とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

政教分離 せいきょうぶんり

2006年12月10日 13時23分08秒 | 宗教・哲学・イズム
政教分離 せいきょうぶんり
政教分離とは国家の非宗教性,宗教的中立性の要請,ないしその制度的現実化であり,これにより,宗教は公権力の彼岸に位置づけられ, 〈私事〉として主観的内面性を保障される。
[歴史]
 ヨーロッパにおいて政教分離は一回的できごとではなく,歴史過程のなかで徐々に進行したが,巨視的に見れば三つの画期を指摘することができる。聖職叙任権闘争,宗教戦争,およびフランス革命である。
 中世世界においては,国家と宗教 (キリスト教) の区別は未知の事柄であった。すべての支配は神により立てられていると考えられ,皇帝と教皇はおのおの世俗的秩序と宗教的秩序を代表するのではなく,世俗的・宗教的に未分化な〈ひとつのキリスト教的世界〉のなかの異なる職分の同格の担い手であるとされた。これに対して,聖職叙任権闘争 (1075‐1122) は, 〈精神的〉と〈世俗的〉の分離の原理的決定という意味をもつ。すなわち,神学者たちは宗教的・精神的なものはすべておのれの領分にあるとして, 〈精神的〉と〈世俗的〉の分離を主張した。皇帝は教会から追放されて俗人になり,キリスト者としての義務の履行については教会の判断に従うべきであると説かれたのである。教皇グレゴリウス 7 世が皇帝ハインリヒ 4 世を破門するときには,彼は国王職にふさわしくないと述べたのに対して,カノッサで贖罪する皇帝を赦すときに,破門の政治的効果の廃棄=国王職への復職を問題にしなかったのは,この分離の進行を物語っている。
 〈精神的〉と〈世俗的〉の分離は,叙任権闘争当時のキリスト教的社会においては,精神的なものの優位=教会政治に帰結したが,教会の至上性の主張が政治と宗教の分離を前提とする以上,宗教と政治の関係は可逆的であったことに留意する必要がある。両者の分離は,論理的には,〈国家教会制〉と〈教会国家制〉という二つの相反する可能性を内包しており,教会の至上性の主張は国家主権の確立とメダルの表裏の関係にあったのである。この転換を促したのが,信仰分裂=宗教戦争である。これにより,キリスト教的世界は諸宗派が共通の政治秩序のもとで共同生活を営むことはいかにして可能であるか,という困難な問いに直面することになった。けだし,この衝突は,宗教問題であるのみならず,政治問題でもあったからである。純粋な福音をめぐる衝突は真理をめぐる衝突であり,妥協は許されないこと,異端者と邪宗徒は神への冒済者であり,これを罰することは世俗官憲の任務であることにおいて,カトリック,ルター派,改革派の見解は一致していた。かくして 16,17 世紀のヨーロッパは宗教的内乱の大波に襲われることになったが,この内乱こそ純粋な世俗国家を出現させる動因であった。宗派対立に起因する紛争は真理をめぐる衝突であり,かかるものとして永遠の闘争になる。それゆえ,平和と安全は政治が相争う宗派的諸立場を超越することによってしか回復されない,と考えられたのである。ナバールのアンリ 4 世はカトリックに改宗し,サリカ法典にもとづく王位請求権を行使したが,彼の行動の嚮導原理は支配の安定と国土の平和という政治的考慮であったから,まさに〈政治の勝利〉を意味していた。彼が国内平定後,ただちにナントの王令(1598) を発し,ユグノーに対して市民的諸権利の享受を保障したのは,その証左である。こうして,政治の優位が承認されることにより,すべての諸問題は宗教的真理への拘束づけから解放され,政治の可能性と制約に従属させられることになった。 〈国教制度〉はその所産である。 〈宗教の決定は真理の問題ではない。政治の問題である〉とされ,宗教の保障は政治的権力の決定に服すると説かれたのである。
 次にフランス革命は,国家と宗教の関係について, 〈中立化〉という新たな展開を示した。 〈人および市民の権利宣言〉 (1789) によれば,国家は〈人の消滅することのない自然権を保全する〉という世俗的目的のための〈政治的団結〉であり,今や国家は神の喜捨や真理への奉仕にではなく,自由で平等な自律的個人の意思のうえに基礎づけられた。ここで予定されている個人は,信教の自由を有し,宗派にかかわりなく平等であることを保障されている,宗教から解放された世俗的存在である。こうして,宗教が社会に追放され国家から切断されることによって,政教分離は原理的に確立されたのである。
[内容]
 国家と宗教の結合は,信教の自由の保障にとって有益でないのみならず,国家権力との癒着による宗教の堕落,腐敗の危険を随伴しており,また,国家を宗教的対立にまきこむことにより国家に対する不信,憎悪を国民に生じさせ,国家自体の破壊を導くおそれがある。それゆえ,さしあたり,国家と宗教は分離されていることが望ましい,と考えられる。もっとも,近代立憲主義の諸憲法において国家と宗教の関係は決して一義的ではない。ごくおおざっぱに類型化するなら,第 1 に,イギリスのように,たてまえとしては国教制度が採用されているが,国教以外の宗教に対しても広範な宗教的寛容が認められることにより,実質的に信教の自由が保障されている国々,第 2 に,ドイツ連邦共和国のように,国家と教会はおのおのその固有の領域において独立しているとされ,教会は公法人として憲法上の地位を与えられ,その固有の領域の諸問題についてはそれぞれ独自に処理すべきであるが,競合事項に関しては,政教協約 (コンコルダート) を締結して,双方の合意にもとづいて処理すべきであるとされている国々,第 3 に,アメリカ合衆国やフランスのように,国家と宗教が完全に分離され,国法秩序にとって教会は原則として私法上の諸組織のひとつにすぎないとされている国々などがある。国家が宗教に対していかなる態度をとるかは,それぞれの国々の歴史的諸条件によってかなり相違があり,政教分離は,国民の信教の自由の保障から論理上必然的に帰結されるわけではないのである。それゆえ,政教分離にかかわる諸規定の解釈にあたっては,歴史的文脈のなかでこれを行うことが必要になる。
 日本国憲法は,国家と宗教の関係について, 〈……いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない〉 (第 20 条第 1 項) と述べるとともに, 〈国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない〉 (同第 3 項) と定めるが,あわせて,特に財政面から,〈公金その他の公の財産は,宗教上の組織若しくは団体の使用,便益若しくは維持のため……これを支出し,又はその利用に供してはならない〉 (第 89 条) として,政教分離を裏づけている。そして,明治憲法下においては,信教の自由の保障 (第 28 条) にもかかわらず,神権天皇制と神社神道の国教的地位とが密接不可分な関係にあったこと (この点において 1945 年 12 月 15 日の連合国総司令部の〈国教分離令〉と 46 年 1 月 1 日の天皇の〈人間宣言〉は日本の政教関係史にとって画期的できごとであった),日本では,言語と民族の単一性にもかかわらず,非常に多種多様な宗教が併存していること,それゆえ,国民主権原理の貫徹と信教の自由の実効的保障とにとって政教分離の徹底が不可欠であることなどの歴史的諸事情にかんがみて,上記日本国憲法の諸規定はできるかぎり厳格に解釈されるべきであると考えられる。すなわち,神社神道を公法人としたり,神官・神職に公務員の地位を与えたりすることは,憲法に違反する。宗教団体は,立法権,行政権,裁判権,課税権など,国が独占すべき統治的権力はいっさい行使することができない。国およびその機関は,特定宗教の布教,教化,宣伝を目的とする積極的行為にとどまらず,祈裳,礼拝,儀式,祝典,行事など,およそ宗教的信仰の表現としてなされるすべての行為を,少なくとも当該行為の目的が宗教的意義をもち,その効果が宗教に対する援助,助長,促進,圧迫,干渉になるかぎりで,禁止されている。したがって,内閣総理大臣などが就任,奉答等の名目で靖国神社,伊勢神宮などに参拝することには,憲法上の疑義が生じる余地があろう。 ⇒叙任権闘争
日比野 勤

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