【ひろゆき&成田悠輔】人生の成功って何?衝撃人生【金メダリスト•岩崎恭子】
バルセロナオリンピック_競泳女子200m平泳ぎ決勝
沼津市立第五中学校から日本大学三島高等学校を経て日本大学文理学部心理学科卒業。3姉妹の次女。3歳上の長姉が水泳をしていた影響で、岩崎も5歳から地元のスイミングスクールで水泳を習い始める[3]。
姉も高校1年次(1991年)にインターハイ女子100m・200m平泳ぎで2冠を達成した五輪候補選手だったが、岩崎も1990年(小学6年次)に100m平泳ぎで1分12秒79の短水路学童日本記録を樹立、1991年(中学1年次)に全国中学校水泳競技大会女子100m・200m平泳ぎで2冠を達成し(200mは2分31秒08で当時の大会新記録)、同年の日本選手権200m平泳ぎでも4位に食い込むなど、一気に頭角を現す[3][4]。
1992年バルセロナオリンピックの出場選手選考会を兼ねた同年4月の日本選手権女子100m・200m平泳ぎの両種目では、姉を破ってともに2位に入り、五輪出場権を獲得する。
バルセロナオリンピック
女子平泳ぎ種目では、日本選手権の100mと200mを共に制した粕谷恭子が期待の星であり、大会前の同種目世界ランキングで14位に過ぎなかった岩崎は「日本選手最年少」という点以外では全く注目されていない状況だった。本人も大会前に「決勝に残れればいい方だと思います。」とテレビで語っている。
競泳女子200m平泳ぎでは、予選で自己記録を3秒30、長崎宏子の持つ日本記録(2分29秒91)も2秒以上更新する2分27秒78の日本新記録を出し、当時の世界記録保持者で優勝候補のアニタ・ノール(アメリカ)に次ぐ全体2位で決勝に進出する。決勝では、ゴール寸前でノールを逆転し2分26秒65(当時の五輪新記録&自己の生涯ベスト記録)で金メダルを獲得[5]。
競泳女子200m平泳ぎでの金メダルは、1936年ベルリンオリンピックの前畑秀子以来、日本人として56年ぶり史上2人目の快挙達成だった(日本女子選手で競泳種目の五輪金メダリストは、1972年ミュンヘンオリンピックの100mバタフライの青木まゆみ以来20年ぶり3人目)。また、競泳では史上最年少(14歳6日)の金メダル獲得(2019年8月現在も競泳最年少記録)で、2020年東京オリンピックスケートボード女子ストリートで西矢椛が金メダルを獲得[注釈 1]するまで日本選手としての五輪メダル獲得の最年少記録でもあった[6]。
金メダルを獲得したレース直後のインタビューでは「今まで生きてた中で、一番幸せです。」[注釈 2][7]と語り、一躍時の人となった[8]。ノールとは持ちタイムが5秒73も離れていたため、本人もまさか自分が金メダルが取れるとは夢にも思わなかったという。
その他出場種目では、4x100mメドレーリレーで7位、100m平泳ぎでは13位だった。
バルセロナオリンピック後[編集]
バルセロナ五輪での金メダルにより日本全国から注目された一方で、ストーカー紛いの行為や嫌がらせ電話といった被害も受け、また五輪後に姉が不振に陥り競泳を辞めてしまったことで「金メダルなんて取らなければ良かった」[9]「練習せず結果が出なければ注目されずに済むだろう」などと思うようになったという。ただし、姉は「恭子のせいじゃないよ」と庇っていたという[9]。
前述のような問題によりモチベーション低下に悩み一時不振に陥るが、1996年アトランタオリンピックの代表選考会を兼ねた同年の日本選手権女子100m平泳ぎで田中雅美に次ぐ2位に入り、五輪出場権を獲得。五輪本番では、200m平泳ぎで10位、100m平泳ぎは予選落ちに終わり五輪2大会連続でのメダル獲得はならなかった[9]。
1998年、伝染性膿痂疹を発症した影響[10]および闘争心の喪失を実感し[9]、9月の日本学生選手権水泳競技大会を最後に引退[11]。その後、テレビなどで競泳のコメンテーターとして活動を開始。
2002年、アメリカ合衆国のミッションビエホに海外指導者研究生として留学[12]。