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【戦後80年】「私はずるい被爆者」94歳が語る記憶◆家族10人犠牲に、消えない後悔とは #取材班インタビュー:松本正さん  川村碧

2025年02月10日 19時53分18秒 | 戦争

【戦後80年】「私はずるい被爆者」94歳が語る記憶◆家族10人犠牲に、消えない後悔とは #取材班インタビュー:松本正さん

「私はずるい被爆者なんです」―。94歳の松本正さんは目の前の大学生に、そう語り掛けた。1945年8月6日、広島に落とされた原子爆弾により被爆し、姉や弟ら家族10人を失った語り部が今の世代に伝えたいこととは。克明な記憶が語られる現場を取材した。(時事ドットコム取材班 川村碧

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7人きょうだいの次男

 「広島に落とされたたった1発の原子爆弾によって、14万人がその年のうちに亡くなりました。私も弟ら身内10人を失いました。むごい殺され方をしたのです!」。2025年1月上旬、田園調布学園大(川崎市)の講堂に張りのある声が響いた。学生ら約120人を前に、松本さんは焼失を免れた家族写真などをスライドで見せながら、当時の記憶を語り始める。

広島二中時代の松本正さん=松本さん提供

広島二中時代の松本正さん=松本さん提供

 1945年当時、県立広島第二中学校3年生だった松本さん。実家は父が興した海産物問屋で、弓道場もある大きな屋敷で育った。父は既に他界し、4人いる姉は結婚して家を出ていた。3歳上の兄は寮生活をしており、松本さんは母と2歳下の弟と暮らしていた。

 「当時私は『こまい(小さい)兄ちゃん』と慕ってくれる弟の勝と仲良くしていました。その年の春、名古屋に嫁いでいた一番上の姉が5人の子どもを連れて、事もあろうに広島の実家に疎開して来ました。『広島はアメリカに移民をようけ送っているけえ、空襲はなかろう』なんて迷信があったんですよ。これが本当に信じられていたんです」と話した。

実家壊され、疎開したが…

 7月末、実家は建物疎開の対象となった。当時は空襲による燃え広がりを防ぐため、強制的に家を壊して空き地を作っており、1週間で立ち退きを迫られた。「生まれた家がぶっ壊されるなんて、それはもう無念だった。名古屋から来た姉一家は天神町に移ったが、その近くに原爆が落とされ、後にとんでもないことになるとは誰も思いませんでした」と振り返る。

松本正さん一家の家族写真。原爆投下前に建物疎開をしたため、焼けずに残った貴重な一枚。後列左が弟・勝さん、左から2番目が正さん=松本さん提供

松本正さん一家の家族写真。原爆投下前に建物疎開をしたため、焼けずに残った貴重な一枚。後列左が弟・勝さん、左から2番目が正さん=松本さん提供

 松本さんと母、勝さんは市内から山奥へ40キロほど離れた親戚宅に身を寄せた。松本さんは兵器を作っていた三菱重工業広島機械製作所で勤労作業に動員され、勝さんも授業の代わりに建物疎開の手伝いなどをしていた。

 原爆投下の前日である8月5日朝、勝さんと作業場所へ向かうため親戚宅を出発。ところが鉄道の駅まで自転車に2人乗りをしていた時、チェーンが切れ、自転車が使えなくなってしまった。「私はもう1日作業を休むことにしました。『今日は天神町の姉さんのところに泊まる』と言って弟は、駅まで4キロの山道を1人とぼとぼと歩いて行きました。心細いような、寂しそうな後ろ姿は今でも記憶に残っている。これがとわの別れになろうとは、知る由もありませんでした」と声を震わせた。

原爆投下、「空に太陽が二つあった」

 8月6日は青空が広がっていた。午前8時ごろ、広島市中心部から3.5キロほど離れた工場に着いた松本さんは、同僚とともに防空壕堀りに取りかかろうとしていた。

広島原爆の原子雲。投下約1時間後、米軍機が広島南方の倉橋島上空付近から撮影したと推定される(広島県)=1945年8月6日

広島原爆の原子雲。投下約1時間後、米軍機が広島南方の倉橋島上空付近から撮影したと推定される(広島県)=1945年8月6日

 「砂利を積んだ天秤棒を担いだ途端、ズーン!と腹に響く衝撃とともにストロボを何百発とたいたような青白い光に包まれた。広島市内方向に目をやると中空に太陽が二つ並んでジリジリと燃えたぎっている。えも言われぬ恐怖を感じて、すぐさま防空壕に飛び込んだ。ものすごいごう音が響き、しばらくすると逆にしーんと静かになった」

 「雲柱には色があったんですよ。赤やだいだい、黄、緑といった7色に金銀の稲妻が駆け巡る。不謹慎だけど、『きれいだ』と思った。この雲柱の下で弟や姉たちの身に何が起こっているのか考えが及ばなかった」と語った。

幽霊のような被爆者

 何が起きたのか誰も分からないままその日の作業は中止となり、帰ろうと同僚と工場正門を出た途端、目を疑った。「大勢の人々がほとんど裸で、両手を前に垂らして歩いてくる。一瞬、幽霊なんじゃないかと思った。(原爆の)鉄も溶ける高温に服は燃えて裸同然となり、肩からの皮膚がずるっとむけ、手先から下がっているのですが、肌に触れると痛いから幽霊みたいに両手を下げていたんです」

当時の記憶を語る松本正さん=2025年1月10日、川崎市の田園調布学園大

当時の記憶を語る松本正さん=2025年1月10日、川崎市の田園調布学園大

 町のあちこちから煙が上がり、川辺にはけが人が横たわっていた。大勢のけが人を横目に逃げることで精いっぱいだったという松本さん。同僚と山陽本線の線路に沿って家を目指す途中、タールのように黒くねっとりとした雨でずぶぬれになった。それが放射性物質を含んだ「黒い雨」だったと知るのはずっと後のことだ。

 途中で立ち寄った竹やぶには瀕死の重傷者がうめいていた。「『水…水…』と声を掛けられたけれど、誰かが『水を飲ませたら死ぬけえ、だめじゃ』と言い、助けるすべもなく『ごめんなさい。ごめんなさい』と謝るしかなかった。看護している人から『おめえたち、なんで無傷なんじゃ』と白い目で見られたものです。うめき声を聞き、血の臭いを嗅ぎながら必死の思いで母の元へ逃げ帰った」と語った。

 無事家にたどり着き、母や兄と再会を喜んだが、学徒動員の作業中だったと思われる勝さんの安否は分からなかった。「勝は即死は免れたものの、友達と西へ逃げ、トラックで救護所の寺に運ばれた。兄たちが7日の深夜に見つけ出しましたが、ほんの数時間前に息を引き取っていました。直前まで『お兄ちゃんが助けに来てくれる』と言っていたそうです」。松本さんは言葉を切り、しばらく沈黙した。

松本正さんは北東に(水色のルート)、弟の勝さんは西に(黄色のルート)逃げた=松本さん提供

松本正さんは北東に(水色のルート)、弟の勝さんは西に(黄色のルート)逃げた=松本さん提供

 爆心地近くに引っ越した姉と子どもたちは家屋の倒壊と火災に巻き込まれ亡くなり、1人だけ軽傷だったおいも原爆症を発症して程なく息を引き取った。松本さんの末の姉は疎開作業中に全身大やけどを負い、「空気が全部火になった」という言葉を残して、数日で命を落としたという。この時はけがなく生き延びた松本さん自身も、放射能の影響で後にがんを患うことになる。

「ずるい被爆者」後悔消えず

証言活動への決意を記した紙を掲げる松本正さん=2025年1月10日、川崎市の田園調布学園大

証言活動への決意を記した紙を掲げる松本正さん=2025年1月10日、川崎市の田園調布学園大

 終戦後、松本さんは報道機関勤務を経て上京し、ディスプレー会社でデザインの仕事に就いた。結婚して移り住んだ神奈川県で被爆者と交流していたが、どんなに頼まれても自らの被爆証言は断り続けた。「けがも負わず、誰も助けずに逃げ回った。自分はずるい被爆者で、語り部の資格なんかあるもんかと思っていた」と当時の心境を語る。

 転機が訪れたのは約10年前、83歳の時。所属していた横浜市原爆被災者の会の会長が行う予定だった証言の代打を急きょ頼まれ、断れなかった。仕方なく壇上に立ち、目の前の高校生に当時のことを思い出すままに語ると、会場からは拍手が湧き起こった。「俺の話でも役に立つんだ」。驚いた松本さんは「記憶を後世のために語り継いでいかないといけない」と思い直し、今も語り部を続けている。

証言活動、「命続く限り」

 これまで小中学校などから依頼を受けてきたが、大学生の前で話すのは今回の田園調布学園大が初めて。「私はずるい被爆者だと自ら認識し、証言を断ってきました。80年近くも人を助けられなかった悔いと残念さと、申し訳ないという気持ちをずっと持ち続けている情けない男が今皆さんの目の前にいます。私もがんと闘っている身ですから来年生きている保証はありませんが、命ある限り語り部活動は続けていく覚悟です」

 約30分の証言が終わると会場から拍手が起こった。参加者からは「原爆を体験した人から話を聞くことができる機会は限られている。自分も何ができるか考えたい」との感想が聞かれた。松本さんに個別で話し掛ける学生の姿も。「話を聞いた人がどんなふうに思ったのか。今後の証言の参考にしたい」と松本さんはほほ笑んだ。

証言終了後、学生に語り掛ける松本正さん=2025年1月10日、川崎市の田園調布学園大

証言終了後、学生に語り掛ける松本正さん=2025年1月10日、川崎市の田園調布学園大

 被爆から80年。あの時助けられなかった人々への罪悪感は消えないが、80代で証言を始めた松本さんの決意は固い。「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞をきっかけに世界の国々が核兵器保有をやめてくれればいいが、そう簡単にはいかない。われわれ被爆者はノーモア核兵器と今後も叫び続けていく」と力を込めた。

取材を終えて

 94歳の松本さんが口を開いた瞬間、その力強さに圧倒された。原爆投下時の様子を鮮明に語りつつ、抑えきれない怒りや悔しさの感情があふれ出す。当時松本さんが見た光景、聞いた音を、まるで追体験しているようだった。終了後に取材に応じてくれた男子学生は「情景を思い浮かべ、すごく悲しくなった。けが人を見捨てるしかなかったことを今でも悔やむ思いが伝わってきた」と語る。もしこんなことが再び世界で起きたら。緊迫する世界情勢が頭をよぎり、同じような感想を抱いた人もいたのではないか。「原爆の恐ろしさを知ることが、核兵器使用の一番の抑止力になる」。松本さんの強いメッセージを受け取ったと感じた。


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