とおいひのうた いまというひのうた

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東方正教会と東方諸教会 5

2006年12月07日 09時50分50秒 | 宗教・哲学・イズム
【東方正教会と東方諸教会】
 〈東方正教会〉の名称は,1054 年の東西両教会の最終的な分離後の東方のカルケドン派教会,すなわちコンスタンティノープル総主教管轄下のビザンティン教会と他の若干の教会 (バルカン半島とロシア),グルジア教会,イスラム・カリフ王朝支配下のエジプト,シリア,パレスティナのカルケドン派教会の総称であり,現在では上述のさまざまな教会がヨーロッパ,アメリカ大陸,アジアに拡大して設けられた教会をも含む。したがって 1054 年以前にはカルケドン派教会はまがりなりにも一つにまとまっていたわけで,そのうちの東方の教会を東方正教会とさかのぼって呼ぶのは適当ではないし,また誤解を生みやすい。しかしここでは東方のカルケドン派教会の歴史をも扱う。カルケドン派とは,キリスト論に決着をつけた〈カルケドン信条〉 (451) を教義の根幹に置く教会のことで,のちの東方正教会,ローマ・カトリック教会,さらにプロテスタント諸教派の大部分がふくまれる。それに対し,カルケドン公会議の前後にキリスト論に関する見解の相違から分離した教会,具体的にはネストリウス派および単性論派教会を一括して〈東方諸教会〉と呼ぶ。そのなかにはのちにキリスト単意論を受けいれたマロン派教会もふくまれる。なおアリウス派はもちろん非カルケドン派教会ではあるが,東方諸教会にはふくめない。
 ローマ帝国におけるキリスト教の公認と国教化が俗権との関係で教会の変質につながったことはすでに述べたが,その局面が端的に現れたのは,皮肉なことに,ローマの教会ではなく,帝国の新しい首都コンスタンティノープルの教会であった。異民族の侵入と西ローマの滅亡 (476) によって東の帝国の支配から事実上切り離されたローマの教会は,俗権の保護を失ってさまざまな苦難をなめたが,かえって教会の独立を保ちえた。さらに西方では深刻な教義論争がなかったし,首都の教会のように皇帝の専横にふりまわされて異端の教えを無理に押しつけられることもなかった。ローマ教皇のなかで異端とされた者がほとんどいないことも,ローマ教会の教義面での安定性を証明している。
 コンスタンティノープルの教会は帝国の国教として,前述のように,国家機構の一部をなしていたから,教権の独立性は弱かった。もちろん教会の首長である総主教 (西方の教皇に匹敵) はたてまえとして選挙で選ばれたが,実際には皇帝の指名と変りなかった。 6 世紀のユスティニアヌス帝は俗権と教権の関係を〈調和〉の原則として規定したが,俗権が教権を保護するとしている以上,俗権の優位は疑いない。また首都の総主教に俗人が任命されたことも数度に及ぶが,これもビザンティン教会の地位を如実に物語っている。俗権を脅かしうる唯一の勢力は修道院であるが,修道会が成立しなかった東方では修道院の横のつながりは弱かった。なお修道士には熱狂的な信仰に支えられて世俗を捨てる者と積極的に教会政治に関与する者があった。主教以上の高位聖職者は修道司祭から登用されたので,妻帯の在俗司祭は世襲の職業となった。
 カルケドン公会議は長年の教義論争を解決したはずであったが,東方の教会は新たな混乱にまきこまれた。 単性論がほぼ支配的になっていたエジプトとシリアは中央に対する反感もあって,帝国から離反する勢いを見せていた。東ローマ帝国の諸皇帝は弾圧と妥協を繰り返し,単性論派の離反を食い止めようとした。妥協策は〈カルケドン信条〉を無視することであるから,ビザンティン教会内部の混乱を引きおこし,ローマ教会の強い反発を招いた (妥協の勅令《ヘノティコン》482 と〈アカキオスの分離〉484)。特にユスティニアヌス 1 世の時代は皇帝の教会政策の二転三転によって混乱が極に達し, 〈三章問題〉ではすでに解決済みのネストリウス神学が再び攻撃にさらされた。この問題には西方教会もまきこまれ,東方への不信を強めた。しかし,単性論派との妥協は成らなかった。単性論派引戻しの最後の試みはキリスト単意論で,これは単性論の亜流にすぎなかったが,エジプトの教会は皇帝の側からのこの種の術策に乗らなかった。単意論は第 6 回公会議 (第 3 コンスタンティノープル公会議,680‐681) で異端とされた。しかしそれ以前に,アラビア半島に勃興したイスラム勢力の席巻によってシリア,パレスティナ,エジプトは帝国から失われていた。
 単性論派を切り捨てたビザンティン教会は平和を取り戻す間もなく, 8 ~ 9 世紀にイコノクラスム(聖像破壊運動) の試練を受けることになる。これは教会内部からおこり,皇帝レオ 3 世,その子コンスタンティノス 5 世などが推進した社会運動である。キリスト教徒は,偶像崇拝を極度におそれるセム族の心情を受け継いだはずであるが,やがて図像表現に寛大なヘレニズムに染まると,抽象的,象徴的な表現から具体的な表現へと進み,形あるものが信仰生活と結びついた。 4 世紀のエルサレム復興と聖地巡礼,聖遺物崇拝がこの傾向をさらに強めた。画像そのものに何か超自然の力が宿ると考えるのは物神崇拝であり,キリスト教の教えとは相いれない。他方,民衆の信仰心を高めるためには聖遺物とかイコンのように目で見,手で触れることのできるものが必要であった。したがって教会としては,神学上の問題にもかかわらず,イコン崇拝の風潮を黙認せざるをえなかった。この風潮がやがて弊害を生むにいたると,当然,反動が生じ,その機運を小アジア出身で反ヘレニズム的体質の皇帝と軍隊が利用したものであろう。西方の教会はイコノクラスムのような原理主義運動を否定的に見ていたから,帝国との関係は悪化し,東西両教会分離の遠因となった。社会的にはイコノクラスムに反対した修道院勢力が大きな打撃を受けた。 2 期にわたるイコノクラスムは 9 世紀中葉に終結し,イコンに対する〈崇拝〉と〈崇敬〉を区別すべきことが定められたが (787 年ニカエアの第 7 回公会議の決議の確認),問題の本質的解決にはならなかった。
 東西両教会の関係は,布教地の管轄と典礼をめぐってしだいに悪化した。モラビアではフランク教会がビザンティン教会を,ブルガリアではビザンティン教会がローマ教会を排除した。西方教会の中心をなすローマ教会は教皇の権威を盾にビザンティン教会の内紛に介入した (〈フォティオスの離教〉)。典礼と教会慣行の違いは,両教会の関係が正常であるうちは目だたなかったが,それが悪化すると反目の種となった。教義面では,聖霊の発出をめぐって信条に〈子からも (フィリオクエfilioque) 〉を挿入すべきか否かが問題になった。西方では〈フィリオクエ〉の挿入が一般化しており,ビザンティン教会はそれに反発した。かくして 1054 年,ささいな事件から破門状をお互いにつきつけ,両教会は以降 900 年ほど分離することになった。
 オスマン帝国のバルカン攻略が進むなかで,ビザンティン側は西方からの援助を求め,その代償として両教会の関係修復,すなわち西方の立場からすれば教皇の権威を認めさせる教会合同の試みが行われた (フェラーラ・フィレンツェ公会議,1438‐39)。教会合同は一応成立したが,実行に移される前にコンスタンティノープルが陥落した (1453)。
 東方正教会は,ロシア,ウクライナ,グルジアなどを除き,すべてオスマン帝国の支配下に入った。コンスタンティノープル総主教は正教徒のミッレト (ミッレト制) の首長として,バルカン半島やエジプト,シリアなどの教会をも自己の管轄下におさめた。信仰の自由は一応保証されたものの,神学の水準は低下し,総主教座は権力争いの場となり,全体として正教会の勢力は低落した。宗教改革の余波は東方にも及んだが,多少の混乱があったにすぎない。 19 世紀のオスマン帝国の衰退とともに,バルカン半島の諸国は独立して総主教をいただく民族教会を形成し,コンスタンティノープル総主教の地位は名目上のものとなった。
 次にビザンティン教会の異民族への拡大を簡単に見ておく。帝国内に移住した異民族,たとえば 6 世紀に大量に流入したスラブ族などは,時とともに同化し,キリスト教を受けいれた。帝国外の諸民族,諸国家に対する布教政策は一貫性を欠き,また常時組織的に行われたわけでもない。 6 世紀にはヌビアへの布教が行われ,単性論に走ったアルメニア教会の引戻し工作が進められた。 9 ~ 10 世紀には帝国の周辺に定住した異民族,なかでもスラブ族への布教が試みられた。この時期はおもなスラブ族の国家形成期にあたり,キリスト教は文明社会に参画する条件としてむしろ積極的に受容された。前述のようにモラビア布教は失敗したが,その際考案されたスラブ文字 (グラゴール文字) とスラブ語 (古代教会スラブ語) に翻訳された典礼書と教会文献がのちに大きな威力を発揮した。マジャール族への宣教は失敗に終わった。ブルガリアは 864 年に公式にキリスト教を受容し,さまざまな曲折の末,東方典礼を受けいれた。セルビアにおいてもビザンティン教会はローマ教会との布教競争に勝利を収めた。現在のルーマニアの地はブルガリアの影響下にキリスト教化を遂げた。 988 年にはキエフ・ロシアのウラジーミル大公が洗礼を受け,公式にキリスト教化を果たした。 11 世紀前半にブルガリア王国は滅亡するが,スラブ語の文献はロシアにもたらされ,ロシア文化の形成に大きな役割を果たした。キエフ・ロシアはモンゴル人の侵入によって滅び, 〈タタールのくびき〉の時代にロシアの重心は北方に移る。キエフ府主教座も 14 世紀前半にモスクワに移った。修道生活の理念はロシアで大きく発展し,なかでもアトス山で行われたビザンティン神秘主義 (ヘシュカスモス) が移植された。ビザンティン帝国の滅亡とともにロシアの教会は独立し, 1589 年にはモスクワ府主教が総主教に格上げされ,名実ともに東方正教圏の最大の勢力となった。現在のウクライナ,ベラルーシに当たるポーランド・リトアニア領内の多数の正教徒は,カトリック反宗教改革の余波で,16 世紀末に合同教会に組み入れられ,それに反対する勢力との闘争が続くが,文化的には西ヨーロッパとロシアの接点となり,さらに正教会そのものの近代化にも貢献した。オスマン帝国の直接の支配を逃れたモルドバとワラキア (両国は現在のルーマニアに当たる) の教会は比較的順調な発展を遂げ,コンスタンティノープル総主教座にも影響力を有した。なおロシア正教会では 17 世紀中葉,典礼の改革をめぐって深刻な紛争が生じ,改革に反対した一派はラスコーリニキ (分離派) として離脱し,教会全体の活力は弱まった。ピョートル大帝は教会改革の一環として総主教制を廃止し (1721),かわりにシノド (宗務院) を設け,国家による統制を強化した。
 東方諸教会とはカルケドン公会議の前後に分離した非カルケドン派教会の総称であるが,そのうちの多くがのちにイスラム教徒の支配圏に組み入れられたため,勢力が著しく減退し,こんにち,多少ともまとまった形で存在するのは,エジプトのコプト教会,エチオピア教会,アルメニア教会,レバノンのマロン派教会などにすぎず,キリスト教世界全体における影響力も限られている。
 ネストリウス派教会はネストリウスが創設したものではない。それはむしろネストリウスの師モプスエスティアのテオドロスの思想を発展させたものである。この教会は東シリアを拠点としていたが,帝国の迫害を逃れ,5 世紀後半からペルシアで勢力拡大を始める。ペルシアで単性論派と対立しながら教会組織と修道制を確立し,国教ゾロアスター教の優位がゆるがなかったペルシアを出て,キリスト教世界でも最大規模の布教活動に乗り出した。布教の経路は,北のクルディスターンからいわゆるシルクロードを通って中央アジア,トルキスタン,中国,モンゴル,シベリアに及ぶ陸路とアラビア半島からインドに達する海路の二つがあった。 635 年に長安 (西安) に達したネストリウス派教会は景教の名で知られる。中国では勢力が伸びなかったが,のちこの教派を優遇したモンゴル人の元の時代に多少の拡大を見た。ネストリウス派教会はイスラム教のカリフ王朝および初期のモンゴル人支配者には厚遇され,イスラム教と対抗したことさえあった。 12 世紀に西欧で行われたプレスター・ジョンなる東方のキリスト教徒の国王の伝説 (プレスター・ジョン伝説) は,ネストリウス派に改宗したトルコ・タタール系のケレイト族の支配者を指すものと考えられる。しかし 13 世紀後半,イスラム教に改宗したモンゴル系の諸ハーン国では逆に迫害にさらされ,急速に鰻落し,次いでティムールの遠征で決定的な打撃を受けた。迫害を逃れたネストリウス派教徒はクルディスターンの山中に隠棲した。インドのマラバル地方には 4 世紀にネストリウス派が渡来したが, 16 世紀末に布教したカトリック教会の弾圧にさらされ,教会が分裂した。ローマとの合同に従わなかった教派は,シリアの単性論派であるヤコブ派から主教を迎えたので,理論的にはネストリウス派を離脱したことになる。なお,カトリック教会渡来以前のインドのキリスト教徒をトマス派と総称するが,これにはネストリウス派以外のキリスト教徒もふくまれる。
 もともと神としてのキリストを強調する傾向があったエジプトのキリスト教徒は,ネストリウス弾劾に成功したものの (エフェソス公会議,431), 〈カルケドン信条〉に対してはネストリウス的偏向として正面から反発した。それに民族的感情も加わり,カルケドン公会議後ほどなく対立主教を選び,自派の教会を組織した。カルケドン派教会はエジプト,シリアでは少数派となり, メルキタイ (皇帝派) の蔑称で呼ばれた。シリアではエジプトより約 1 世紀遅れて 6 世紀中葉に単性論派教会が形成された。この教会は組織者の名にちなみヤコブ派教会と呼ばれる。 ヤコブ派はアラビア,ペルシアにも進出したが,ペルシアではネストリウス派に押され劣勢であった。ただ教義面で対照的なこの両派は,古典ギリシアの学問をシリア語に翻訳し,それをイスラム世界に伝えた点で世界史的な意義を有する。次に,ローマ帝国より早くキリスト教を国教としたアルメニアは,エフェソスの〈盗賊教会会議〉 (449) の単性論派の立場を受けいれ,東ローマ帝国側の工作に抵抗し,またカルケドン派のグルジアとの関係もあって,ついに単性論にとどまった。 アルメニア教会は初期の輝かしい文化活動にもかかわらず,イスラム教徒の侵入後は混迷を続けるが,セルジューク朝の圧迫で 11 世紀よりキリキアの小アルメニア地方に割拠し,そこでローマ教会と接触し,合同教会が成立した。これはアルメニア教会の一部にすぎなかったが,カトリック側の合同工作が比較的成功した例とされている。
 エジプト,シリアの単性論派はイスラム・カリフ王朝下でかえって信仰の自由を享受したが,この地域のアラブ化が進むにつれ,教勢が衰えていった。それでもコプト教会と呼ばれるエジプトの単性論派教会は固有のコプト語による典礼を保つが,アラビア語の優勢は否定しがたい。エジプトと関係の深かったエチオピア教会は,複雑な経緯で単性論を受容し,イスラム軍の征服にも屈しなかった。しかし 16 ~ 17 世紀にはイエズス会による強引なカトリック化がはかられたが,それは短命に終わった。その後,エチオピアが鎖国状態にあったので,教会も勢力を温存した。レバノンのマロン派教会は 7 世紀前半にキリスト単意論を受けいれたマロン修道院にさかのぼるが,十字軍と接触してカトリックの教義を受けいれ, 16 世紀以後,しだいにラテン化した。現在では東方典礼カトリック教会の一部となっている。以上のように東方諸教会はその地域が大略イスラム教の布教圏と重なったため,新興のイスラム教に敗退する運命をたどった。なお,近・現代の東方正教会の動向については後述の部分を参照されたい。
森安 達也
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