とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

中世カトリック教会 6

2006年12月07日 09時51分52秒 | 宗教・哲学・イズム
【中世カトリック教会】
  800 年のクリスマスにフランク王カール大帝がローマ教皇レオ 3 世の手から冠をうけてローマ人の皇帝とされたことは,西ヨーロッパにおける中世キリスト教の成立を象徴するできごとであったといえる。これは,カールに西ローマ帝国再興の権をゆだねることで,ローマ的伝統を保ちつつ,政治的安定の下に教権の進展をはかろうとするものであった。もとより教会は,古代につづく中世を一気に作り上げたのではない。ゲルマン諸族への伝道はすでに 3 世紀に始まり, 5 世紀にはアングロ・サクソン族への伝道もなされ, 7 世紀に入るとベネディクト会がこれに加わって活発な異民族伝道を行ってきた。 ウィリブロードWillibrord (739 没) と,のちにボニファティウスBonifatiusと呼ばれたウィンフリード Wynfrid (754 没) の活躍が特に記憶される。これにより,西方教会はコンスタンティノープルの支配とイスラム教徒の圧迫を排して自立するとともに,古代の伝統を中世に媒介することができた。しかしまた,中世カトリック教会はこの異民族伝道によってのみ成ったのではない。最初ゲルマン人に伝えられたのはアリウス派の信仰だったので,これは 3,4 世紀の教義論争を経て確立された正統信仰によって駆逐されねばならなかったし,さらに教皇権と王権,サクラメントと統治を一体化して普遍主義を確保する必要があった。先にメロビング朝ピピンが塗油をうけ (752),カール大帝のあとしばらくしてオットー 1 世が冠をうけた (962) ことは,彼らに教会の保護者たる地位を法的に与えたことにほかならない。ここに中世カトリック教会独自の形態があり,これはハルナックによって〈キリスト教のゲルマン化〉と呼ばれ,ヘレニズム化につづく教会史の第 2 の大きな事件である。文化 (ギリシア) と軍事 (ゲルマン) と宗教 (キリスト教) との統合は,普遍主義を志向するカトリック教会によって初めて成ったのである。
 ゲルマン人の教会はローマ人の都市型の組織的な〈司教の教会〉と異なり,農民の私的所有権と自主性を保持する〈私有教会〉で,設立者たる君主の支配をうけ,司教の叙任や会議の召集もその所有者の意志に従わねばならなかった。これが君主の権力の増大とともに地方教会となり,カール大帝のもとで国教となったのであるが,中世に固有な教会と国家の問題は教会のこの特質のなかで発生した。教会は国家の保護下に勢力を拡大し,寄進地をますにしたがって世俗的な政権からの独立を欲するようになる。これに対しオットー 3 世 (在位 996‐1002) は, 〈王にして祭司〉という古ゲルマンの思想にもとづく教会統治権を行使して,司教を叙任したのみでなく教皇選挙にも加わろうとした。 ハインリヒ 3 世 (在位 1039‐56) はフォティオスによる東西教会の分離 (867) 以後弱体化した教皇庁をみずからの手で改革せんとして,ドイツ人の教皇を立てた。そこで教皇側は教皇権至上主義を主張し,その普遍主義を各国王の分立主義に優先させる闘争を開始した。 〈叙任権闘争〉と呼ばれるこの運動は, 910 年に建てられたクリュニー修道院に端を発する改革運動を前提とする。これは,教会と同じく社会的地位の向上した修道院内部の腐敗を〈ベネディクトゥスの会則〉の厳格な順守によって清め,かつ教会に対しては司祭の結婚と聖職売買 (シモニア),およびドイツ王による司教と大修道院長の叙任の禁止を要求するものであった。ニコラウス 2 世 (在位 1058‐61) は 1059 年のローマ会議で教皇選挙に世俗人の参加を禁止する法を立て,政治的権力から離れた〈教会の自由〉を主張した。先にクリュニーの修道士であったグレゴリウス 7 世は,教会法学者ペトルス・ダミアニの熱烈な支持をうけて, 1076 年のウォルムス会議でドイツ皇帝ハインリヒ 4 世を破門にした。翌年この皇帝がカノッサに赴いて悔悛した話はあまりに有名である (カノッサの屈辱)。闘争は 1122 年のウォルムス協定および翌年の第 1 ラテラノ公会議で,ドイツ皇帝は教会からうける指輪 (司教権を象徴するもの) と司牧杖を放棄し,他方教皇は国王の選挙に参加しないとの協定を結んで終息した。これはどちらか一方の勝利ではない。教皇権の普遍主義と至上主義は貫かれたが,国家の脱神聖化は中世社会の封建制からの脱皮を早めたとみられる。その後教皇ウルバヌス 2 世のときに十字軍が発足し (1096),教皇権の絶頂期を迎える。 インノケンティウス 3 世 (在位 1198‐1216) はフランスとイギリスでも支配権を獲得し,イギリスではジョン王を屈服させてマグナ・カルタ (大憲章) 成立の機をつくり,さらに第 4 次十字軍と少年十字軍をおこして東方正教会のローマへの従属という歴代教皇の夢を実現しようとしたが,これらのことは,叙任権闘争が本質において政治的であって宗教的ではないことを思わせるにたりる。この間,教会法はグラティアヌスのようなすぐれた学者をえて発達した。
 教皇ボニファティウス 8 世 (在位 1294‐1303) が 1302 年に与えた教書《ウナム・サンクタム》は,教皇がキリストの代理者として霊界と俗界の二つの剣をもつこと,すなわち,後者を行使するのは王と騎士であっても,命令を下すのは教皇の側にあることを主張し,こうして〈すべての人間は霊魂の救いをまっとうすべくローマ教皇に服従すべきである〉と宣言した (両剣論)。もちろん,二つの剣は真っ向からぶつかるのではなく,世俗の権威もまた創造者たる神によって与えられているゆえに矛盾はないと考えているが,けっきょく教皇が失敗して世俗の権威を放棄せざるをえなくなるまで,教皇は世俗のことに介入しすぎたのである。実際この教書はフランス王フィリップ 4 世 (在位 1285‐1314) の反抗をおさえるためのものであって,その結果国交が断絶しただけでなく,教皇は捕らえられて死を迎えることとなった。この王はテンプル騎士団員の大虐殺 (1312) で有名である。その後クレメンス 5 世はアビニョンに移り (1309),その地でフランス国王に支えられて教皇庁を統率せざるをえなくなり,この劇的な変動によって教皇至上権の夢は破れた。つづく 6 代の教皇はみなフランス人で, 70 年におよぶ〈教皇のバビロン捕囚〉となったのである。以後各国の司教は総司教を通じて国王の統治に服し,時には教皇にそむいても国に忠誠をつくすようになった。教皇至上主義 (パパリズム) に対して会議主義 (コンシリアズム) が起こったのもこのころのことで,イギリスの神学者グロステストやオッカム (オッカムのウィリアム) が強く支持し, ガリカニスムを主張する国民主義的なフランス人もこれを受けいれた。捕囚はグレゴリウス 11 世の帰還で終わったとはいえ,フランスの枢機縁らはクレメンス 7 世 (在位 1378‐94) をアビニョンにおいてローマに対する対立教皇とし, 1417 年まで〈大離教〉と呼ばれるこの分離をつづけた。そこで公会議すら実効なきものとなったが,ようやく 49 年にフィレンツェ会議でニコラウス 5 世を選挙してこの分離に終止符をうった。ニコラウスはローマに帰って 50 年に,かつてボニファティウス 8 世が 1300 年に行ったのと同じ規模の祝年祭を挙行し,あるいはイタリア・ルネサンスの芸術文化を手にしてその勢力の誇示につとめた。ニコラウスをふくめて 10 代の教皇を〈ルネサンス教皇〉と呼ぶ。シクストゥス 4 世 (在位 1471‐84) はバチカン図書館を改造し,システィナ礼拝堂を建て,あるいはユリウス 2 世 (在位 1503‐13) は聖ペテロ大聖堂を建てたが,これらのことは教皇の霊的権威を少しも回復するものではなかった。
 中世におけるキリスト教のゲルマン化は,上述のように教皇権と皇帝権との対立のなかで自由と抵抗権の確保をめぐって起こったが,これをさらに内側からみて,修道院の成立とそこから生み出された敬虔と学問について述べねばならない。修道院は最初東方教会のうちに発生し,ヒエロニムスがこれを西方教会に伝えるにあたって大きな役割をはたしたが,十分な意味で定着したのはベネディクトゥスによってである。彼は 529 年ごろモンテ・カッシノに修道院を起こし, 〈会則〉を定めた。それは東方の隠修士にみられるように禁欲の修行や特別な神秘体験によって教会に対立するものではなく,合理性と秩序のある生活を維持しつつ,謙卑 (フミリタス) をもって神と教会とに仕えることを旨とし, 〈祈れ,そして働け ora et labora〉がそのモットーであった。また貧者の救済や病人の世話などの社会活動を教会のために行った。この修道院は東ゴートの高官だったカッシオドルスと教皇グレゴリウス 1 世との支持をえて各地に建てられ,フランク族とアングロ・サクソン族への伝道に力を貸した。やがてみずから付属学校 (スコラ) をもち,大聖堂付属学校とならんで民衆の教化と教育につとめ,のちのスコラ学の素地をなした。
  10 世紀に入ってクリュニーに始まった改革運動は,たんに修道院の自己浄化につきず,ローマ教皇を頂点とする強固な修道院ヒエラルヒーを組織して次代にそなえようとするものであった。多くの修道院で聖遺物崇拝がなされ,民衆の巡礼が活発となったが,そのエネルギーは十字軍を起こすに十分なものであった。 〈修道会 (オルド ordo) 〉と呼ばれるものはこのころ初めて成立した。すなわち,修道院は 1215 年の第 4 ラテラノ公会議が新設を禁止するまでふえつづけ,多くの修道会を生んだ。それはカマルドリ会,カルトゥジア会,シトー会,プレモントレ会,騎士修道会,アウグスティヌス会,さらに托鉢修道会などで,ほかに女子のみの第 2 修道会や男女の第 3 修道会も成立した。新しい敬虔と〈神の国〉運動とを結合するこの改革は, 12 世紀に入ってクレルボーのベルナールにおいて頂点に達し,またアッシジのフランチェスコのような独特の人格を生んだのであるが,これらの人々にみる神秘主義は教会に対立する異端の登場と無関係ではない。
 中世の異端は古代教会のアリウス派のように教義と信条をめぐって論争し,教会の外へ出て行くものではなく,むしろ教会的統一にさからい,その権威に従わないで熱狂的な行動を起こすか,あるいは権威と理性の対立を主張するものであった。社会的背景としては教会の封建化,都市の発達による交通の自由のほか,十字軍による東西の交流があげられる。 12 世紀初めに現れたカタリ派は東方の異端ボゴミル派の支脈であり,マニ教的な二元論的道徳に従って禁欲清浄 (ギリシア語でカタロス katharos) の生を営み,独自の教階制を立てて世俗化した教会に対抗した。またワルド派は,リヨンの富裕な商人だったワルドーが 1176 年の飢饉にさいして財産を貧者に与えて無一物となり,使徒的生活を人々に説いて回ったことから生まれたもので,多くの類似の運動を合わせ,時にはカタリ派をも引き込んで,ドイツ,イタリア,ハンガリーに進出した。この派は多くの説教師をかかえて長い間教会と対立しつづけ, 15 世紀にはフス派に合流したが消滅せず,じつにこんにちまで残っている。アッシジのフランチェスコは 1207 年に祭壇の十字架からの声にうながされて清貧と説教の生活に入り,教会と対立こそしなかったが,その修道会はドミニコ会と争いあい,のちにヨアキム・デ・フローリスの〈永遠の福音〉をうけつぐ聖霊派を生むことになった。これらの異端は 13 世紀に入って形をととのえた異端審問制度によって弾圧されたが,清貧と説教の生活がベルナールやエックハルトをはじめとする多くの神秘家にうけつがれて,新しい敬虔と知の形態を生んだことは重要である。それは聖職者中心の教会と異なる民衆の敬虔でもあって, 15 世紀になるがトマス・ア・ケンピスの作とされる《イミタティオ・クリスティ》ほど多くの人に読まれたものはほかにない。
 このような,10 世紀の修道院改革から生じて時には異端と接しながらも深化した敬虔は,教会の学問である神学にも大きな影響を与えてきた。中世の神学は教義を組織し体系づけ解釈することに主力を注いだが,方法としては理性の遂行にゆだね,異端との折衝をふくみ,しかも体系全体の意味づけにあたって形而上学の力を借りたので,それは古代教会の教義論争とは異なる新しい概念であった。この神学の萌芽はオリゲネスとアウグスティヌスにあり,後者の《三位一体論》と《神の国》はあらゆる点で中世神学の基となった。 11 世紀のアンセルムスは《なぜ神は人となったか》において,従来明らかでなかった受肉と贖罪の連関を示した。彼の神学が自由の確立と意志の救いに向かっていたことは,教会と信仰の精神基盤がどこにあるかをよく示している。 アベラールは理性の自由を強調して異端視されたが,行きつく所はこれと同じであった。 13 世紀に入ってペトルス・ロンバルドゥスやトマス・アクイナスの構築するスコラ学の壮大な体系 (《命題集》や《神学大全》) は,教皇至上主義と重なっていても,これとて霊魂の救いをめざす神秘主義的敬虔によって支えられていたのである。だが体系自体は 14 世紀にはくずれ,回復の見込みはなかった。 オッカムの唯名論的理性主義は一応これを補綴したが,救済機関としての教会のサクラメンタリズムをこえる神の自由を同時に示して,信仰の新しい型を次代に要請した。 ⇒十字軍∥修道院
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東方正教会と東方諸教会 5 | トップ |  宗教改革 しゅうきょうかい... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

宗教・哲学・イズム」カテゴリの最新記事