠っている時でさえ、夢はこの海によって作られているのです。海はグラン・タンスの人々の無意識を形成しています。
――海だけではなく、砂浜も一定の役割を果たしているように思えます。『ニグロと提督』でもそうですが、黒い砂には、コンフィアンスさんの想像力を掻きたてるものがあるのでしょうか?
C;ええ。「黒の幻想」と私は呼んでいるのですが、まだ明確に説明されていない幻想があるのだと考えています。。「黒の幻想」とは何か?アンティール人たちは、口では白くなりたいと言い、そのために必要なあらゆることをしていますが、集合的無意識においては、黒くなりたいという幻想をもっているのだと私は思います。それは最初の色に回帰したいという幻想なのです。私たちはもともと完全に黒かったのに、ヨーロッパ人との混血の結果、例えば私などは完全に黒いとは言えません。しかし、幻想の次元では、黒い色への結びつきがあると私は確信しています。
アンティール人たちは、ファノンが「乳白化」と呼んでいるもの、つまり完全に白くなりたいという願望だけではなく、完全に黒くなりたいとう願望にもひきよせられているのではないかと思うのです。その願望はさまざまな場所に姿を現し、とりわけ砂の色との関係で顕在化します。完全に白くなりたいという願望と、完全に黒くなりたいという願望との葛藤は、すっかり白いわけでも、すっかり黒いわけでもないまま、その二つのあいだに生きることの難しさの表明なのです。黒い砂は、失われた色を幻想的に表す何ものかです。なぜなら、アフリカ人のように原色を保っているアンティール人はそれほどいないからです。三世紀にわたり、白人男性が黒人女性にあまりにもたくさん子供を産ませたので、完全な黒人はもはや実質的にはいません。黒は失われた色なのです..................。
(1996年8月29日、東京にて
聞き手・翻訳/塚本昌則)
............................................(引用おわり)