とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

信教の自由 しんきょうのじゆう freedom of religion

2006年12月10日 13時23分32秒 | 宗教・哲学・イズム
信教の自由 しんきょうのじゆう freedom of religion

信仰およびそれに伴ういっさいの表現の自由,したがってまた何ぴとも自己の信じない宗教儀式に参加しなくてよい自由が法律によって保障されること。 基本的人権の一部をなし,人権獲得の先駆的役割を演じるとともにその精神的基礎となった。今日ほとんどすべての国家が憲法でこれを規定している。思想的には西欧キリスト教国において発展し,アメリカで 1786 年の〈バージニア信教自由法〉において確立された。キリスト教の信仰は最も古くから自由を主張しているが,それは内的自由であって,殉教によっても失われぬものである。しかし信仰は告白,宣教,教育活動,普遍的な愛の行動を伴わずにおかず,これらが公権力による禁止と衝突する場合が少なからずあった。この場合は殉教や亡命では解決できないことが徐々に理解され,抵抗によって自由を獲得しようとする動きが中世の後期に現れる。これらの動きはすべて異端として断罪され,したがって宗教的真理に立った主張とは認められなかった。

  16 世紀に至って宗教改革は西欧の宗教を二分し,旧来の宗教に対して互角の論陣を張ったため,その主張が宗教的根拠を持たぬものであると断定することはもはやできなくなる。すなわち,宗教についての考え方が多元化しはじめた。局部的に見れば,この時代,あらゆる地域で宗教的抗争が行われ,公権力と結びついた多数派の宗教が少数派を排除するという形をとり,この点に関しては〈信教の自由〉は無視された。この時代に公権力と宗教を分離させる主張をしたのは宗教改革急進派 (たとえば再洗礼派) であるが,この派の思想は無政府主義に傾いていて国法を重要視しなかったので, 〈信教の自由〉を国法に保障させようとする努力は生じなかった。宗教的抗争への反省から寛容思想が力を得,国家理念が世俗化して国家の宗教的意味づけを考えなくなるに及んで,国家と宗教は分離し,特定宗教に対する公権力の支持も圧迫もなくなった。それゆえ〈信教の自由〉と〈政教分離〉は不可分である。 ⇒寛容

渡辺 信夫

【近代以降】

  17,18 世紀のヨーロッパやアメリカの市民革命の憲法思想においては,国家は世俗的利害にかかわり,宗教的関心 (魂の救済) にはかかわりえないし,かかわってはならないと考えられた。これを国家の宗教的中立性という。その具体化は各国の文化的・歴史的・政治的条件によって異なる。したがって国家と宗教の関係をそれらの条件を考慮に入れて実証的に考察すべきであろう。また今日では,たとえ国教制をとる国であっても,個人は宗教を信ずる自由や信じない自由,また宗教的活動を行ったり宗教による不利益を受けない自由をもつという〈信教の自由〉 (信仰の自由または宗教的自由) をまったく否定し生命身体を危険に陥れる国はない。それゆえに信教の自由は全世界で普遍妥当する人権であるとして高く評価される (世界人権宣言等でも信教の自由がうたわれている)。したがって現代の課題はこの自由をいっそう保障し実現することである。

[各国における国家と宗教の関係の概観]

 宗教的中立性の具体化は信教の自由をいっそう進める方向で追求されるべきであり,そのために国家と宗教の関係の概観は有益で示唆に富むと思われる。

 まず,かつての社会主義国では一般に国家と宗教を厳格に分離し, 〈国家が宗教団体に特権を与えたり,みずからも宗教的活動をしない〉という〈政教分離〉が制度化されていた。それは特に宗教が政治に影響を及ぼすことに対して警戒的,敵対的だからであろう。例えば旧ソ連憲法は無神論の宣伝とそれを学校で教えることを保障していたが,これは,ソ連が特定の思想,イデオロギーに基づいて国づくりをしていたことからくるものといえよう。ソ連では,宗教が個人の内部にとどまるかぎりそれを保障し,その活動には経済的保障を与えていて,国教以外の宗教を抑圧した革命前に比べれば信教の自由ははるかに保障されていたが,他方,宗教が個人の内部にとどまらず政治体制の根幹に触れる場合には当局から厳しく活動を制限され,この点は西側から批判されていた。

 国教制 (特定の宗教の優位の公的承認も含む) をとる国は,おもに中南米 (キリスト教),アジア (仏教,イスラム教),中近東・アフリカ (イスラム教,キリスト教) の発展途上国に存在するほか,全般的に資本主義経済の発達したヨーロッパ (キリスト教) にも見いだされる。ヨーロッパでも,信教の自由がもっとも保障されるイギリスから,強く制限されるスペインまでの幅がある。そのように国教制といってもイギリスに近いものとスペインや発展途上国に近いものがあり,それらの相違は政治的自由の強弱に関係があることに注意を要する。

 宗教的中立性の具体化を実際に試みている国は,前述の社会主義国だけでなく,発展途上国にも先進・中進国にも見いだされるが,だいたいの傾向を分類すると,(1) 国家と宗教とくにローマ・カトリック教会の関係を国家間の条約のように扱う〈協約〉 (コンコルダート, 政教条約,宗教条約) 方式 (イタリア,ドイツ), (2) その国で実際に優勢な宗教を尊重する〈寛容令〉方式 (スイス,ベルギー,ドイツ,フランス,ブラジル), (3) 憲法規定上国家と宗教を厳格に分離する〈政教分離〉方式 (アメリカ合衆国,メキシコ,フランス,トルコ,インド,韓国,日本) がある。以上の (1)(2)(3) の方式は現実には重複することもあり,まったく形式的に分類されるものではない。

[信教の自由と政教分離]

 アメリカ連邦憲法の権利章典は〈自由な宗教的活動〉 (信教の自由) と〈国教樹立禁止〉 (政教分離) の両面から宗教的中立性を具体化した代表的な史上初の例である。 〈自由な宗教的活動〉について,モルモン教徒の一夫多妻を認めなかった連邦最高裁判決がある。裁判所は,具体的行為と宗教概念を分離することで宗教概念を拡張する傾向を示している。また大統領就任のときの宗教的宣誓や祈りなど国家と結びつく宗教的慣行は多く,しばしば〈国教樹立禁止〉違反の声があがる。連邦最高裁は公立学校の教室での祈りを違憲と判決したが,教区学校への通学用バス代を児童に補助しても〈政教分離の壁〉に反しないと判決した。違憲・合憲の使い分けが注目される。

[日本]

 日本国憲法 20 条はすべての人に信教の自由を保障し,宗教儀式への強制参加を禁じ,同 14 条は信条による差別を認めない (信教の自由)。また同 20 条は国家にいっさいの宗教的活動や宗教団体への特権付与を禁じ,同 89 条は宗教団体への公金支出を認めない (政教分離)。こうした日本の憲法はアメリカに類似しつつも,いっそう厳格に国家と宗教の関係を規律している。

 憲法条文の歴史的背景としては〈国家神道〉を指摘しなければならない。これは天皇家の宗教たる伊勢神道と民間の神社神道の合体したものである。国家神道の主要な現象は二つある。第 1 は〈国家権力の宗教的正当化〉である。すなわち明治政府は古代の神道的祭政一致を理想とし,その復古主義は 1868 年の神仏判然令やそれに続く排仏毀釈運動にまでなった。また明治憲法は天皇が神々と交わり,万世一系,神聖不可侵であるといい,天皇を中心とする政治体制,つまり〈天皇制〉をつくった。その結果,国民に〈安寧秩序を妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ〉信教の自由を許しながら,政府は,神社は宗教にあらず,国民道徳であるとして神社参拝を国民に強制した。それだけでなく,日本は植民地に神社を建て参拝を強制し,朝鮮では実際,参拝拒否のために 2000 人のキリスト者が投獄され,牧師・長老など教会指導者 50 人が獄死し, 200 の教会が閉鎖されたという (沢正彦《南北朝鮮キリスト教史論》)。第 2 は靖国神社による軍国主義の鼓舞である。同神社は幕末戦死した官軍兵士らを京都で合祀したことに始まる。そして第 2 次世界大戦での敗戦まで戦死者を国家のために一命をささげた英霊であるとして合祀し,生と死の意味づけを国民に与えるのに重要な機能を果たした。同じ機能を持ったのが道府県の招魂社,護国神社であり,市町村の忠魂碑である。

 次に今日の問題状況を述べてみよう。 1945 年日本がポツダム宣言を受諾し,占領軍は同宣言の軍国主義の除去の方針に従い国家神道を解体する〈神道指令〉 (1945 年 12 月 15 日) を出した。こうして国家神道に属した神社はすべて国家と関係のない私的な宗教法人となり現在に至っている。だが戦後,靖国神社の国家管理,国家護持を求める動きは強く, 1969 年には靖国神社法案が国会に提出されるほどになった (反対が多く後に廃案)。その後同神社への天皇,首相らの公式参拝請願運動が起こり,それに合わせて首相,閣僚,国会議員らが多数集団参拝し,それは政教分離の空洞化をもたらすものとして強く批判されている。

 裁判とのかかわりでも信教の自由や政教分離に人々の関心が向けられつつある。第 1 に信教の自由について,線香護摩加持祈裳死亡事件 (1963 年最高裁判決。有罪) と牧師が犯人蔵匿罪に問われた牧会権事件 (1970 年神戸簡裁判決。無罪) が有名である。第 2 に政教分離の最も重要な先例は津地鎮祭訴訟である。そのほか殉職自衛官合祀拒否事件 (原告は 1 審 (1979), 2 審 (1982) で勝訴) や大阪箕面忠魂碑事件 (原告は 1 審 (1982) で勝訴) など,信教の自由にかかわる約 10 件の重要な訴訟がある。これらの事件は根本的には靖国神社の国家管理にかかわっていて,原告らに軍国主義復活阻止と憲法の平和主義の擁護という危機的な歴史感覚が共通してみられる。すなわち政教分離の問題が平和問題としてとらえられている。

笹川 紀勝


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