とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

アフリカ系の黒人奴隷:アフリカとアメリカの海底は、死体の鎖でつながっている(1)

2008年10月19日 09時17分04秒 | ことば・こころ・文学・演劇
 肝心の小説の内容には今回は触れません。そのかわりに訳者と作家が東京で行ったインタービュー記事を全引用させてください。過酷な状況の中でどのように黒人たちが生き延びてきたかを、知ることができます。「コーヒーの水」とは、お湯でうすめたコーヒーを意味するとのことだそうです。かなり前に読んだのですが、衝撃的でした。

.....................(引用開始)................

P417~425
「ラファイエル・コンフィアン・インタビュー ―-『コーヒ-の水』をめぐって」


――まず、『コーヒーの水』出版の経緯についてお聞きかせください。フランス語での小説第一作として『ニグロと提督』(1988年)が出版されていますが、それ以前に『コーヒーの水』(1991年)をお書きになっていたそうですが。

 コンフィアン(以下C):ええ、1977年から1988年まで、私はクレオール語だけで書いてきました(訳者あとがきより:『シャモワゾーとの共著『クレオールとは何か』(1991年:西谷修訳、平凡社)の翻訳・解説を通して、ヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人といったアイデンテティーのありかたに関して、すでに十分な紹介がなされている)

ところがある時フランス語で書きたくなり、『コーヒーの水』を書きましたが、出版社には送らず、部屋の隅にほおっておきました。ある日パトリック・シャモワゾー(マルチニック生まれの小説家)に「フランス語で書くべきだよ」と言われたので、「実は草稿がひとつあるんだ」と、彼に読んでもらうことにしました。でも、自分では『コーヒーの水』が面白いものだとは思っていませんでした。クレオール語(私注:フランス語の方言=生粋の青森弁を想起せよ。何いっているか全くわからない)で書くほうが大事だと考えていたからです。
 シャモワゾーは『コーヒーの水』の草稿を読んで、言ってくれました。
「すばらしいじゃないか!ぜったい、出版社に送るべきだ!」
それでいくつかの出版社宛てに小包みを作りました。その日の夜、私は眠れませんでした。クレオール語を裏切った、という感情があったからです。私は起き上がり、草稿の小包みすべてを手に持ち、火をつけました。
 幸いなことに、妻が目を覚まして言いました。
「庭で何してるの?」妻は火を見て駆け寄り、火を消して、拾った小包みを一晩中抱いて寝ました。翌日妻は小包みを出しに行きました。シャモアゾーや妻がいなかったら、私は今日、ここにいなかったでしょう。フランス語で書けば、自分の言葉を裏切ることになると思いつづけていたことでしょう........。

 妻が小包みを出してから、三か月経ったある日、パリのグラッセ社から手紙がきました。
「オッケー、あなたの本を出版しましょう。」でも編集者はこうも言っていました。「この本は難しい。もっとシンプルにお書きになりませんか?」返事をまっていた三ヶ月間、「よし、とにかく少し、フランス語で書いてみよう」と思い、出版のことなど考えないまま書いていた『ニグロと提督』がありましたので、早速送りました。「なるほど、こちらのほうがシンプルです。まずこの本を出版しましょう」。こんな具合に事が運びました。奇妙な話です。

       循環する言葉:不運について

――『コーヒーの水』についておうかがいいたします。この小説では、時間が直線的に流れません。逆にいつもくり返されるいくつかのモチーフがあって、グラン=タンスの住民たちはそのモチーフをさまざまな形で反復しているようにみえます。たとえば《不運》をそうしたモチーフの一つとして挙げることができると思います。さまざまな登場人物が自分の不運に苦しみ、諸々の宗教的な力や魔術的な力に願ってそこから抜け出そうとしますが、多くの場合、苦い思い出を味わうだけです。この救済への願いと不運の行き帰が、『コーヒーの水』にあるリズムを与えているのではないでしょうか?

C:ええ、その通りです。つまり、私たちの土地に奴隷制度があった時代ヨーロッパの奴隷擁護論者たちは黒人たちに彼らは神によって呪われている、神のせいで不運を背負わさているのだと信じこませようとしたのです。それで奴隷養護論者たちは聖書から「ハム」の理論を引き出しました。父によって呪われた「ハム」は黒人たちを表しているという理論です。黒人たちもまた、自分たちは呪われた人種なのだ、不運を負った人種なのだと信じるようになり、この不運を払いのけようとしました。黒人たちがさまざまな魔術力や力や宗教的な力を信じるのはそのためです。キリスト教だけではなく、ヒンズー教も信じ、つまりはあらゆる神々に祈ってこの不運を払いのけようとしたのです。もっとも今日の若い世代にはもはや当てはまらない話ですが..........。
 しかし、私の両親の世代、そしてもちろんその前の世代の人々は、不運という言葉をしょっちゅう口にしていました。何かが起こると――階段を歩いていて、脚の骨でも折ったりしたら――「ああ、こいつは不運だ」と言うのです。なんでもかんでもこの不運のせいにするのですが、彼らはそれが歴史的不運だということをは知りませんでした。そう、それは歴史的な不運です。つまりある日アフリカ人たちが奴隷にされ、アメリカ大陸に輸送され、力ずくでヨーロッパ人たちと混血させられたという不運なのです。

 『コーヒーの水』では、幸福の探求はこの不運からの脱却という形で行われます。しかし、いつも成功しません。支配が変わらないからです。魔術的=宗教的実践に身を捧げてみても、心配は同じままです。何人かの人間は困難な状況から抜け出せるかもしれませんが、大多数の人々はいつも同じ支配のもとで生きつづけることになるでしょう。しかも支配は内面化されました。そのせいで諦めの感情が生まれました。
それは運命だ......それは不運だ......。もっとも私たちの世代はもはやそんなことは信じていませんが。         (続く)


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