とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

中国 5

2006年12月10日 07時10分22秒 | 宗教・哲学・イズム
【中国】
 仏教が中国に入るのは,紀元前後のことである。前漢の武帝が,大宛の天馬にあこがれて西方の経略にのりだしてから,東西文明の交流はにわかにたかまる。いわゆる〈糸綢之路〉 (シルクロード) の開通と, 仏教の東漸は表裏の関係にある。中国民族にとって,西方はつねに神秘の宝庫であった。 仏教への対応は,その核といえる。仏と法と僧の三つを,人々は三宝とよぶ。
[中国への伝来]
 中国における最初の翻訳仏典とされる《四十二章経》の序は,その伝来の事情を次のように説く。一夜,後漢の明帝が,西方より殿庭に飛来するふしぎな金人の夢をみる。金人は,首の背後に円光を負うて全身より光明を放つ。臣下のもの知りが,西方インドの仏であろうという。帝は早速に,使者を派遣する。 2 人のインド僧が,大月氏より洛陽に迎えられ, 《四十二章経》を翻訳する。インド僧は,仏像を将来し,焼香礼拝の儀式を伝える。帝は各地に寺をたてるほか,洛陽郊外に自分の寿陵をつくり,千乗万騎の儀仗が仏塔をめぐって降臨する西域風の壁画を描かせる。
 以上は,当の《四十二章経》の序のほかに, 3 世紀末の《牟子理惑論》をはじめ,梁代の《出三蔵記集》や《高僧伝》,および北魏の正史である《魏書》の釈老志,首都洛陽の仏寺の歴史を集める《洛陽伽藍記》などに,共通して伝える説話である。説話に尾ひれがつくのは,当然のことである。明帝が西方に派する使者のうちに前漢の張騫 (ちようけん) の名が加わり,インド僧の名が梼葉摩騰・竺法蘭という 2 人の三蔵法師となり, 2 人が白馬に仏像と経典をのせてきたこと,これが中国最初の仏寺,洛陽白馬寺の由来となること, 《四十二章経》が後漢の宮廷に蔵せられて長く世に知られなかったことなど,時代が下るにしたがって伝説はしだいに詳細となり,まことしやかになる。そこにかえって,後に発展する中国仏教の本質についての重要なインデックスが含まれるわけだ。
 明帝の在位は,1 世紀の後半に当たる。義弟の楚王英が熱心な仏教者であったことは,すでに正史の《後漢書》に明記がある。当時,この国固有の民俗信仰であった道教が,西来の仏教の動きに対抗しつつ,教義や教団の組織を固めていたことも知られる。西方の異教である仏教がこの国に定着するには,時の天子に迎えられ,漢文の経典をもつという,公伝の形式が必要であった。とくに,明帝求法の伝説は,仏像の存在を前提し,全身より光明を放って空中を自由に飛翔することができる, 仏教固有の神通力への魅力と重なる。神通力は,習禅の成果である。全身放光や空中飛翔のほか,前生と来生および他人の心を読む,透視の能力をも含む。先の 2 人の三蔵法師につづいて,この国に来る多くのインド僧は,すべてそうした神通力の達人である。神通力の条件となる持戒や禅定の実践は, 仏教の定着に大きい動機をなすのである。無量寿仏や西方浄土の教説も,この国固有の神仙方術の信仰 (神仙説) に結びつけて受容される。空中に立つ阿弥陀仏の姿を観察する般舟三昧 (はんじゆざんまい) の教えが,もっとも由来の確かな翻訳経典の一つに含まれる。
[世界宗教の誕生]
 あたかも,後漢末より三国・南北朝にかけて,華北は五胡とよばれる北方塞外民族の支配下にある。五胡の首領は争って仏教を利用し,胡僧の伝える新しい西域文明を軸に,中国の伝統を統一しようとした。亀茲 (きじ) (クチャ) から華北に来た仏図澄は,一巻の経論も将来しなかったが,特異の神通力によって後趙の首領石勒を教化し,各地に仏寺を建立させて,多くの有能な漢人僧を育成し,中国仏教の基礎をつくる。前秦王苻健の帰依をうける最初の漢人僧道安は,その弟子の一人である。道安につぐ慧遠(えおん) は,江南の廬山に東林寺を創し,南北両朝の帰依をうけ,独自の教団をつくる。道安の前秦教化が動機となって,亀茲より新たにクマーラジーバ (鳩摩羅什) が西来し,後秦王姚興 (ようこう) の帰依で長安に多くの仏寺が立ち,各地より胡漢の僧が集まる。クマーラジーバは,のちに八宗の祖と仰がれる南インドの竜樹の大乗仏教を伝え,初期中国仏教の展開に一期を画する。すべて,五胡の治下でのことである。クマーラジーバは仏図澄とちがい,持戒や習禅よりも仏典の翻訳と講義に全力を傾けるのであり,これが中国仏教の主流となる。 74 部 384 巻という,その翻訳仏典は,新しい文学と哲学の金字塔である。
 さらに,西来の初期仏教は,高度に洗練された金銅仏や,塔を中心とする壮大な仏寺の建造によって,人々の美的関心を強める。インドのアジャンターや,アフガニスタンのバーミヤーン,クチャ (庫車) やトゥルファンなどの石窟寺にならって,敦煌や大同,洛陽竜門の各地に,華北独自の石窟寺が開削される。人々は造寺造像に熱中する。北魏末の洛陽には,すでに 1367 所の仏寺があった。いずれも,無数の大小仏像と珍奇な西域の文物で荘厳される。壁画の主題は,仏の本生ものがたりや,主要な大小乗経典の絵解きである。 仏教独自の実践修行と,珍しい儀式や儀礼が,四季を通じてくりかえされる。
 それらの造型と儀礼が思想の表現であることは,いうまでもない。知識層は,仏教独自の哲学に共感を寄せる。聖人の古典をもち,儒教や道教の高度の伝統をもつ中国社会で, 仏教はまったく新しい展開をとげる。仏典翻訳の問題は,後につづく中国仏教史の軸となる。とくに儒教や道教の歴史と対抗しつつ, 仏教は教祖釈梼仏の年代を,争って古代に引きあげるとともに,西域で発達した大小乗の仏教運動とその成果である仏典を,すべて同じ釈梼仏の一代の説法とする,独自の教学をつくりあげる。クマーラジーバを先駆とする無数の外国三蔵が,南北朝より隋・唐の時代にかけて断続的に大小乗の仏典を紹介し,すべてを漢文に翻訳しつくしたことは,そうした信仰と創造の成果である。
 要するに中国仏教の特色は,時代と種族を異にする,大衆の歴史的帰依によって,かつてのインド仏教とも,中国の伝統文明とも異なる新しい世界宗教を生むことになる。いわゆる漢訳仏教圏の完成は,かつての東西文明の交流以上に,より壮大な精神文明の運動を,あらためて周辺民族に拡大するのであり,そんな新しい展望によって,ここに中国仏教の歴史は,ようやく第 2 期に移ることになる。あたかも中国史で,五代より宋に移る近世の開幕に重なる時期である。その初伝より約 1000 年,仏教はすでに母国のインドと異なる,東アジア文明の大きい胎動となる。たとえば,初期チベット仏教は,唐代の中国仏教を輸入することにはじまるが,やがてインド仏教を総合して,中国ともインドとも異なる,新しい第 2 の中国仏教をつくる。後にラマ教とよばれるチベット密教が,それである。さらに,漢訳仏典は,中国で印刷技術を発達させ,独自の《大蔵経》をもつことで,朝鮮や日本に新しい文明をおこす。交流は,すでに西方シルクロードの域にとどまらない。
[高僧伝の成立]
 いったい,中国仏教史の資料といえば, 3 種の《高僧伝》によるのが一般である。第 1 は,梁の会稽嘉祥寺の僧慧皎 (えこう)が, 519 年 (天監 18) に編する《高僧伝》13 巻で,後漢より梁にいたる 450 年,501 人 (本伝 257,付伝 244) の仏教者の列伝である。第 2 は,唐の道宣がこれをうけ,645 年 (貞観 19) にいったん完成,自分の死の年に至るまで加筆する《続高僧伝》30 巻である。前後 144 年,694 人 (本伝 485,付伝 209) の列伝を収める。第 3 は,宋の賛寧が,988 年 (端拱 1) に上進する《宋高僧伝》30 巻で,先の道宣のあとをうけ,編者の時代にいたる約 300 年, 657 人 (本伝 531,付伝 126) の列伝である。
 いずれも,勅斤の正史に準ずる一貫した編集であり, 3 書ともに同じ十科の分類方法 ( 表 参照) をとる。すなわち,訳経は経典の翻訳,義解はその解釈,神異は神通力,習禅は座禅の実践,明律は戒律の研究,亡身は生身供養,誦経は経典の暗誦,興福は社会福祉,経師は宗教音楽,唱導は説法・教化である。道宣は,神異を感通に,亡身を遺身に,誦経を読誦に改め,経師をやめて,護法の一科を新設する。賛寧は,唱導を雑科とする以外すべて道宣に従っていて,そこに時代の変化をみることができる。
 護法は,道教徒の排仏に抗し仏法を守ることである。唐朝は李氏の出身で,老子と祖先を同じくするというので,道士が中央に進出する。 仏教の大蔵経にならう,道教の経典も出そろう。太子令傅奕 (ふえき) の排仏に対し,護法僧法琳が〈弁正論〉を上進して,これを論破する。 〈弁正論〉は,後漢以来の仏教と道教の論争を軸とするユニークな中国仏教史である。道宣も,この論争に加わっている。 《続高僧伝》の編集は,そんな護法の情熱によって一貫される。 《宋高僧伝》も,これを受ける。
  3 種の《高僧伝》を通して,同じ十科に分類される高僧の員数の増減をみると,それぞれの時代の問題を一目に鳥瞰することができる。最初に,高い員数を示す訳経や義解僧の動きは,中国仏教のもっとも大きい特色である。内容的に,訳経は胡僧,義解は漢僧が多い。それらがしだいに,習禅や明律,感通,護法という,漢僧中心の実践に移るのである。 《宋高僧伝》のごとき習禅と感通が,全体の半数に近づく。詳しくみると,習禅や感通と同じ傾向の人々が,他の分野のすべてに散在する事実がある。十科の分類は,すでに解体する。三蔵法師の来化がとだえ,仏典のすべてを漢文に翻してしまった中国仏教は,ここではじめて受容の域を出る。中国民族の仏教として,禅と浄土教が宋以後の主流となり,新しい居士仏教の時代となるのである。
[教相判釈と宗派]
 もともと六朝より隋・唐の仏教は,教相判釈の仕事を中心に展開する。 教相判釈とは,その初伝より当事者の時代まで,前後何百年かにわたって陸続と漢文に翻訳された,すべての仏教経典を総合し体系づけることによって,教祖仏陀の根本精神を明らかにしようとする方法である。成立が異なり,伝来も翻訳者も異なる,大小乗の無数の仏典を,すべて同じ仏陀の一代の説法として,解釈するのである。そこには,明らかに大きい矛盾がある。経典は,同じ仏陀の言葉であるが,説法の相手が異なり,事情が異なる。つまり,仏陀の 30 歳より 80 歳まで,50 年という時の開きがある。そんな時の言葉のゆえに,説き方がちがうのは当然である。問題は,何が仏陀の根本真実であったか。根本真実と,時の言葉としての方便のちがいを,見きわめる必要があった。教相判釈は,そのことを問うのであり,もっとも中国的な学問となる。
 教相判釈の典型は,隋の天台智百(ちぎ)が集大成する五時八教論である。それは,この国はじめての一つの宗派, 天台宗の開創をも意味する。天台の五時八教論は,先にいうクマーラジーバが訳する《妙法蓮華経》を真実とし,他のすべての仏典を,その方便として体系づける。仏陀は《法華経》の根本真実を明かすために,人々の理解能力に応じ,その向上をはかって,さまざまの仏典を説く。そこに,五つの段階,すなわち時の教えがある。華厳時,阿含 (鹿苑) 時,方等時,般若時,法華・涅槃時である。華厳時は,仏陀の自己の悟りの内容を,相手の能力を顧みることなしに一方的に告白したもの。 《阿含経》はこれをもっとも能力の低い人々の,世間的な生活に応じて説き明かしたもの。方等は大乗の初歩であり,阿含が小乗といわれるのに対して小乗より大乗への向上をはかるもの。 《般若経》はそんな大乗への徹底であり極意であるが,先の方等につづくために,すべて否定的な傾きをもつ。これに反して,《法華経》《涅槃経》は,仏陀晩年のもっとも円熟した思想をあらわし,すべてを包容し肯定する,総合を特色とする。要するに,五時とは,教化の秩序であり,八教は,そんな教化の方法をより詳しく分析したもの,特に五とか八とかいう数字は,農耕社会に特有の四季の区別と,その総合の知恵よりきている。春は種子を下ろし,夏は育て,秋は収め,冬は次の春の種子を蔵する,そんな不断の循環にかたどって仏教の思想を受けとめたものが,五時八教の教判にほかならぬ。問題は,そんな教相判釈の仕事が,仏陀の言葉のすべてを衆生教化の方便とする,中国的な発想そのものにある。天台の五時八教論に対し,華厳の五教十宗判,三論宗の大小二教判,密教の顕密二教と《十住心論》など,他の教相判釈についても,事情はほぼ同じである。
 教化は,国主の仕事である。 仏教は,国主の教化を助ける御用哲学となる。時の政治に奉仕する,輔教の哲学となるほかはない。現実の苦悩を解脱し,みずから涅槃の悟りを得ることをねがった仏教は,この国に来て大きく変化する。中国の政治思想に合う,仏教のみが受容される。中国仏教に固有の宗派の成立もまたそのことに関係する。ひっきょう,教化の方法がゆきとどき,一人も漏らさぬ体系化が完成すると,方便の言葉だけが空転し,仏教の真実はその所在を隠す。衆生も,その存在意識を失う。教えは,人々を縛る枷鎖 (かさ) となる。善意ゆえに,苦悩は倍加する。
 天台や華厳の教相判釈に対し,まったく新しい立場より,本来の仏教を考え直そうとする運動が起こり,幾度か試行錯誤をかさねる。信行の三階教や,道綽 (どうしやく)・善導の浄土教はその一つで,いずれも教相の総合より,それらに対する適応を欠く,一般民衆の能力にふさわしい,独自の実践を選ぶところに特色をもつ。時の政治に背をむけたために,三階教は弾圧につぶれ,浄土教はしだいに変質の方向をとり,中国よりも日本で徹底する。要するに,従来の教相判釈が,教化の体系に向かうのに対し,今は教化される側の機の反省に向かうのであり,これが前後 500 年を超える中国仏教史前半の結論となる。
 そんな唐代仏教の動きのうちで,大きい画期となったのは, 玄奘 (げんじよう)の唯識法相宗である。玄奘は,天台の教学が大乗の初歩とする,瑜伽唯識を再編するのであり,みずからインドに赴いて,インド本土の後期大乗を学ぶ。とりわけ玄奘の運動は,世界国家としての唐朝の草創と時を同じくする。前後 16 年におよぶインド西域旅行の成果を記す彼の《大唐西域記》は,前漢以来の東西文明史を総括し,新しい時代を開くものとして,高く評価される。唯識法相宗は,そうした歴史地理に裏付けられて,すでに中国の風土に同化してしまった後漢以来の旧仏教に反省を求めた。唐代以後の中国はもとより,新羅や日本の仏教史に大きく作用するのは当然である。クマーラジーバの翻訳を旧訳,玄奘以後を新訳とよぶ。新羅も日本の仏教も,新訳の受容を最初とした。
 一方,唐代仏教は,禅の運動によってさらに変質する。 禅は,従来の翻訳仏教に対し,仏陀の教えの外にあることを自任する。自分は一生何も説かなかったという,仏陀の晩年の述懐を伝える《楞伽 (りようが) 経》によって,方便の言葉ならぬ,その本心に直参しようとするのである。禅は,そうした仏陀の心を伝えたインド僧菩提達磨を初祖とし, 〈不立文字〉〈以心伝心〉を主張して,独自の仏教史を説く。禅もまた,玄奘の場合と同じように,あまりにも中国化した旧仏教を,本来のところにもどす復古であるが,それが同時に中国民族自身の新しい宗教の創造となるところが異なる。宋代以後の中国仏教は,そんな禅を中心に発展するのだ。
 もともと,宋代は中国文明の大きい再編期に当たる。 仏教も,そのうちに含まれる。南宋の朱熹 (子) に集大成される新儒教と禅の運動のあいだには,共通する発想がはなはだ多い。新道教についても,事情は同じである。かつて初期の道教の形成と対決し,相互に融合することによって,この風土に定着した仏教は,今やこの国固有の儒教と融合し,新しい総合に成功するのであり,成果は宋代より明代の陽明学におよんで深まる。いわゆる三教一致論が,それである。儒家はそろって仏教を排撃し,儒家の優位を説くけれども, 仏教は三教一致をもって,これに答えた。 仏教を内学,儒教を外学とする思考は,すでに六朝に始まる。宋の士大夫たちは,公的には仏教を異端とし,無用として排除しつつ,個人や家庭の立場では,つねに仏教による修養と先祖の追薦を怠らず,有縁の禅僧を迎えて,経典や語録の学習につとめた。
[居士仏教と中国仏教の様相]
 宋以後の近世仏教は,従来の宗派や教学のように,出家のものというより一般社会の各層に進出して,人々の日常生活を導く職業倫理となる。花祭や盂蘭盆会 (うらぼんえ),冬至冬夜の儀式など,年中行事と化した仏教儀礼が多い。日本では,春秋の彼岸会 (ひがんえ) がこれに加わる。それらは単に宗派の教義や,信仰の問題にとどまらぬ。一般社会の風俗となって,人々の心の底に沈潜する。いわゆる禅文化の創造は,中国より日本で顕著だが,そうした端緒はすでに近世中国にあった。
 明代以後の中国仏教は,必ずしも禅に限らない。事実上の仏教の担い手は,出家比丘よりも居士の手に移る。彼らは,むしろ積極的に旧教学の学習にはげむ。華厳や天台,唯識法相の学問を再編し,近代の開幕に参加する。そして出家比丘も,同じ傾向をとる。明代の四大高僧とよばれる雲棲朝宏 (うんせいしゆこう),紫柏真可 (しはくしんか),居山徳清 (かんざんとくせい),藕益智旭 (ぐうえきちきよく) らが,広く各派の教学を起こして,高い研究成果を収めるのは,居士仏教の展開と同時である。いずれも広く近世社会の苦悩に対決しつつ,あるいは新しく知られるキリスト教に学んで,僧俗一貫の結社を起こし,あるいは《大蔵経》の開版をすすめて,学問研究の気運を起こすなど,幅広い社会活動が知られる。進んで社会改革に身を投じ,獄死するものもある。近代思惟の先駆とされる李卓吾が,深く仏教学の研究に沈潜するのも,そんな時代のことである。康有為,譚嗣同 (たんしどう),梁啓超,章炳麟 (しようへいりん) (太炎) など,清朝末期の革命思想家たちにも, 仏教学の成果がある。
 注目してよいのは,彼らの戒律思想である。中国仏教の戒律は,つねに利他的,献身的思考で一貫される。もともと,戒律は出家と在家を結ぶ僧伽の規則である。 仏教の行われるところ,一方に出家あり,これを支える在家の教団がある。出家の規則は,古代より現代まで,さらに地域によって変わることがないが,僧伽の観念には振幅がある。国家単位で仏教を受容している東南アジア諸国と,中国の場合は事情が異なる。中国では,かつて仏教を国教とすることがなかった。むしろ,外国の宗教として,異端視するのが一般である。 仏教が中国民族の共感を得たのは,個々の出家比丘の厳しい持戒の精神と,対他的寛容の態度による。人間の本性を善とし,相互の善意を信ずる思考は,儒教にもっとも顕著であるが,中国では仏教もまたこれに同化する。インド仏教の一切皆苦や,日本仏教の罪業意識に比して,中国の仏教ははなはだ楽天的である。
 《涅槃経》が教える,一切衆生悉有仏性の説を,人々は草木や無生物にまで拡大した (草木国土悉皆成仏)。この国独自の,天人一貫,万物一体の共感である。戒律もまた,人々の善意にもとづいて,インド仏教のもつ否定的禁止的性格を改め,本有無作の哲学に変わる。仏性が,新しい戒律の根拠となる。 仏教はこの国に来て,大乗菩醍戒を生むのである。先にいうように,僧伽は僧俗和合の意であるが,中国語の僧は,むしろ個々の出家を指すこととなる。僧は,比丘や沙門と同義に使われる。戒律もまた,個人の自覚が中心となる。後漢の襄楷が,桓帝に呈した上書のうちに,仏や沙門の清潔をたたえるのは,そんな仏教に対する中国民族の期待をあらわす。すでに知られていたはずの,多くの大小乗経典のうちから,襄楷は《四十二章経》の数章を選ぶのである。後に,自利と利他,他力と自力の思考が教相の問題になるのも,同じ事情による。
 要するに,中国仏教は,教団の戒律よりも個人の自覚を先とした。自律自戒を尊ぶゆえに,それは一種の倫理宗教となる。大乗菩醍戒の運動は,日本に来てさらに徹底し,最澄による小乗戒の廃除と,大乗戒壇の独立を見る。日本仏教は,大乗戒に統一されるが,中国では大小乗の二つの戒律を平行して保持し,その融合をはかることに特色をもつ。くりかえし国家権力による弾圧と廃仏令をうけつつ, 仏教は個人の倫理道徳として,その真理性を深めた。前後 2000 年,すでに完全な世界であった中国は, 仏教によって近代を迎える。とくに,唐代以後の禅仏教は,小乗の戒律が禁じた生産労働を,みずからの修行として肯定する。僧がみずから労働すれば,僧俗の区別が消えて,新しい職業倫理を導くこととなる。清朝末期より中華人民共和国の誕生まで, 妓産興学とよばれる新しい廃仏運動下にあって, 仏教が今日に生きのびたのは,寺院の外に出た居士仏教と,出家僧の自活の力である。社会主義体制下にある現代中国でも, 仏教は対外友好の重要な契機となっている。
柳田 聖山
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