ユダヤ教 ユダヤきょう Judaism
古代オリエントに発生し,現在も約 1500 万人の信徒を擁する世界最古級の宗教。その信仰によると,ユダヤ教とは,唯一の神の啓示を受けた民族がたどった歴史の軌跡にほかならない。事実,ユダヤ教の教義は,民族史の中で生起した事件と関連して形成されてきた。したがって,まず民族史を語らずにユダヤ教を説明することはできない。
【歴史】
[古代イスラエル時代]
前 2 千年紀初頭に,神に選ばれたヘブライ人アブラハムが, カナン(のちのパレスティナ) へ移住したできごとによって,ユダヤ民族の前史は始まる。遊牧民アブラハムは,彼の子孫にカナンの地を与えるという神の約束を受けた (〈アブラハム契約〉)。この契約に基づき,カナンは〈選民〉ユダヤ民族の〈約束の地〉になった。族長アブラハムの孫ヤコブは,別名をイスラエルと称し,のちに 12 部族の名祖となった 12 人の子らの父であったが,飢饉を逃れてエジプトへ移住した。その子孫がエジプト人の奴隷にされて苦役に服したときに,族長の神と名のる主の顕現を受けたモーセが,彼らを率いてエジプトを脱出した。彼らは紅海でエジプト軍の追跡から奇跡的に救われたのち,シナイ山において主と契約を結んだ (〈シナイ契約〉)。この契約に基づき,主はイスラエルの〈唯一の神〉,イスラエルは主の〈選民〉となった。 〈シナイ契約〉を確認するために,モーセを仲保者として与えられた律法は,民族的・宗教的共同体として成立したイスラエルの生き方を決定する基本法となった。
前 13 世紀末に,イスラエル人はカナンに侵入して〈約束の地〉に定着したが,前 1000 年ころ,ユダ族出身のダビデが王となり,シリア・パレスティナ全域にまたがる大帝国を建設し, エルサレムを首都に定めた。その子ソロモンが,エルサレムのシオンの丘に主の神殿を建立すると,主はダビデ家をイスラエルの支配者として選び,シオンを主の名を置く唯一の場所に定める約束をした,と理解された (〈ダビデ契約〉)。ここから,〈メシア〉 (原義は〈即位に際して油を注がれた王〉) が,世の終りにダビデ家の子孫から現れるという期待と,エルサレム (シオン) を最も重要な聖地とする信仰が生じた。
[〈ラビのユダヤ教〉時代]
前 586 年にユダ王国が滅亡し,エルサレム神殿が破壊されて古代イスラエル時代は終わる。その後約半世紀続いたバビロン捕囚の苦難を通して,古代イスラエルの宗教的遺産を民族存続の基本原理とする共同体〈ユダヤ人〉が成立した。前 538 年にペルシアのキュロス 2 世が捕囚民の解放令を発布すると,一部のユダヤ人は故国に帰還して,エルサレム神殿を再建した。これを第 2 神殿と呼ぶ。以後,後 70 年にローマ人が第 2 神殿を破壊するまで,ユダヤ人は,エルサレム神殿を中心とする民族的・宗教的共同体として自己形成をした。しかし,この共同体の独自の生き方を決定したのは,前 5 世紀中葉に,バビロニアから〈モーセの律法〉の巻物を携えて来たエズラであった。彼は律法を公衆の面前で朗読すると同時に解説した。エズラは,この時代までに変更不可能な聖典として成立していた成文律法を,変化する現実に適用する方法を教えた最初の律法学者であった。エズラ以後,ユダヤ人は,成文律法の解釈のほかに,より広範囲な権威に基づいて決定された法規にも,成文律法と同等の神聖な権威を認め,これを口伝律法と呼んだ。
以後 1000 年間に,口伝律法は発展し,膨大な集積となった。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者が, ラビという尊称で呼ばれたことから,この時代に形成されたユダヤ教を,特に〈ラビのユダヤ教〉と呼ぶ。長い間,口伝律法は口頭で伝承されていたが,後 200 年ころ,総主教ユダ (イェフダ) によってミシュナに集成された。その後さらに 300 年間,ミシュナの本文に基づく口伝律法の研究が積み重ねられた結果, 4 世紀末に〈エルサレム (別名パレスティナ)・タルムード〉, 5 世紀末に〈バビロニア・タルムード〉の編纂が完結した。ミシュナとタルムードは,成文律法を中心として 1 世紀末に成立した旧約聖書とともに,ユダヤ教の聖典となった。
〈ラビのユダヤ教〉時代は,ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代であった。まず,前 4 世紀末,アレクサンドロス大王の東征によって引き起こされたヘレニズム化の波が,政治的・文化的衝撃となってユダヤ人共同体の存立を根底から揺るがした。特にセレウコス朝シリアの王アンティオコス 4 世は,ユダヤを征服すると,ユダヤ教を禁止してヘレニズム化政策を強行した。信仰を守るため蜂起したユダヤ人は,マカベア党を中心とする反乱 (マカベア戦争) を起こし,長い苦闘の末,マカベア (ハスモン) 家によるユダヤの独立を回復した。しかし前 63 年には,ユダヤはローマの属領となり,ローマの属王ヘロデの支配を受けた。過酷なヘロデの支配に続いて,ローマ人総督が悪政の限りを尽くしたため,ついにユダヤ人は大反乱を起こした (ユダヤ戦争。66‐70 年)。一時はローマ軍の排除に成功したが,結局反乱は鎮圧され,エルサレム神殿は完全に破壊されてしまった。
このときまで,ユダヤ人は神殿祭儀を宗教活動の中心とみなしてきた。しかし,すでにバビロン捕囚時代から,神殿祭儀なしに民族的・宗教的共同体を維持する努力が払われてきた。その結果,第 2 神殿時代を通じて,礼拝と律法研究のために, 安息日 (シャバット) ごとに各居住地の成員が集まるシナゴーグ(集会所) が発達した。 パリサイ派律法学者たちは,シナゴーグを活動の本拠としていたため,神殿の破壊から本質的な打撃を被らなかった。彼らは海岸地方のヤブネに集まり,それまで神殿にあったサンヘドリン(議会) を再興して,律法と律法解釈に基づくユダヤ人共同体の形成・維持を続行した。第 2 反乱 (132‐135) によってヤブネが破壊されると,ユダヤ人共同体の中心はガリラヤに移り, 5 世紀初頭に,キリスト教を国教とするローマ帝国の弾圧によってユダヤ総主教職が廃止されるまで続いた。
ペルシア時代以来,多数のユダヤ人が,パレスティナ本国以外の世界各地に居住していた。彼らをディアスポラ(離散民) と呼ぶ。ディアスポラは,ヘレニズム・ローマ時代に大発展を遂げ, 1 世紀に,その人口は本国のユダヤ人の数十倍に達していた。大部分はローマ帝国内にいたが,再度にわたる反乱の際に,ディアスポラも厳しい弾圧を受けたため,ローマ帝国の支配圏外にあったバビロニアのディアスポラが徐々にユダヤ人世界の中心になっていった。特に 5 世紀以降は,バビロニア各地にあった教学院 (イェシバーyeshivah) に集まった律法学者たちが, 〈ラビのユダヤ教〉を完成する任務を遂行した。その結果,ユダヤ民族・宗教共同体の歴史的軌跡であり,その生き方の基準である口伝律法の集大成として, 〈バビロニア・タルムード〉が編纂された。 ⇒聖書∥タルムード
[中世から現代まで]
中世以後,現代に至るユダヤ教は,〈ラビのユダヤ教〉が確立した教義の展開である。この間に,ユダヤ人世界の中心は,周辺世界の情勢に応じて世界各地を転々と移った。 10 世紀まで,前時代の伝統を継承したバビロニアが中心であったが,それ以後ユダヤ人共同体は,イスラム教徒が支配する北アフリカとスペインで繁栄した。当時,カライ派Karaitesと呼ばれるセクトが発生し,口伝律法の権威を否定して各自が成文律法 (旧約聖書) を直接解釈するべきであると説いた。一時,大勢力になったが,結局,余りにも厳格な律法主義に陥り,広く民衆の支持をえることができなかったため急速に衰退した。
ユダヤ人世界には,11 世紀までに,スペインを中心とするイスラム教圏のスファラド系 (セファルディム) と,ヨーロッパ・キリスト教圏のアシュケナーズ系 (アシュケナジム) の二つの大きな文化的伝統が確立した。 10 世紀以降,アシュケナーズ系ユダヤ学がライン川流域地方で盛んになり,西ヨーロッパ全域に大きな影響を及ぼした。中世最大のユダヤ学者マイモニデスは,スファラド系哲学とアシュケナーズ系ユダヤ学を総合した人物である。第 1 回十字軍 (1096‐99) とともに,キリスト教ヨーロッパは,血腥 (なまぐさ) いユダヤ人迫害の歴史を開始した。以後,西ヨーロッパ各地で迫害を受け,追放されたユダヤ人は大挙して東ヨーロッパに逃亡した。その結果,中世以後 20 世紀前半まで,東ヨーロッパがアシュケナーズ系文化の中心となった。
他方,キリスト教化したスペインから 15 世紀末に追放されたスファラド系ユダヤ人は,中東各地に移住した。その一部が定着したパレスティナのツファットは, 16 世紀にカバラ神秘主義の中心となった。カバラの起源は,ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ人が著作した黙示文学である。これらの著作は,現在を悪が支配する世界とみなし,やがて到来する世の終りに,神が悪の力を滅ぼして正義を確立するという世界観と,神秘的表象を用いる点に特徴がある。現世における厳しい迫害に絶望した中世のユダヤ人が,終末時に来臨するメシアが民族と宇宙を救うという黙示思想に共感して,カバラ神秘主義を発展させたのである。しかし,終末の救済の秘儀にあずかるためには,律法を順守しなければならないというカバラの結論は,正統的な〈ラビのユダヤ教〉への回帰にほかならなかった。
カバラ神秘主義の影響下に,16 ~ 17 世紀には,自称メシアが各地で出現した。その一人,サバタイ・ツビのメシア運動は,一時全ユダヤ人世界を巻き込むほどの大成功を収めた。しかし,この偽メシアはトルコのスルタンに逮捕されると,イスラム教に改宗した (1666)。サバタイ騒動が残した深刻な精神的危機を克服する試みの中から,東ヨーロッパでハシディズム運動が起こった。ウクライナの貧民出身のバアル・シェムトーブBaal Shem Tov (1698‐1760) は法悦状態に没入し,祈裳において神と交わる神秘的救いの重要性を説いて,無味乾燥な律法主義にあきていたユダヤ人大衆の心をつかんだ。しかし,正統派は,律法研究よりも法悦を重視するハシディズムを異端とみなし, 〈ミトナグディームMitnaggedim〉 (〈反対者〉の意) という運動を起こした。半世紀に及ぶ激しい争いののち,19 世紀初頭になると,両者は急速に和解した。帝政ロシアの同化政策によるユダヤ人共同体の分解と, ハスカラーHaskalah (ユダヤ啓蒙主義) 思想によるユダヤ教的伝統の破壊という,内外からの危機が迫ったからである。
17 世紀後半に,西ヨーロッパにおいて,宗教的熱狂主義が終わり,中央集権的絶対主義と重商主義に基づく世俗的近代国家の形成が始まると,中世の宗教的伝統から個人の解放を目ざす啓蒙主義が,時代を支配する思潮となった。その影響下に,ユダヤ人世界においては,ハスカラーと呼ばれる啓蒙主義運動が起こった。カントと並ぶ当代最大の哲学者として尊敬されたM.メンデルスゾーンを精神的父と仰ぐユダヤ人啓蒙主義者は,ユダヤ人固有の文化を捨ててヨーロッパの世俗文化を学ぶことが,中世以来の社会的差別からユダヤ人を解放する前提であると考えた。 19 世紀に,民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設した。
しかし,ヨーロッパの民族主義はユダヤ人の同化を拒否し,ユダヤ人をスケープゴートにして激しいアンチ・セミティズム運動を起こした。 19 世紀後半,帝政ロシア末期の混乱の中で,ユダヤ人を無差別に殺戮 (さつりく) するポグロムが広がったため,多数のユダヤ人がアメリカに逃げた。同時に,ユダヤ民族主義シオニズムが勃興し,それをT.ヘルツルが政治運動に組織した。第 1 次大戦後,ヒトラーのナチス・ドイツは,組織的アンチ・セミティズム政策により,ユダヤ人 600 万人を殺戮した。この暴挙に衝撃を受けた世界は第 2 次大戦後の 1948 年に,シオニズムに基づく新生ユダヤ国家として,イスラエルの独立を承認した。しかし,ユダヤ人に国土を奪われたと主張するパレスティナ人と,それを支援するアラブ諸国は承認を拒否し,イスラエルとアラブ諸国の不幸な戦争状態は今日まで続いている。
古代オリエントに発生し,現在も約 1500 万人の信徒を擁する世界最古級の宗教。その信仰によると,ユダヤ教とは,唯一の神の啓示を受けた民族がたどった歴史の軌跡にほかならない。事実,ユダヤ教の教義は,民族史の中で生起した事件と関連して形成されてきた。したがって,まず民族史を語らずにユダヤ教を説明することはできない。
【歴史】
[古代イスラエル時代]
前 2 千年紀初頭に,神に選ばれたヘブライ人アブラハムが, カナン(のちのパレスティナ) へ移住したできごとによって,ユダヤ民族の前史は始まる。遊牧民アブラハムは,彼の子孫にカナンの地を与えるという神の約束を受けた (〈アブラハム契約〉)。この契約に基づき,カナンは〈選民〉ユダヤ民族の〈約束の地〉になった。族長アブラハムの孫ヤコブは,別名をイスラエルと称し,のちに 12 部族の名祖となった 12 人の子らの父であったが,飢饉を逃れてエジプトへ移住した。その子孫がエジプト人の奴隷にされて苦役に服したときに,族長の神と名のる主の顕現を受けたモーセが,彼らを率いてエジプトを脱出した。彼らは紅海でエジプト軍の追跡から奇跡的に救われたのち,シナイ山において主と契約を結んだ (〈シナイ契約〉)。この契約に基づき,主はイスラエルの〈唯一の神〉,イスラエルは主の〈選民〉となった。 〈シナイ契約〉を確認するために,モーセを仲保者として与えられた律法は,民族的・宗教的共同体として成立したイスラエルの生き方を決定する基本法となった。
前 13 世紀末に,イスラエル人はカナンに侵入して〈約束の地〉に定着したが,前 1000 年ころ,ユダ族出身のダビデが王となり,シリア・パレスティナ全域にまたがる大帝国を建設し, エルサレムを首都に定めた。その子ソロモンが,エルサレムのシオンの丘に主の神殿を建立すると,主はダビデ家をイスラエルの支配者として選び,シオンを主の名を置く唯一の場所に定める約束をした,と理解された (〈ダビデ契約〉)。ここから,〈メシア〉 (原義は〈即位に際して油を注がれた王〉) が,世の終りにダビデ家の子孫から現れるという期待と,エルサレム (シオン) を最も重要な聖地とする信仰が生じた。
[〈ラビのユダヤ教〉時代]
前 586 年にユダ王国が滅亡し,エルサレム神殿が破壊されて古代イスラエル時代は終わる。その後約半世紀続いたバビロン捕囚の苦難を通して,古代イスラエルの宗教的遺産を民族存続の基本原理とする共同体〈ユダヤ人〉が成立した。前 538 年にペルシアのキュロス 2 世が捕囚民の解放令を発布すると,一部のユダヤ人は故国に帰還して,エルサレム神殿を再建した。これを第 2 神殿と呼ぶ。以後,後 70 年にローマ人が第 2 神殿を破壊するまで,ユダヤ人は,エルサレム神殿を中心とする民族的・宗教的共同体として自己形成をした。しかし,この共同体の独自の生き方を決定したのは,前 5 世紀中葉に,バビロニアから〈モーセの律法〉の巻物を携えて来たエズラであった。彼は律法を公衆の面前で朗読すると同時に解説した。エズラは,この時代までに変更不可能な聖典として成立していた成文律法を,変化する現実に適用する方法を教えた最初の律法学者であった。エズラ以後,ユダヤ人は,成文律法の解釈のほかに,より広範囲な権威に基づいて決定された法規にも,成文律法と同等の神聖な権威を認め,これを口伝律法と呼んだ。
以後 1000 年間に,口伝律法は発展し,膨大な集積となった。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者が, ラビという尊称で呼ばれたことから,この時代に形成されたユダヤ教を,特に〈ラビのユダヤ教〉と呼ぶ。長い間,口伝律法は口頭で伝承されていたが,後 200 年ころ,総主教ユダ (イェフダ) によってミシュナに集成された。その後さらに 300 年間,ミシュナの本文に基づく口伝律法の研究が積み重ねられた結果, 4 世紀末に〈エルサレム (別名パレスティナ)・タルムード〉, 5 世紀末に〈バビロニア・タルムード〉の編纂が完結した。ミシュナとタルムードは,成文律法を中心として 1 世紀末に成立した旧約聖書とともに,ユダヤ教の聖典となった。
〈ラビのユダヤ教〉時代は,ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代であった。まず,前 4 世紀末,アレクサンドロス大王の東征によって引き起こされたヘレニズム化の波が,政治的・文化的衝撃となってユダヤ人共同体の存立を根底から揺るがした。特にセレウコス朝シリアの王アンティオコス 4 世は,ユダヤを征服すると,ユダヤ教を禁止してヘレニズム化政策を強行した。信仰を守るため蜂起したユダヤ人は,マカベア党を中心とする反乱 (マカベア戦争) を起こし,長い苦闘の末,マカベア (ハスモン) 家によるユダヤの独立を回復した。しかし前 63 年には,ユダヤはローマの属領となり,ローマの属王ヘロデの支配を受けた。過酷なヘロデの支配に続いて,ローマ人総督が悪政の限りを尽くしたため,ついにユダヤ人は大反乱を起こした (ユダヤ戦争。66‐70 年)。一時はローマ軍の排除に成功したが,結局反乱は鎮圧され,エルサレム神殿は完全に破壊されてしまった。
このときまで,ユダヤ人は神殿祭儀を宗教活動の中心とみなしてきた。しかし,すでにバビロン捕囚時代から,神殿祭儀なしに民族的・宗教的共同体を維持する努力が払われてきた。その結果,第 2 神殿時代を通じて,礼拝と律法研究のために, 安息日 (シャバット) ごとに各居住地の成員が集まるシナゴーグ(集会所) が発達した。 パリサイ派律法学者たちは,シナゴーグを活動の本拠としていたため,神殿の破壊から本質的な打撃を被らなかった。彼らは海岸地方のヤブネに集まり,それまで神殿にあったサンヘドリン(議会) を再興して,律法と律法解釈に基づくユダヤ人共同体の形成・維持を続行した。第 2 反乱 (132‐135) によってヤブネが破壊されると,ユダヤ人共同体の中心はガリラヤに移り, 5 世紀初頭に,キリスト教を国教とするローマ帝国の弾圧によってユダヤ総主教職が廃止されるまで続いた。
ペルシア時代以来,多数のユダヤ人が,パレスティナ本国以外の世界各地に居住していた。彼らをディアスポラ(離散民) と呼ぶ。ディアスポラは,ヘレニズム・ローマ時代に大発展を遂げ, 1 世紀に,その人口は本国のユダヤ人の数十倍に達していた。大部分はローマ帝国内にいたが,再度にわたる反乱の際に,ディアスポラも厳しい弾圧を受けたため,ローマ帝国の支配圏外にあったバビロニアのディアスポラが徐々にユダヤ人世界の中心になっていった。特に 5 世紀以降は,バビロニア各地にあった教学院 (イェシバーyeshivah) に集まった律法学者たちが, 〈ラビのユダヤ教〉を完成する任務を遂行した。その結果,ユダヤ民族・宗教共同体の歴史的軌跡であり,その生き方の基準である口伝律法の集大成として, 〈バビロニア・タルムード〉が編纂された。 ⇒聖書∥タルムード
[中世から現代まで]
中世以後,現代に至るユダヤ教は,〈ラビのユダヤ教〉が確立した教義の展開である。この間に,ユダヤ人世界の中心は,周辺世界の情勢に応じて世界各地を転々と移った。 10 世紀まで,前時代の伝統を継承したバビロニアが中心であったが,それ以後ユダヤ人共同体は,イスラム教徒が支配する北アフリカとスペインで繁栄した。当時,カライ派Karaitesと呼ばれるセクトが発生し,口伝律法の権威を否定して各自が成文律法 (旧約聖書) を直接解釈するべきであると説いた。一時,大勢力になったが,結局,余りにも厳格な律法主義に陥り,広く民衆の支持をえることができなかったため急速に衰退した。
ユダヤ人世界には,11 世紀までに,スペインを中心とするイスラム教圏のスファラド系 (セファルディム) と,ヨーロッパ・キリスト教圏のアシュケナーズ系 (アシュケナジム) の二つの大きな文化的伝統が確立した。 10 世紀以降,アシュケナーズ系ユダヤ学がライン川流域地方で盛んになり,西ヨーロッパ全域に大きな影響を及ぼした。中世最大のユダヤ学者マイモニデスは,スファラド系哲学とアシュケナーズ系ユダヤ学を総合した人物である。第 1 回十字軍 (1096‐99) とともに,キリスト教ヨーロッパは,血腥 (なまぐさ) いユダヤ人迫害の歴史を開始した。以後,西ヨーロッパ各地で迫害を受け,追放されたユダヤ人は大挙して東ヨーロッパに逃亡した。その結果,中世以後 20 世紀前半まで,東ヨーロッパがアシュケナーズ系文化の中心となった。
他方,キリスト教化したスペインから 15 世紀末に追放されたスファラド系ユダヤ人は,中東各地に移住した。その一部が定着したパレスティナのツファットは, 16 世紀にカバラ神秘主義の中心となった。カバラの起源は,ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ人が著作した黙示文学である。これらの著作は,現在を悪が支配する世界とみなし,やがて到来する世の終りに,神が悪の力を滅ぼして正義を確立するという世界観と,神秘的表象を用いる点に特徴がある。現世における厳しい迫害に絶望した中世のユダヤ人が,終末時に来臨するメシアが民族と宇宙を救うという黙示思想に共感して,カバラ神秘主義を発展させたのである。しかし,終末の救済の秘儀にあずかるためには,律法を順守しなければならないというカバラの結論は,正統的な〈ラビのユダヤ教〉への回帰にほかならなかった。
カバラ神秘主義の影響下に,16 ~ 17 世紀には,自称メシアが各地で出現した。その一人,サバタイ・ツビのメシア運動は,一時全ユダヤ人世界を巻き込むほどの大成功を収めた。しかし,この偽メシアはトルコのスルタンに逮捕されると,イスラム教に改宗した (1666)。サバタイ騒動が残した深刻な精神的危機を克服する試みの中から,東ヨーロッパでハシディズム運動が起こった。ウクライナの貧民出身のバアル・シェムトーブBaal Shem Tov (1698‐1760) は法悦状態に没入し,祈裳において神と交わる神秘的救いの重要性を説いて,無味乾燥な律法主義にあきていたユダヤ人大衆の心をつかんだ。しかし,正統派は,律法研究よりも法悦を重視するハシディズムを異端とみなし, 〈ミトナグディームMitnaggedim〉 (〈反対者〉の意) という運動を起こした。半世紀に及ぶ激しい争いののち,19 世紀初頭になると,両者は急速に和解した。帝政ロシアの同化政策によるユダヤ人共同体の分解と, ハスカラーHaskalah (ユダヤ啓蒙主義) 思想によるユダヤ教的伝統の破壊という,内外からの危機が迫ったからである。
17 世紀後半に,西ヨーロッパにおいて,宗教的熱狂主義が終わり,中央集権的絶対主義と重商主義に基づく世俗的近代国家の形成が始まると,中世の宗教的伝統から個人の解放を目ざす啓蒙主義が,時代を支配する思潮となった。その影響下に,ユダヤ人世界においては,ハスカラーと呼ばれる啓蒙主義運動が起こった。カントと並ぶ当代最大の哲学者として尊敬されたM.メンデルスゾーンを精神的父と仰ぐユダヤ人啓蒙主義者は,ユダヤ人固有の文化を捨ててヨーロッパの世俗文化を学ぶことが,中世以来の社会的差別からユダヤ人を解放する前提であると考えた。 19 世紀に,民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設した。
しかし,ヨーロッパの民族主義はユダヤ人の同化を拒否し,ユダヤ人をスケープゴートにして激しいアンチ・セミティズム運動を起こした。 19 世紀後半,帝政ロシア末期の混乱の中で,ユダヤ人を無差別に殺戮 (さつりく) するポグロムが広がったため,多数のユダヤ人がアメリカに逃げた。同時に,ユダヤ民族主義シオニズムが勃興し,それをT.ヘルツルが政治運動に組織した。第 1 次大戦後,ヒトラーのナチス・ドイツは,組織的アンチ・セミティズム政策により,ユダヤ人 600 万人を殺戮した。この暴挙に衝撃を受けた世界は第 2 次大戦後の 1948 年に,シオニズムに基づく新生ユダヤ国家として,イスラエルの独立を承認した。しかし,ユダヤ人に国土を奪われたと主張するパレスティナ人と,それを支援するアラブ諸国は承認を拒否し,イスラエルとアラブ諸国の不幸な戦争状態は今日まで続いている。