成田悠輔氏の比喩表現と強い言葉のリアリズムについて
こんにちは。
成田悠輔氏が「高齢者の集団自決」を語り海外にも飛び火している件についてすこしもやもやする部分があるので書いていきます。
高齢者の集団自決はいわゆる「比喩表現」だと言われているけれどそもそも比喩とはなんだみたいな疑問を持ってしまった。いや、もちろん比喩は比喩ではあるのだが、比喩が比喩になるための成立条件はなんだろうかと思ってしまったのだ。
・文脈の属人性と想起確率
こういうのは比較するとわかりやすいと思うので比較しながら検討してみたい。
成田氏と似たような発言でかつて長谷川豊氏が「自業自得の人工透析患者なんて全員実費負担にさせよ。無理だと泣くならそのまま殺せ」と発言したことがあった。
この発言は比喩表現では済まされず出演番組を軒並み降板する事態になっていた。
客観的に見れば成田氏と長谷川氏の言葉は「表現としては同一」である。
長谷川氏は社会保障費を圧迫する透析患者を糾弾し、成田氏は社会の新陳代謝のために高齢者に退場するよう促している。その表現方法としてどちらも「殺せ(切腹)」という言葉を使用している。しかしながら成田氏の場合にはアカデミズムに身を置く立場からか発言に文脈を読み取ろうとする人がいる一方、長谷川氏の場合には問答無用で差別主義者として処理されていた。
こうした違いからわかるのが「文脈の属人性」なのだろう。
一般的な意味での文脈とは「言葉の接続に注意し、その言葉が何によって修飾されているかを読みとり、かつその言葉の意味を限定して捉える」ことであると思うが、発言や文章を逐一精査して読んだり聞いたりできるほど卓越した人ばかりではない。僕自身、文脈を読めているとはあまり思わない。
では何をもって文脈を読み取っているかと言えば、多くの場合、発言者個人の信用を文脈として採用している部分が大きいように思う。誰が言ったか・書いたかということに注意を引かれ傾聴するのが多くの人にとっての文脈で、「文脈は読むものではなく誰かの発言を聞こうと思うその態度に宿るもの」みたいな感覚があるのだ。(それは文脈ではないと言われてしまえばお終いなのだが)
成田氏のような頭の良い人が「高齢者は集団自決しろ」と発言したのであればそこには「それ相応の含意」があるだろうと読者側が裏読みしてそれを文脈として採用する。一方、長谷川氏のようなアカデミズムとは遠い個人が「透析患者は殺せ」と発言した時にはその発言を単なる差別感情として読むため、そこに文脈は存在しない。
けれど長谷川氏にだって文脈はあったのだろう。メディアで取材をする中で透析費用の高額さや充てられる社会保障費などを知れば問題提起として「透析患者は殺せ」というのもわからないではない。無論、同意はしないが。
ようするに読者にとってみれば文脈があるのではなく文脈を認めるかどうかがあるのであり、また、文脈を認めるどうかは発言者のパーソナリティーに依存する部分が大きい。「相応のパーソナリティーがあれば相応の文脈を読もう」とこちら側が構えることをもってして文脈がそこにあるかどうかは判断されうるのだろう。
ものすごい簡単に言えば信用は大事みたいな身も蓋もない話ではあるのだが、比喩や文脈は客観的評価であるだけではなく関係性に依存する評価だというのを忘れてしまいがちなように思う。
誰かが差別発言をした時にはその差別発言の強烈さと発言者個人の信頼度を比較し、発言者の信頼度のほうが大きければそこに文脈が想起し、差別が比喩として回収される。逆に言えば、発言者個人の信頼度が勘案されない第三者からすれば「比喩表現」と「差別」がイコールで結ばれ、文脈が介在する余地がなくなるということでもある。こうした点からネット炎上が起きる機序は文脈の想起確率がゼロであるためということが言える。
結論としては「差別かどうか」「比喩かどうか」という判断は、当然ながら発言者の言葉の使い方の問題もあるにせよ、聞き手のほうがその発言者とどのように関係しているかという距離の問題でもあるので、文脈及び文脈に基づく比喩はけっこうあやふやな部分があるなと思う件であった。
・高齢化社会の深刻さと強い言葉
また、距離の問題で言えば発言者と聞き手の距離だけでなく、「言及している社会問題がどれだけ自らに差し迫った問題か」という当事者としての距離もある。
成田氏と長谷川氏の違いは提起した社会問題がどれだけ逼迫しているかという重要度の違いであり、この点からも差別かどうかという判断は分かれている。
言うまでもなく高齢化社会は誰にとっても差し迫った問題である。年金・介護はもとより政治家が高齢者ばかりというのも長年問題となっている点から全員が当事者である。他方、透析患者にたいする医療費の問題は外からは判断しにくく、知らない人のほうが多い。当事者の数が高齢者問題より少ない。言ってしまえば社会問題としては些末である。
提起した社会問題における当事者の数が違う。そして当事者のほうがその問題への想像力が働くので「表現の意図」を汲み取ることができる。その結果、表現が差別であるか比喩であるかという判断も変わってくる。強い言葉を使っても「その表現を使わなければいけないほどの深刻さ」を読者のほうが勝手にくみ取ってくれる。特に高齢化社会のような誰もが知っている社会問題となれば尚更だ。「高齢者は自決しろ」という差別発言は現実の諸問題と瞬間的に紐づけられ、その差別性が希釈されることでリアリズムとして受け取られる。つまるところ当事者の数と問題意識が閾値を超えた瞬間に差別や強い言葉には「自明の文脈」が与えられ、誰が言うまでもなく比喩化されるのである。
社会問題の現実的な深刻度合いと表現の強さがシンクロしていくようになるのはたとえばフェミニズムやネトウヨにも見られる傾向であるが、高齢者もまた無視できない政治ファクターになってきており、成田氏の発言が差別とされないことは裏を返せば現実における高齢化社会が無視できない問題だと皆が感じているからなのだろう。ようするに差別が比喩としてカウントされる時にはその裏側にリアルが潜んでいるのである。
一般に強い言葉を使うのは推奨されることではないが、「強い言葉を使ってその深刻さを伝える」そのラディカルさには一定の当事者性、もといリアリズムが潜んでいるのも無視できないように思う。強い言葉を使うだけの現実がそこにあるのだというのを考えるようにはしたい。
というのも、強い言葉が比喩であるうちはまだマシであるが、その問題が現実に対処しうる分水嶺を超えた瞬間に、その言葉の強さをまったく厭わないことを言う人、つまりは差別を差別とも思わない人が出てくるようになるからだ。そうなる前に、まだ比喩だと判断できているうちにそれを警告だと考え対処したほうが良いように感じている。
無論、その解決法が高齢者の集団自決なはずはないのだが、少なくとも2000兆円に及ぶ個人金融資産の7割を高齢者が保有しているという世代間資本格差については解消してしかるべきだとは思う。20代・30代は純貯蓄額で見ればマイナスであり、単純に言ってこのような状態が持続可能なものだとは到底思えないからだ。
時代錯誤の差別発言を行うような秘書官を採用していた岸田政権及び高齢者ばかりの自民党政権もそうであるし、社会保障費や年金など現役世代に負担がかかる現行の諸制度に関してもそうであるが、こうした問題を念頭にした時、将来的には「高齢者は退場せよ」という発言が差別かどうかというその議論の枠組み自体が吹き飛んでしまってもおかしくはない。
「差別かどうかなんてどうでもいい、高齢者はさっさと退場してくれ」という現実論が勝ってしまった時、差別問題は問題ですらなくなってしまう。ニューヨークタイムズが報じるまで成田氏の発言が炎上していなかったのも国内では高齢者差別が問題にならないということの証左なのだろう。
差別でもなんでもいいから早く後進に道を譲って資本移転を行えという「リアル」の前では差別かどうかという観念は意味をなさない。成田氏の発言が海外で報道され炎上する機序そのものが高齢者への差別を差別と見なさない国内における非常な現実を如実に表しているのではないだろうか。
「そういうフェーズ」に入ったことを感じさせられる件でもあった。