とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

キリスト教とは何か? 1

2006年12月07日 09時47分47秒 | 宗教・哲学・イズム
キリスト教 キリストきょう
キリスト教の本質
【キリスト教とは何か】
 この問いの背後には,かつてイエス・キリスト自身が弟子たちに投げかけた問い〈人々はわたしを何者だと言っているか……あなたたちは,わたしを何者だというのか?〉 (《マタイによる福音書》16 : 13 ~ 20, 《マルコによる福音書》8 : 27 ~ 30,《ルカによる福音書》9 : 18 ~ 21, 《ヨハネによる福音書》6 : 67 ~ 71) がひそんでいる。この後者に答えることが,前者に対する根本的な答えである。逆に,後者の問いを回避すれば,前者はたんなる好奇心,あるいはアカデミックな関心からの問いに成り下がってしまう。キリスト教に向けられた問いは,すべてキリスト自身に行きつかざるをえないのである。
 他方,キリストの全生涯と活動は,彼自身が〈父〉と呼びかけた真実の神とその愛を人々に示すことにささげられた。したがって,キリスト教はキリスト中心であると同時に,それとまったく同じ意味で神中心の宗教である。そして,人間はキリストを通じてのみ真実の神と結びつき,そのことによって永遠の生命と幸福に入ると信じるのがキリスト信者である。広義のキリスト教とは,これらキリスト信者が受けいれている教え,およびこの教えの実践を通じて,またその影響の下に生みだされた道徳,文化,制度などの総体を指す言葉である。こんにち,キリスト教はカトリック教会,プロテスタント諸教派,東方正教会の 3 グループに大別され,総数約 10 億のキリスト信者が全世界に拡散,居住している。
【キリスト教のシンボル】
 キリスト教がはじめて日本に伝えられてから 4 世紀半,明治初年,布教の自由が再び認められてから 1 世紀以上経過したが,キリスト教はいまだに,全般的にいって,外来の異質な宗教という印象を脱していない。しかし,われわれが現在何の抵抗も感じないで使っている言葉のなかには〈世俗化〉されたキリスト教の用語が多くふくまれている。代表的なものとして〈十字架〉〈復活〉〈福音〉〈バイブル (聖書) 〉〈三位一体〉〈洗礼〉〈終末〉〈天国〉などを挙げることができよう。これらの言葉がしばしばキリスト教的起源をはっきり意識しないで用いられている事実 (たとえば苦痛や犠牲を〈十字架〉,必読書を〈バイブル〉などと比喩的に呼ぶ場合) は,ある意味でキリスト教の土着化のしるしとみなされよう。キリスト教が日本文化のなかに定着したことを示すもう一つの例は〈神〉という言葉の用法である。こんにち,日本語の〈神〉は,祖先の霊,山とか樹木に宿る霊などを指すにとどまらず,あきらかにある超越的で絶対的な実在,ないしは最高善としての神を指す言葉になっている。
 キリスト教のシンボルのなかで中心に位置をしめるのは十字架である。キリスト教が輝かしさ,雄大さ,力強さ,豊饒を印象づけるシンボルではなく,極悪な犯罪と恥辱のしるしである十字架によって代表されるという事実は,この宗教の独自性を示している。それは何よりもキリスト教が現世利益 (りやく) を約束する宗教ではないことを意味する。キリスト教は〈愛の宗教〉と呼ばれ,実際に〈神は愛である〉 (《ヨハネの第 1 の手紙》4 : 16) と宣言するが,この愛の原型は十字架につけられたキリストである。さらに十字架は,受肉 (托身),三位一体など,キリスト教の中心的な神秘を予想し,復活の信仰と結びつく。キリスト信者とは自分の十字架を担ってキリストに従う者にほかならない。このように,十字架はキリスト教の教義と実践の全体への道であるが,それと同時に,安易な理解や同調を拒絶するシンボルでもある。
【キリスト教の輪郭】
 つぎに,われわれが十字架を目印にキリスト教に接近しようと試みるとき,キリスト教との出会いのきっかけとなるのは,何よりも聖書,教会,キリスト教道徳 (倫理) の三つであろう。したがって,学問的方法を用いてキリスト教の本質に迫るのに先立って,まずこれら三つの要素に目をむけ,キリスト教の輪郭を描きだすことにしよう。
[聖書]
 聖書に関するキリスト教の根本的主張は,他の宗教の聖典とはちがい,そこに記されているのはたんに教祖の言行や教訓ではなく,まさしく神の言葉だ,というものである。 〈神の言葉としての聖書〉という考えは,神はたんに自然界の事物を通じてではなく,歴史のなかでより親密なしかたで人間に語りかけること,さらに永遠のロゴス (言葉) である神が人間となってこの世界に入ったこと (受肉) を前提とする。したがって,信仰をもってキリストが人となった神であることを肯定しないかぎり,聖書を神の言葉として受けいれることは不可能である。
 こうして,聖書は神の語りかけと,信仰にもとづく人間の応答によって形成される生きた伝承を前提としており,そのなかでのみ成立することができた。他方,書き記されて明確な形をとった聖書は,伝承のなかで中心的な位置をしめ,信仰の規準とみなされるようになった。なぜなら,聖書の著者は神であり,聖書は神の言葉そのものだからである。伝承と聖書の関係をめぐってかつてはカトリックとプロテスタントの間で激しい論争が行われた。聖書の解釈がさまざまの問題をふくむことは確かであるが,その場合,聖書が神の言葉であることは共通の前提となっているのである。 ⇒聖書
[教会]
 多くの場合,われわれとキリスト教との出会いの機会となる教会といえば,教会の建物である。われわれ日本人にとっても教会の建物は親しい眺めであり,そこが礼拝の場,祈りの家であり,そこで説教がなされ,賛美歌が歌われることは広く知られている。しかし,より本来の意味での教会とは,建物よりはむしろキリスト信者の共同体や交わりを指す。ここでも教会はまずさまざまの異なった組織,制度,慣習をもつ人間の社会として立ち現れる。ただし,他の人間的社会とは違い,ここで人々を結びつけているのは血や人間の意志,あるいは合意ではなく,神からの呼びかけである。その意味で教会は〈地上を旅する神の民〉と呼ばれる。さらにこの社会が他の人間的社会から根本的に区別される点は,その成員がたんに相互のコミュニケーションを通じて結びつくだけでなく,より親密な交わり (コミュニオン) において一体となっているところにある。この交わりは神の恵みへの参与にもとづくもので,生者と死者,聖人と罪人をふくむ。ここまでの教会像は,おそらく他の宗教における〈教会〉と共通の面が多いであろう。
 ここからさらに進んで,信仰の光の下にキリスト教独自の教会像を追求するとき, パウロによって描きだされた〈キリストの体corpus Christi〉としての教会との出会いが起こる。この教会像はパウロがキリスト教へと回心するきっかけになった信仰体験にもとづくもので,彼はまだキリストの教会を迫害していたとき,教会に対する迫害はそのままイエス・キリスト自身に対するものであることを啓示された (《使徒行伝》9 : 5)。パウロはたんなる比喩としてではなく,文字どおりの現実――信仰において経験される現実――として,信者たちが〈キリストの体であり,ひとりひとりその部分である〉 (《ローマ人への手紙》12 : 5, 《コリント人への第 1 の手紙》12 : 27) と言明する。パウロはたんに教会を人体にたとえて,それを構成する諸部分や機能の間の調和,連帯の必要性を説いているのではない。むしろ重要なのは,パウロにとって――そしてすべてのキリスト信者にとって――〈生きているのは,もはやわたしではなく,キリストこそわたしのうちで生きている〉 (《ガラテヤ人への手紙》2 : 20) という現実であり,この現実のゆえに教会は“キリストの”体なのである。
 しかし,〈キリストにおいて一つの体〉であるはずの教会は,その歴史の当初から分派活動や対立にむしばまれてきた。すべての信者が完全に一であるようにとのイエス自身の熱烈な祈り (《ヨハネによる福音書》17 : 21 ~ 23) にもかかわらず,彼がえらんだ使徒の一人は裏切り者となった。 〈キリストの神秘な体〉である教会は,無知と欲望のとりこであり,弱さと高慢さの両極を激しくゆれ動く人間の集りであるかぎり,つねに分裂や争いになやまされるであろう。問題はそうした教会の〈現象〉のうちに, 〈キリストの体〉という現実を読みとることが可能かどうかであり,そこに現代人とキリスト教との真実の出会いの可能性がかかっている。
[キリスト教道徳 (倫理) ]
 人々とキリスト教との出会いを成立させる第 3 の機会は,キリスト信者の生き方としてのキリスト教道徳である。キリスト教はけっして道徳の教えではない。しかし,キリスト教が古代世界の道徳に大きな衝撃を与え,その影響の下に新しい道徳が形成されたこと,そしてこの新しい道徳がしばしばキリスト教の本質を示すものとして受けとられていることは確かである。
 キリスト教道徳の特徴としては,〈恥の道徳〉に対して〈罪の道徳〉であること,その戒律の厳しさ,肉体的欲望を否定する禁欲的傾向などが指摘されることが多い。しかし,その根本は人間に対する神の無限の愛とあわれみにてらして,まさしく神の子,〈神のかたどり (似姿) 〉と呼ばれるにふさわしい人間の尊厳を確立したことである。人間の生命はたんに過ぎゆく時間のなかでつかのまの成長をとげるだけでなく,神の恵みによって永遠の生命へと入るのであり,人間の尊厳はそこに見いだされる。このことによって道徳は地上世界,あるいは国家社会の枠組を超え出て,絶対者である神からの呼びかけ,それに対する人間の自由な応答という場面においてとらえられるようになった。
 キリスト教的道徳の特徴はギリシア・ローマの古典古代文化における理想的人間像と,キリスト教的人間像との比較を通じてあきらかにされる。前者が四つの枢要徳 virtutes cardinales,すなわち知恵 (知慮),正義,勇気,節制によって構成されるのにたいして,後者はその上に信仰,希望,愛の三つを付け加え,そのことによってはじめて真実の徳が成立する,と主張する。なぜなら,キリストの福音によって人間には古代の賢者や哲学者が夢みることもしなかったほどの栄光が約束されたのであるが,この栄光に達するためには信仰,希望,愛による魂のきよめと強化が必要だからである。さらにこの三つの付加によって枢要徳そのものも深い変容をこうむったのであり,たとえば古代ギリシアにおいて勇気ある行為の典型は戦場における英雄的な戦士において見いだされたのに対して,キリスト教的道徳においては死に至るまで信仰を証しする殉教者において見いだされるのである。
 キリスト教的道徳は二つの顔をもっている。その一つはユダヤの律法と結びつく自然法で,これは神によって創造された人間本性,ないしは世界秩序に根ざす倫理規範である。もう一つは,それのみが無条件に妥当するといわれる愛の掟である。この二つは矛盾するのか,それとも両立するのか,についてはキリスト教内部でもさまざまの見解があるが,それらが歴史的にキリスト教的道徳の主要な内容とされてきたこと,そしてそれらが人々とキリスト教との出会いの機会となってきたことは否定できない。
【外から見たキリスト教】
 つづいて,実証的な学問である宗教学 (比較宗教学,宗教現象学,宗教史学をふくむ) の助けをかりて,歴史的現象としてのキリスト教に接近し,できるかぎり客観的にその特徴を浮かびあがらせよう。このように“外から”眺められたとき,キリスト教が示す第 1 の特徴は,それが世界・人類的宗教だということであり,その点でまずもろもろの守護神・祖先崇拝を内容とする部族・民族宗教から区別される。歴史の特定の時点,世界の特定の場所において出現しながらも,キリスト教はいかなる特定の民族,人種,地域にも閉じこめられてはいない“開かれた”宗教である。日本ではキリスト教が“西洋の”宗教と呼ばれることが多いが,現実のキリスト教は東洋と西洋の接点で誕生し,当初からその教えが〈すべての国の人々〉 (《マタイによる福音書》28 : 19), 〈全世界のすべての者〉 (《マルコによる福音書》16 : 15) に属することを自覚していた。キリスト教は唯一の世界・人類的宗教であるとはいえないが,この性格を最も顕著に示してきたことはたしかである。
 第 2 に,キリスト教は高度の発展段階に達した人間文化を素材もしくは基盤として成立した宗教であり,宗教の原初的形態から区別された意味での文化的宗教である。キリスト教は哲学,芸術,政治,法律など人間文化のもろもろの領域との間に,時として対立をふくむ緊張関係を保ちつつ,それらの領域に浸透し,強力に影響を及ぼしてきた。将来においても,キリスト教は人間文化に対して内から霊感を与えつつ,さまざまの形で〈受肉〉を実現していくものと考えられる。
 第 3 に,キリスト教は歴史的啓示宗教であり,信仰の対象および根拠としての神的啓示が中心となる。その点でキリスト教はユダヤ教,イスラム教と共通であり,仏教から明確に区別される。歴史的啓示宗教は,世界を超越する唯一絶対なる神が,特定の時・場所において歴史に介入し,みずからをあらわしたことを信じる宗教であり,有神論ないし一神論 (教) と呼ばれる宗教の最も純粋な形態である。そのうちで,預言者や宗教的天才を通じて啓示がなされたと主張するにとどまらず,歴史的人物であるナザレのイエスが神であり,神の完全な自己啓示であるとするキリスト教は独自の位置を占めている。
 第 4 に,キリスト教は一定の教義 (ドグマ) を信仰の対象として固持する教義宗教であり,礼拝の儀式や慣習をおもな内容とする祭祀宗教,宗教体験を明確な言語で表現し教義化することに対して,懐疑的な悟りの宗教などから区別される。キリスト教は神とその業 (わざ) が測りがたい神秘であることを根本的に認めつつ,その信仰は真理であり,そして信仰の真理は明確に定式化されうることをつねに主張してきた。これは使徒時代以来のさまざまの信条制定の歴史,およびキリスト教の戦闘的,非寛容的性格を示すものとしてしばしば批判される,正統―異端抗争の歴史にてらして明らかである。言語表現がより厳密なものになる,という意味での教義発展があることはいうまでもないが,それは必ずしも教義の基本的内容そのものの変化を意味するものではない。
 第 5 に,キリスト教は終末論的宗教であり,もろもろの現世利益宗教から区別される。しかし,だからといってキリスト教は厭世的,現世逃避的という意味での来世宗教であるというのは正しくない。なぜなら,キリスト教でいう終末はこの世界および歴史の完成ないし成就だからであり,イエス自身が〈神の国〉についての譬 (たと) えで明らかにしたように,それはある意味では“いま,ここに”現存しているからである。キリスト教は歴史の一こまとしてその役割を演じた上で,やがて消え去るのではなく,世の終末まで旅をつづけるという意味でも終末論的宗教である。さらに,キリスト教はこの世界と歴史,その文化と権力をけっして絶対視せず,また自己をそれらと同一視することもない――この点に関してキリスト信者がこれまで多くの誤りを犯したことは否定できない――という意味でも終末論的宗教である。
 最後に,もろもろの世界的宗教のなかで,キリスト教は人格的存在としての人間の,多様な,そして一見対立的な要求のすべてを充足するものであるところにその特徴があり,その意味で人格の宗教である。人間の人格は肉であると同時に霊,時間のうちで生き成長すると同時に永遠をめざし,神以外の何者も知りえない魂の深淵を保ちつつ,他の人格との交わりにおいてはじめて人格たりうる社会的存在である。キリスト教はこうした人格の対立的な諸要求を極限まで徹底させることを通じて統一しており,この〈対立するものの一致 coincidentia oppositorum〉こそ,宗教としてのキリスト教の根本的特徴を示すものといえる。
【内から見たキリスト教】
 〈キリスト教とは何か〉という問いは,遅かれ早かれ,キリスト信者自身は自分たちの宗教をどう理解しているのか,という問いに行きつかざるをえない。それは信仰の光の下に理解されたキリスト教であり,外側から中立的な目で眺められているのではなく,すでに態度決定を下した者が内面からとらえるキリスト教である。具体的にいうと,問題となっているのは,キリスト信者は自分たちの信仰の本質的内容をどのように自覚しているかである。カトリック,プロテスタント,東方正教会の相違を超えて,キリスト教信仰の本質的要素を明らかにしようとする試みが,多くの否定的,懐疑的反応に出会うことはたしかである。しかし人間の側から見ればさまざまの宗派が対立していても,それは神によって保証された〈信仰は一つ〉 (《エペソ人への手紙》4 : 5) という現実を破壊するものではない。
 いま〈使徒信条〉と呼ばれるキリスト教の基本信条の最古の形態をよりどころに論述を進めると,まずキリスト教信仰の全体の枠組を確定するのは,見えるものと見えないものすべての創造主,宇宙を造り主宰すると同時に歴史の支配者である神に対する信仰である。この神はたんに畏怖すべき絶対的権力者ではなく,イエスが数々の譬え (とりわけ〈放蕩息子〉の譬え) で示したように, 〈父よ〉と呼びかけることのできる愛とあわれみの神である。神は創造主として万物に存在を与えるにとどまらず,永遠の生命と至福という祝宴の座につくように,すべての人間を招き入れる恩寵の神である。キリスト信者は究極的に,このような恩寵の現実にもとづいて世界,人間,歴史を理解するのである。
 キリスト信者が〈父よ〉と呼びかける神は,唯一なる神であると同時に〈父〉〈子〉〈聖霊〉と呼ばれる三つのペルソナ (位格) における神である (三位一体)。この三一なる神という神秘は,神がみずからの内的生命と愛の秘密を,人間が垣間見ることを許したものであり,キリスト教の中心的教義である。これによってキリスト教は同じく一神教であるユダヤ教,イスラム教から明確に区別される。つぎにキリスト信者は,マリアから生まれ,十字架につけられて死に,3 日目に復活して弟子たちに現れたイエスはまことの神であると信じて告白する。 〈子〉なる神,すなわち神の永遠のロゴスが人間となったのがイエス・キリストであることを肯定する受肉 (托身) の教義は,三一なる神と並んでキリスト教の中心的神秘である。
 受肉は人類の救いの歴史における中心的できごとであり,キリスト教の立場からの神および人間の理解が,根本的にそこにおいて成立する場である。なぜなら〈わたしを見た者は父を見たのである〉 (《ヨハネによる福音書》14 : 9) といわれているように,人間イエスのほかには神の姿を探求すべき場所はなく,また逆に人間イエスが神の自己啓示の場となりえたことのうちに,人間存在の最も深い意味がふくまれているからである。いいかえると,キリスト信者は世界や歴史にもとづいてキリストを理解するのではなく,逆にキリストから放射される光のなかで世界と歴史の意味を理解しようと試みる。その意味で“内から見た”キリスト教とは,キリスト中心の世界・歴史像であるといえる。
 つぎに“内からの”キリスト教理解にしたがえば,教会も聖なるものであり,信仰の対象である。教会が〈キリストの体〉であることについてはすでにのべたが,ここでは教会と〈神の国〉との関係に注目することによって,キリスト信者にとって教会は何であるかを明らかにしよう。イエスは宣教活動の当初に,イスラエルが待望していた〈神の国〉の到来,すなわち救いの実現を宣言したが,その同じイエスが世の終末における〈神の国〉の完成へむけて教会を設立した。教会は歴史の終末における〈神の国〉の完成を信じ,祈り求めるのであるから,教会と〈神の国〉とは同じものではない。しかし,教会において神の救いの業 (わざ) はすでに始まっているかぎりでは,教会は〈神の国〉の〈ひそかな始まり〉である。とくにカトリックでは〈勝利の教会〉と呼ばれる,天国の聖人たちの交わりは〈神の国〉を予示すると考えている。この考えによれば,教会とは,生きている信者だけから構成される教会,つまり悪の力と戦いながら地上を旅する〈戦闘の教会〉だけに限られるのではなく, 〈浄 (きよ) めの教会〉と呼ばれる死者たちの交わり,それに上述の〈勝利の教会〉がふくまれることになろう。すなわち,教会はけっして地上のユートピアの建設をめざすのではなく,むしろすべての死者,天国の聖人たちと連帯しつつ〈神の国〉を待望しているとみなされるのである。
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